所 属
大内
吉見
▶
毛利
よみがな
人物名
よしが やじろう よりさだ
吉賀弥二郎頼貞
別 名
よしが そうざえもん
吉賀想左衛門
官 途
不詳(左衛門尉)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
頼貞
列 伝
石見国津和野を領した有力国人、吉見家の家臣で吉見正頼の側近。
1554年4月2日(天文23年3月1日)
吉見正頼攻略の為、陶晴賢は大内義長を総大将に命じ出陣させる。
1554年4月3日(天文23年3月2日)
石見国三本松城の戦いでは吉見方の波多野秀信の救援として出陣する。
吉見範弘、下瀬頼定は石見国嘉年城に籠城し、自身は勝山より少し離れた場所に息子の吉賀弥六と共に布陣し、石見国茶臼山城の支城(西井坂)に籠もる町野隆治と戦うが敗れる。
1554年4月4日(天文23年3月3日)
嘉年八幡宮まで退き、吉賀弥六と共に立て籠って応戦するが吉賀弥六を失う。
嘉年城の落城に伴い戦場より敗走する。
1556年(弘治2年)
黒谷合戦では上領頼兼と共に益田家の黒周原城を攻撃する。
進軍中に益田方の喜島宗勝の奇襲に遭い捕縛され人質となる。
大内輝弘が山口に侵入した際も吉見家の将兵を率いて援軍に向かっているが敗れ負傷したとある。
1561年~1562年(永禄4年~5年)
第二次門司合戦に戦功があり、吉見正頼から感状を賜っている。
この頃から毛利方(吉見隊)の所属とする。
1564年8月28日(永禄7年7月22日)
因幡鹿野合戦では尼子氏と山名氏連合軍に対して一条市介に従い軍功があり、一条市介、土屋七郎左衛門と共に感状を賜っている。
1580年(天正8年)
吉見広頼から阿武郡高佐郷五石、吉部郷二石五斗、得佐郷二石四斗、大井郷一斗を合わせた五石の知行を賜っている。
戦場では敗戦の目立つ武将であり指揮官としての評価は高くないが誠実な人柄で裏表もなく、吉見正頼からは大変気に入られた人物と伝えられている。