武将列伝帖

なんじょう ひょうごのかみ もとちか

南条兵庫頭元周 / 南条兵庫守元周

【氏】賀茂【姓】朝臣【名】南条【通称】兵庫頭【諱】元周

別 名

出 身

不明

官 途

兵庫頭

所 属

南条氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

南条元信の嫡男。後に父より伯耆国田後城を継承して城主となる。

伯耆民談記では一部に官途を「兵庫守」と記述されている。

田後城の城主となった後も南条元信と行動を共にする描写が見られ、父の名代として一軍を率いて戦場へ赴くことも度々あったようである。

家督を相続したが「備前守」の官途は譲られず、南条家の家中で「備前守」が重要な意味を持つ官途であったことが伺える。

 

1579年(天正7年)、南条氏織田氏へと与することとなり、毛利氏と袂を別っている。

同年7月7日、毛利方は吉川元春を総大将とし、出雲、隠岐、石見、周防の兵13,000騎を率いて東伯耆へと侵攻する。

同月21日、吉川元長の攻撃を受け同日卯刻(午前6時頃)、田後城は落城とある。(伯耆民談記)

圧倒的な兵力差であったが家臣の田原市之進の働きもあり、毛利方の包囲網を突破し南条元信と共に伯耆国羽衣石城へと撤退している。

同月29日、羽衣石城は落城とある。

伯耆民談記ではこの合戦を陰徳太平記に記述される1582年(天正10年)9月23日の合戦のこととしている。

 

1579年(天正7年)12月23日、南条方の南条元続南条元清が3,000騎を率いて伯耆国打吹城へ攻撃を行うが、吉川方の反撃を受け撃退されている。

田後城からは南条元信の名代として300騎を預けられ援軍に向かうが間に合わず、羽衣石城へと撤退している。(陰徳太平記 巻六十一 伯州羽衣石山向城 付 宇津吹城合戦之事)

 

1580年(天正8年)5月25日、毛利方の吉川元長により、南条方の小鴨元清が立て籠もる伯耆国岩倉城が攻撃を受ける。

同日、羽衣石城からの援軍として300余騎を率いて救援に向かうが、打吹城倉吉)近辺まで進軍したところで岩倉城落城の報せを受け、小鴨元清羽衣石城へ無事に落ち延びたことも確認したため、羽衣石城へと引き返している。(伯耆民談記)

 

1580年(天正8年)8月、吉川方の吉川元春が8,000騎を従え、出雲国月山富田城から伯耆国八橋城へと進軍する。

同月12日、南条元続小鴨元清南条元秋山名氏豊を交えた軍議評定が日下ヶ鼻にて行われ、同時に南条方は長瀬川を渡河して吉川方に備える。

同月13日、吉川元春は伯耆国馬ノ山砦吉川元長が伯耆国茶臼山城へ布陣とあり、吉川方の総兵力は25,000騎に及んだとある。

同日、南条方の2,400騎(先鋒の山名氏豊が600騎、本隊の南条元続が1,000騎、後詰の小鴨元清が800騎)は吉川元春の本陣を急襲するが、山名氏豊杉原盛重の部隊との戦闘で壊滅、敵本陣を狙った南条方本隊も吉川元長の迎撃に阻まれ前進できず、南条元秋を失うなど甚大な被害を出したために南条方の部隊は潰走し、その日のうちに南条方の敗北で勝敗が決している。

 

合戦後の明確な消息は不明とされるが一説には羽衣石城へと撤退したため、居城であった田後城は放棄されたとしている。

1579年(天正7年)7月21日の田後城の落城と、1580年(天正8年)8月13日の敗戦による田後城の放棄は同一の出来事と推測されるが、後者には南条元信が登場しないなど明確な違いも見える。

陰徳太平記と伯耆民談記でもそれぞれ時期が異なったり、詳細(兵力数や指揮官)が混ざったりしているため、短時間に羽衣石城田後城が複数回落城するように見受けられる。

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