伯耆古城図録

うつぶきじょう

打吹城 / 宇津吹城 / 宇津葺城

鳥取県倉吉市仲ノ町 / 鳥取県倉吉市葵町 / 鳥取県倉吉市みどり町 / 鳥取県倉吉市鍛冶町

別 名

倉吉城(くらよしじょう)…伯耆民談記などに記述が見え、久米郡の政庁とする城郭名。

久米城(くめじょう)…里見家由来記に記述される名称。

南条宗勝之端城(なんじょうむねかつのはじろ)…草刈将監覚書で当城を意味する呼称。

遺 構

郭跡、土塁、虎口、堀切、空堀、横堀、竪堀、畝状竪堀、枡形、石垣、櫓跡、居館跡、井戸跡

堀については登山道の整備に伴う工事や「ち号演習」による塹壕敷設の影響を受けた可能性が高い。

現 状

山林、原野、鎮霊神社、長谷寺など

城 主

(伯耆山名方)山名師義山名澄之山名氏豊山名煕之

(尼子方)南条喜右衛門尉

(吉川方)吉川元春二宮木工助羽根兵庫助元安牛尾大炊助北谷刑部少輔

(毛利方)肥塚与四郎

(南条方)南条宗勝南条信正小鴨元清山田越中守

(中村方)中村栄忠山田越中守

(里見方)里見忠義

(池田方)伊木忠貞荒尾嵩就荒尾宣就荒尾秀就荒尾勝就荒尾甫就荒尾斯就荒尾厚就荒尾為就荒尾世就荒尾直就

築城年

1356年~1361年(延文年間)、1370年(応安3年)

廃城年

1615年(元和元年)

築城主

山名師義

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

草刈将監覚書

倉吉市誌 (昭和31年10月 倉吉市誌編さん委員会)

倉吉市史(昭和48年11月 倉吉市史編纂委員会)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

東郷町誌 資料編(昭和62年12月 東郷町誌編さん委員会)

縄張図

打吹城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

標高204メートル、打吹山の山頂を中心として築かれた山城と伝える。

主要な郭群にはそれぞれ名称や別称が伝えられており、統治者が伯耆山名氏から南条氏里見氏へと移り変わるにつれ増改築が施された城郭であることが推測される。

山頂へと主郭機能が移った頃には現在の構成と近い郭配置へ整えられたと考えられ、主郭北側直下の腰郭に所在する出丸の打吹城小鴨丸を併せた縄張までを本丸とする。

本丸の北西端と南西端には木戸を設置していたと考えられる痕跡が見え、北西端の木戸北側には土塁を配した郭跡が残っていることから番所などが併設されていたことも伺える。

主郭の北西部(郭と虎口の接続口)には瓦片が散布しており、天守台石垣の破壊痕と併せて破城の名残とする説が見える。

城域は打吹山の山塊に広く展開し、本丸から西へやや下った場所に二ノ丸の打吹城備前丸、更に北西に下った場所に三ノ丸の打吹城越中丸が所在する。

打吹城越中丸から北の堀切を越えた先には打吹城元清丸と伝える出丸が所在し、城下町と接続する。

南条氏が領有した頃は打吹山の北側山麓には南条屋敷備前屋敷が置かれ、里見氏へと領主が変わると山麓の北東側に里見屋敷が置かれている。

当城が廃城となった後は南条屋敷の北側に倉吉陣屋が置かれ、以降は久米郡の政庁としての機能を担ったと伝えている。

 

築城については延文年間(1356年~1361年)、山名師義による築城を伝える。

但し、山名師義の居城は引き続き伯耆国田内城に置かれたと考えられることから、築城当初の規模は簡素で小規模なものに留まると考えられる。

一説には1370年(応安3年)、当城の一応の完成を以て田内城より守護所の機能と城下町の一部を移転し、田内城は廃城になったとしている。

 

1544年(天文13年)、天神川と小鴨川の氾濫により田内城の城下町(見日千軒:みるかせんげ)が流出したことに伴い、田内城下は当城下へ移転されたと伝える。

弘治年間(1555年~1558年)から永禄年間(1558年~1570年)の城下町の規模は人家三百余りの邑里であったとし、城下町が本格的に栄え始めるのは1582年(天正10年)以降からとしている。

 

1560年(永禄3年)、因幡国や美作国に拠る草刈党を率いた草刈景継によって攻撃を受けたと記される。(草刈将監覚書)

同年10月頃、当城を守備していたのは尼子方に与した南条喜右衛門尉とする。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受けた南条宗勝尼子氏より家城であった伯耆国羽衣石城を奪還したことに伴い、旧領であった久米郡内の所領も回復しており、当城には南条備前守山田越中守など重臣が城番として置かれている。

 

陰徳太平記 巻六十一 伯州羽衣石山向城 付 宇津吹城合戦之事

(略)南条元清が家城、岩倉の向城には宇津葺に二宮木工助、羽根兵庫助元安、牛尾大炊助、北谷刑部少輔。

(略)此を各芸州へ帰給ければ南条兄弟倡(いざ)とよ宇津吹の城を攻破んとて。南条伯耆守元続、同左衛門進元清、三千餘騎を引率して天正七年十二月二十三日に押寄たり。折しも大雪俄に降来て甚寒かりければ諸卒手凍えて弓を引き、鉄砲提ぐべき様もなし。城中には下戸には餅多く食せ、上戸には酒煖めて吞せ。敵の近付を待所に、元続、元清、頻りに押、太鼓を打ち、再拜を振て蒐れと下知しける間、曳々(えいえい)聲を上て進みけり。城中より羽根、牛尾、北谷並に元春よりの検使、二宮木工助、散々に射立突て出ければ敵、一怺えも怺えず颯と引を見て。

牛尾大炊助、卯山善四郎、引敵の後を慕ける所に南条が郎党、一條猪助取て返し。大炊助と渡合散々に戦ける所を善四郎馳寄て一條が胸板をしたたかに突ければ下なる川へ落けるが究竟の水練なれば具足著ながら泳ぎ上りぬ。さらば命生たるを希有にして引帰るかと見る所に猪介懸ると計知て引と云事を知らず名にし負たる猪武者なれば。又、本ノ所に馳来り。いかに牛尾、卯山よ。先刻の鎗に勝負付かざる事の口惜さに。又、こそ来りたれと莞爾と笑て突て蒐る。牛尾、卯山も元来至剛の兵なるに敵一人なれば勇み進て渡合う。透間なく突てかかる程に。終に猪助討れにけり。かくて翌日、南条が昨日の負軍に無念を晴さんとて寄来べしは必定也とて。山下に柵の木結渡しける所に南条が士大将、赤木兵太夫が嫡子、大力と云者、攻馬しけるに究て口の強き馬にて。一文字に翔破るを、引け共引け共留ず。左右して囲ず柵結ける所へ馳来りけり。是を見て得たりやとて、数人寄合馬より引下し、終に其所にて討取けり。城中の兵、其南条と初度の合戦に利を得るのみならず。又、かく思ずに敵を討事軍神の加被を蒙りけるにこそ行末頼もしと勇み進まぬは無けり。(略)

 

1579年(天正7年)、南条氏織田氏へと与することとなり、毛利氏とは袂を別っている。

同年、当城には吉川元春の部将、羽根兵庫助元安(伯耆民談記では兵庫頭)、牛尾大炊助北谷刑部少輔が在番し、検使として二宮木工助が在城しており、南条方の伯耆国岩倉城に対する向城として毛利方の拠点となっている。

同年12月23日、南条元続南条元清が三千騎を率いて当城を攻撃。

南条方の軍勢は冬の寒さに弓が引けなかったことから弓矢が使えず、鉄砲も持たなかったために白兵戦を仕掛けるが、籠城する毛利方には万全の備えがあったため城中からの反撃によって攻撃は奏功しなかった。

南条方は伯耆国羽衣石城へ向かい撤退するが多くの家臣が討死、捕縛されている。

 

1580年(天正8年)、毛利方の肥塚与四郎が城番に任じられている。(天正八年十二月八日付 吉川元春書状)

 

1582年(天正10年)、本能寺の変によって羽柴氏から毛利氏に対し一時的な和睦が行われる。

一説には和睦以降、南条氏の領有になったとしている。

 

1585年(天正13年)、毛利氏羽柴氏の和睦により領土が確定する。

八橋川以東の東伯耆3郡は南条氏の領土となり、再び南条元続の持城となっている。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは南条元忠が与した西軍が敗れ、南条家は改易となる。

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となり、当城には中村栄忠が城番として任じられている。

 

1609年(慶長14年)、中村家の改易に伴い江戸幕府の直轄領(天領)となる。

 

1614年(慶長19年)、安房国より里見忠義が倉吉に3万石を与えられるが当城に入ることはなかったと伝える。

里見由来記では城名を「打吹城とも久米城とも申すなり」としており、別名として久米城と呼ばれていたことを伺わせている。

 

1615年(元和元年)、一国一城令により廃城となる。

 

年 表

1356年~1361年

延文年間

山名師義による築城を伝える。

1524年

大永4年

尼子氏の侵攻によって落城したと云われる。(大永の五月崩れ)

1560年

永禄3年

10月頃、草刈景継による攻撃を受けたとされ、この時の城主を尼子方に与した南条喜右衛門尉と伝える。

1562年

永禄5年

南条氏尼子氏から離反し、毛利氏に与すると旧領を回復している。

1579年

天正7年

伯耆国羽衣石城南条元続毛利氏から離反し織田方となる。

1580年

天正8年

毛利方の武将、吉川元春が入城。城番として肥塚与四郎が任じられている。

羽衣石城南条氏、伯耆国岩倉城小鴨氏に対する押さえの拠点として城を再興したとある。

1582年

天正10年

本能寺の変によって羽柴氏から毛利氏に対し一時的な和睦が行われる。

1585年

天正13年

毛利氏羽柴氏の和睦により領土が確定。

八橋川以東の東伯耆3郡は南条氏の領土となり、再び南条元続の持城となった。

1600年

慶長5年

9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。

南条元忠は西軍に属したが敗れ、南条家は改易となった。

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となり、城主として中村栄忠が城番として任じられた。

1609年

慶長14年

中村家が改易されると江戸幕府の直轄領(天領)となった。

1614年

慶長19年

安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられるが当城に入ることはなかったと云われる。

1615年

元和元年

一国一城令により廃城となる。

1617年

元和3年

池田光政が因伯32万5千石の領主として因幡国鳥取城へ入城。

打吹山麓も鳥取城とその城下町に変わる新城建築の候補地となったが「領国の中央なれど山奥にて国主鎮座の地にあらず」と、採用されなかった。

池田光政は家臣の伊木忠貞に命じで倉吉の支配を行わせた。

1632年

寛永9年

打吹山麓に陣屋(倉吉陣屋)が置かれ、明治維新まで倉吉荒尾氏による自分手政治が行われた。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/05/06、2016/04/09

打吹公園からの登山口

東からの登山口

井戸跡

東からの登山道

東の登山道と郭跡群

東の登山道と郭跡群

東の登山道と郭跡群

東の登山道と郭跡群

東の登山道と郭跡群

東の郭跡群

東の土橋

東の郭跡群

東の道中

東の郭跡群の土橋

東の郭跡群

東の郭跡群

武者溜り付近(地震後)

武者溜り

武者溜り

武者溜り(地震後)

武者溜り(地震後)

武者溜り

武者溜り

武者溜り

備前屋敷からの登山道

道中の空堀(ち号演習痕)

道中の空堀(ち号演習痕)

道中の空堀(ち号演習痕)

展望台付近

道中の祠

道中の堀切

道中の礎石

登山道

道中の空堀(ち号演習痕)

道中の空堀(ち号演習痕)

本丸南側の腰郭

本丸南西の虎口

本丸西側の腰郭

本丸西側の腰郭

主郭(本丸)

主郭(本丸)

主郭(本丸)

小鴨丸からの枡形虎口

主郭北西側の枡形虎口

主郭北西側の枡形虎口

主郭北西側の枡形虎口

主郭北西側の枡形虎口

主郭北西側の枡形虎口

主郭西側の木戸跡

主郭西側の木戸跡

主郭西側の木戸跡

主郭北側の土塁

主郭北側の土塁

天守台の城跡碑

天守台の城跡碑

天守台の城跡碑

天守台の城跡碑

主郭と天守台石垣

天守台の石垣

天守台の石垣

天守台石垣と北側腰郭

天守台の石垣

礎石残骸

天守台石垣の破城痕

天守台石垣の破城痕

天守台石垣の破城痕

本丸と小鴨丸の間に塹壕痕

本丸と小鴨丸の間に塹壕痕

本丸と小鴨丸の間に塹壕痕

本丸と小鴨丸の間に塹壕痕

本丸から小鴨丸

主郭西側に瓦破片

主郭西側に瓦破片

長谷寺の山門

満正寺

満正寺から元清丸の遠望

大江神社

大江神社

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