武将列伝帖

よしが やじろう よりさだ

吉賀弥二郎頼貞

【氏】不明【姓】不明【名】吉賀【通称】弥二郎【諱】頼貞

通 称

吉賀想左衛門(よしが そうざえもん)

出 身

不明

官 途

左衛門尉

所 属

大内氏(吉見氏)⇒毛利氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

石見国津和野を領した有力国人、吉見家の家臣で吉見正頼の側近。

 

1554年(天文23年)3月2日~3日、嘉年勝山城の合戦に援軍として参陣。

吉見方の総大将、波多野秀信の救援として石見国茶臼山城の支城(西井坂)に籠もる町野隆治と戦うが敗れる。

嘉年八幡宮まで退き、息子の吉賀弥六と共に立て篭もって応戦するが、この戦いで吉賀弥六は討死している。

 

1556年(弘治2年)、黒谷合戦では上領頼兼と共に益田家の黒周原城を攻撃。

進軍中に益田家の武将、喜島宗勝の奇襲に遭い捕縛され人質となる。

 

大内輝弘が山口に侵入した際も吉見家の将兵を率いて援軍に向かっているが敗れ負傷したとある。

 

1561年~1562年(永禄4年~5年)、第二次門司合戦に戦功があり、吉見正頼から感状を賜っている。

この頃から毛利軍(吉見隊)の所属と記述に見える。

 

1564(永禄7年)、因幡鹿野合戦では尼子氏山名氏連合軍に対して一条市介に従い軍功があり、一条市介土屋七郎左衛門と並び感状を賜った。

 

1580年(天正8年)、吉見広頼から阿武郡高佐郷五石・吉部郷二石五斗・得佐郷二石四斗・大井郷一斗をあわせた五石の知行を賜っている。

 

戦場では敗戦の目立つ武将であり指揮官としての評価は高くないが誠実な人柄で裏表もなく、吉見正頼からは大変気に入られた人物と伝えられている。

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