伯耆国 河村郡
たじりじょう
田後城
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町田後
城 名
田後城(たじりじょう)
別 名
田尻城 (たじりじょう)…因伯記要における表記。伯耆民談記でも混在して表記される。
田後屋形(たじりやかた)…南条元信の居館に因む呼称。
田後陣舎(たじりじんや)…南条元信の居館に因む呼称。
築城主
南条宗元
築城年
不詳
廃城年
1579年~1580年(天正7年~天正8年)
形 態
平城、海城
遺 構
土塁、虎口、川堀
現 状
住宅地、田後神社
備 考
史跡指定なし
縄張図
田後城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
陰徳太平記(明治44年5月 犬山仙之助)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
羽衣石南条氏系図
因伯記要(明治40年5月 鳥取縣)
羽合町史 前編(昭和42年10月1日 羽合町史編さん委員会)
新修 羽合町史(平成6年1月 羽合町史編さん委員会)
年 表
不明
1579年
天正7年
7月21日、吉川元長の攻撃を受け落城とある。
毛利方は焼失した当城を再建することはなく、この時の落城を以て廃城と伝える。(伯耆民談記 田尻の城の事)
1580年
天正8年
概 略
伯耆国日下山城、伯耆国清谷城(竹ノ尾砦)、伯耆国長江城などが所在する太平山から北側に続く尾根先端に所在したと伝わる。
宅地化など造成によって城砦に関する遺構や痕跡は消滅したとされているが、城砦の形状は平城であったと推定されている。
城郭に関係する痕跡は消滅とするが、字「城の内」の住宅地から北端の田後神社まで水路沿いに土塁が残されていること、伯耆民談記などには重要な軍議が行われたり、数百名規模の援兵が当城から出陣するなど、馬の山へ対する防塁を備えた長大な城砦であった可能性も推測される。
鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では字「城の内」の住宅地を所在地と推定、新修羽合町史では字「城ノ内」の南端に「しろんち」の俗称が残るとしている。
西側を流れる天神川を運河とし、伯耆国羽衣石城や伯耆国岩倉城などと連携をとるための海城とする役割を有していたことも推測される。
伯耆民談記 巻之第十一 河村郡 古城之部 羽衣石南條伯耆守数度合戦の事(附り滅亡の事)
(略)明ければ天正八年八月、吉川駿河守元春多勢を引具し当国へ押入り、尾高の城主杉原播磨守盛重を先手として東伯耆に乱入し馬の山に本陣を据え方々へ手遣いせらる。南條勘兵衛元続、舎弟小鴨左衛門尉元清、南條九郎衛門元秋、南條兵庫頭元周、山名小三郎氏豊等居並びて圍まれんには謀不足に似たり。かけ合せの勝負を決すべしとて同十二日各日下の端へ出張し、(田尻の山鼻という今小社あり日下太明神是れ也)軍評議を為し、翌十三日早天より日下の川を渡りて備う。先陣山名六百余人、中軍南條一千余人、後陣は小鴨八百余人、馬の山に向かいて鬨を作る。吉川元春是を見て嫡子治部少輔元長を先陣として段々と備え突かかる。山名一戦に敗北して南條が陣に崩れかかる。南條が勢暫く踏みこたえ戦いしかども吉川元春聞えたる猛将にして急に士卒に下知して突懸りける故、南條小鴨総敗軍と成りて討たるる者数を知らず。散々の体にて羽衣石岩倉の城へ引取りける。(略)
伯耆民談記(羽衣石南條伯耆守数度合戦の事(附り滅亡の事))では1580年(天正8年)8月の出来事とし、同月12日に当城で軍議評定が行われたとする記述が見える。(後述の「田尻の城の事」では天正7年の出来事としている)
「日下の端」と表現されることから日下山城の出城であったとも認識できる。
伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 田尻の城の事
下の郷にあり。今田尻村の南の方に城あと有り。字を城の内という畑あり。当城には南條伯耆守舎弟、備前守元信居住し、其子兵庫守元周相続せり。然るに天正七年、伯耆守上方へ一味し羽柴秀吉の手に属し依之毛利家の大将吉川駿河守元春、一萬三千余の人数にて当国へ押入り尾高の杉原播磨守一族を先鋒として同七月上旬元春は河村郡橋津灘馬の山に着陣し其子治部少輔元長は久米郡國坂村茶臼山に屯す。然るに此城両陣の間にはさまれ有る故、先ず手始めに踏み破り、其後羽衣石へ押寄せ攻む可しと軍議して元長茶臼山を打立。同廿一日卯の刻当城へ取りかかる。兵庫頭も士卒を励まし防ぎけれども寄手多勢なれば遂に叶わず羽衣石へ逃込けり。家来田原市之進、武勇の者にて天晴防ぎ戦い、城に火をかけ焼き払い、一方の圍を突き破り、是も羽衣石へ引取りたり。此時城滅亡す。
伯耆民談記(田尻の城の事)では村の南方に城跡の所在を記している。
城主は南条方の南条元信、南条元周の親子、南条元信は居館として利用したと伝えている。
1579年(天正7年)7月21日卯の刻(午前6時頃)、毛利方の吉川元長によって攻められ落城とある。
同じ頃に伯耆国松ケ崎城も落城ととされる。
田原市之進の活躍も及ばず、城に火をかけ南条元周らは羽衣石城へと退却している。(羽衣石南条氏系図)
焼け落ちた城砦が再建されることはなかったようでこの時の落城を以て廃城とされる。
因伯記要 第一章沿革の条 第五 織田豊臣時代 秀吉伯耆へ入るの項
因伯記要では吉川元長によって突破されたことのみ触れられている。
伯耆民談記 巻之第十 河村郡古城之部 羽衣石城の事
(略)伯父備前守信元(略)其代官として某彼地(八橋城)に居住せしに(略)某をば田尻の城に移し(略)
(略)田尻の城には南條兵庫守元周(略)又、南條備前守信元も田後の城には嫡子兵庫守を入置き、其身は羽衣石に籠りたるとかや(略)
伯耆民談記(巻之第十 河村郡古城之部 羽衣石城の事)では南条元信は当初、南条宗勝の代官として伯耆国八橋城を居城としていたが、杉原盛重の讒言により当城へと移され、八橋の地を奪われたとしている。
南条氏と杉原氏の間には長年に渡る因縁があったと伝えられ、最終的に南条宗勝は杉原盛重によって毒殺されたとしている。
一部に南条宗勝が杉原盛重を毒殺するなど全く逆の伝承もあり、伯耆民談記に於いても創作や脚色が加えられているものと推測されるが、南条氏からの視点で杉原氏との対立が描かれている。
杉原氏からの攻撃を想定し、羽衣石城では籠城策を採用するため長和田表に堀や塀を築いたとされ、防衛線上の城砦のひとつとして守将と併せて記されている。
陰徳太平記では長郷田合戦についての記述は見えるが当城の名称は登場しない。
羽合町史では南条氏の羽衣石城の支城としており、条文及び記録は全く残っていないとしている。
地域内の南端を「しろんち(城ノ内)」と呼び、南条元信が城主と伝え、城砦の草創を南条家8代当主、南条宗元が羽衣石城の出城として築いたことを興りとしている。
写 真
2021年5月30日