よみがな

人物名

なんじょう びぜんのかみ もとのぶ

南条備前守元信

出身

不詳

生年

不詳

没年

不詳

賀茂

朝臣

南条

通称

備前守

元信

官途

備前守

別名

南条備前守信元(なんじょう びぜんのかみ のぶもと)

所属

南条

列 伝

南条宗皓の次男とされる人物。

兄に南条宗勝、弟に南条信正。嫡男に南条元周。伯耆民談記では南条宗勝の舎弟とする。

伯耆国打吹城、伯耆国田後城、伯耆国八橋城など、東伯耆の重要拠点であった諸城の城主を歴任している。

一部の郷土史では諱を「信元」とする記述も散見されるが、行動や出来事から概ね同一人物と推定される。

伯耆民談記に於いても「田尻の城の事」「八橋の城の事」では「備前守元信」、「羽衣石城の事」では「備前守信元」と同書であっても異なる記述が見られるが、これは後世に多数の執筆者が加筆していったことに起因すると考えられる。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受けた南条宗勝尼子氏より伯耆国羽衣石城を奪還する。

東伯耆から尼子方の勢力が排除されると旧領であった久米郡内の所領も南条方へと回復され、伯耆国打吹城の城番を任じられている。

この頃、打吹城の主郭は現在の二ノ丸とされる打吹城備前丸に所在したと考えられ、築城及び住居を兼ねたことから「備前丸」と呼称する所以としている。

 

1565年(永禄8年)9月、尼子方の吉田源四郎が立て籠もる八橋城が毛利方の攻撃により陥落する。

八橋城は毛利方の領有として三村家親の部将が城番として置かれたとする一方、東郷町誌では落城後に南条宗勝へと預けられた上に城番を任ぜられたとしている。

伯耆民談記では八橋城杉原盛重の所領となり、次男の杉原景盛が城主へ任じられたために八橋城を追われ、田後城へ移ったことに憤慨する描写が見える。

但し、杉原盛重が健在のうちから杉原景盛八橋城の城主になりえないこと、南条宗勝杉原盛重によって毒殺されたことが誠のように描かれること、合戦の時系列に不整合な点がみられることから創作された物語のような印象を受ける記述となる。(伯耆民談記 巻之第十 河村郡古城之部 一、羽衣石城)

 

1575年(天正3年)頃には弟の南条信正へ「備前守」の官途を譲っている。(伯耆民談記 巻之第十 河村郡古城之部 羽衣石城の事)

 

1579年(天正7年)、南条氏織田氏へと与することとなり、毛利氏とは袂を別っている。

同年7月7日、毛利方は吉川元春を総大将とし、出雲、隠岐、石見、周防の兵13,000騎を率いて東伯耆へと侵攻する。

同月21日、羽衣石城へと向かう吉川元長の攻撃を受け、同日卯刻(午前6時頃)、田後城は落城とある。(伯耆民談記)

圧倒的な兵力差であったが家臣の田原市之進の働きもあり、毛利方の包囲網を突破し南条元周と共に羽衣石城へと撤退している。

同月29日、羽衣石城は落城。

伯耆民談記ではこの合戦を陰徳太平記に記述される1582年(天正10年)9月23日の合戦のこととしている。

 

1579年(天正7年)12月23日、南条方の南条元続南条元清が3,000騎を率いて打吹城へ攻撃を行うが、吉川方の反撃を受け撃退されている。

田後城から嫡男の南条元周に300騎を預け援軍に向かわせたが間に合わず、羽衣石城へと撤退している。(陰徳太平記 巻六十一 伯州羽衣石山向城 付 宇津吹城合戦之事)

 

1582年(天正10年)、杉原盛重の家督を継いだ杉原景盛は織田方に内通したとする嫌疑を受け、持城であった八橋城吉川元長によって攻め落とされる。

 

1584年~1585年(天正12年~天正13年)には京芸和睦で八橋城は南条領となり、山田越中守正寿院利庵などと共に城番を任されたとしている。

伯耆民談記では南条元続が領主の頃の出来事として八橋城から打吹城へと移り、其の後田後城へ移ったとしている。

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