伯耆国 久米郡

うつぶきじょう えっちゅうまる

打吹城 越中丸

倉吉 打吹城 越中丸

所在地

鳥取県倉吉市仲ノ町

城 名

打吹城 越中丸(うつぶきじょう えっちゅうまる)

別 名

打吹城三ノ丸(うつぶきじょう さんのまる)…伯耆民談記では三ノ丸としている。

 

第三城(だいさんじょう)…因伯記要での記述。本丸に対する位置付け(三ノ丸)を表す呼称。

築城主

築城年

不詳…1562年(永禄5年)に南条宗勝の旧領回復により山田越中守打吹城の城番であった頃までには存在したと推測される。

廃城年

1615年(元和元年)…一国一城令によって本城(打吹城)と共に廃城と推定される。

形 態

山城

遺 構

郭、腰郭、土塁、土橋、堀切

現 状

山林、越中丸跡広場

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

伯耆山名

山名師義

延文年間に築城を始め応安3年に田内城からの移転を伝える。

永正年間に伯耆国守護として在城を伝える。

山名氏之の子で城主と伝えられている。(伯耆志)

城 主

尼子

城名を山田越中守に因むとするが、この頃より在城したかは不明。

城 主

毛利

吉川

吉川元春

天正8年に入城し、肥塚与四郎を城番に任じる。(吉川元春書状)

肥塚与四郎

天正8年に吉川元春より打吹城の城番へと任じられている。(吉川元春書状)

永禄5年、毛利方に与して尼子方から旧領を回復した南条宗勝より城番として置かれている。

永禄5年、毛利方に与して尼子方から旧領を回復した南条宗勝より城番として置かれている。

城 主

南条

永禄5年頃、南条氏の配下となり城主へと任じられる。

永禄5年、毛利方に与して尼子方から旧領を回復した南条宗勝より城番として置かれている。

小鴨元清

天正19年、南条元忠の後見として岩倉城より移転する。

城 主

中村

中村栄忠

慶長5年、中村家の伯耆国入封により城番を任ぜられる。

南条家改易後、中村家に仕官したと推測される。

城 主

徳川

山田直時

慶長14年、中村家の改易により天領地となった際に幕府から派遣され周辺の統治を行う。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)

因伯記要(明治40年5月 鳥取縣)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

年 表

1356年~1361年

延文年間

山名師義によって打吹城が築城と伝える。

この頃の本丸は打吹山の山頂ではなく、比較的低い場所に所在した可能性が推測される。

1524年

大永4年

尼子経久の侵攻によって打吹城が落城したと伝える。(大永の五月崩れ)

1580年

天正8年

毛利方の武将、吉川元春打吹城へと入城し、伯耆国羽衣石城南条氏、伯耆国岩倉城小鴨氏に対する拠点として城郭を再興とある。

城番として肥塚与四郎が在番している。

1585年

天正13年

毛利氏羽柴氏の和睦により八橋川以東の東伯耆三郡が南条氏の領土とされ、南条元続の持城となっている。

※1582年(天正10年)からとする説もある。

1600年

慶長5年

9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。

南条元忠は西軍に属したが敗れ、南条家は改易となった。

関ヶ原の戦いに於ける功績から中村一忠が伯耆国領主となり、一族の中村栄忠が城番として任じられている。

中村家の家臣に山田越中守の名が見えることから、南条家の改易後は中村家に仕官し続けて周辺の統治を担ったと考えられる。

1609年

慶長14年

中村家の改易に及び江戸幕府の直轄領(天領)となり、江戸から派遣された山田五郎兵衛が管理したとある。(伯耆民談記)

1614年

慶長19年

安房国の里見忠義が倉吉に3万石を与えられたが打吹城へ入ることはなかったと伝える。

1615年

元和元年

一国一城令により打吹城は廃城となり、併せて役目を終えたと推定される。

概 略

伯耆国打吹城の本丸から北西に下った中腹に所在する。

現在は越中丸跡広場となっており、広場内には四国遍路の霊場八十八ヶ所を模した打吹山八十八ヵ所石仏群(石仏、石塔)が鎮座する。

 

城砦の興りは南条家の重臣、山田越中守による築城や城下町であった越中町、越殿町に居住した山田越中守の詰城であったことに因むとされる。

一説に時代は慶長年間、中村家の家臣とする山田越中守の築城や居城に因むとする説も見られる。

関ヶ原の合戦前、南条家重臣による評定では南条元忠の方針に否定的であった山田越中守は南条家の改易後、中村家に仕えて引き続き周辺の統治に携わったと推測される。

 

越中町や越殿町(北越殿、南越殿)には古くから町が形成されていたとも伝え、城下町から程近い当城周辺に往古の打吹城の本丸が所在した可能性も推測される。

この推測では伯耆国田内城より山名師義が移転した頃から当城砦が存在した可能性もあり、その後の見日千軒の流出や伯耆国岩倉城の戦火から逃れてきた人々によって打吹山麓の村落が発展し、城砦や城下町の拡張が行われていったとも考えられる。

 

当城砦の北側と城下町(越中町、越殿町)の中間に所在する浅田山(元清山)は平削地を有することから、地理的に当城砦北側の防御を担った出丸と考えられ、更に西側の伯耆国四十二丸城も同じ城域に含めるとする記述が因伯紀要に見えることから打吹城三ノ丸は半ば独立した城砦群とも認識されていたことが伺える。

 

伯耆民談記 巻之第二 都邑之部 一、倉吉 越殿の事

当所越中町という町裏に地境三百歩余りに見ゆる松林あり。今諸家の廟所なるが是を越殿と称す。天正の昔、羽衣石領の時、南條の家臣、山田越中が住居せし殿趾なりとかや。越中在住の時、郷民等此地を越殿と称す。世の人終に字なして今に称し来れるなり。然るを俗誤てかうしん堂といえり。越中町というも山田が領せし處なる故なり。

 

伯耆民談記 巻之第十五 久米郡古城之部 一、同城(倉吉)地理の項

(略)三の丸を越中丸という。備前丸より西へ二十三間半下り、本丸よりは四十三間あり。東西三十間南北十三間あり是を越中丸という。これは南條備前守田後へ移りて後、伯耆守の重臣山田越中当丸へ居り羽衣石の目代として近郷を守護す。依て此丸を越中丸と称すとなり。又、当町に越中町というあり。是れ山田が領地の所と云伝うるなり。

 

伯耆民談記では越中町、越殿町(北越殿、南越殿)を山田越中守の居館跡としており、羽衣石の目代(補佐役)として三ノ丸に居住し、近隣の郷里を治めたとしている。

 

因伯記要 第三章 名所旧跡 第五 東伯郡の条 倉吉城跡の項

(略)西方に第二城あり。備前丸と云う。其西に更に第三城あり。越中丸と云う。本城の北を小鴨丸と云う。諸楼閣合わせて四十二丸と称せりと云う。

 

因伯記要では打吹城の第三の城であったとする記述が見える。

伯耆民談記と同じく打吹山の山頂に所在した本丸と西方の山塊では城域を分けた表現がなされており、当城や四十二丸城を含めて四十二丸と表現している。

 

廃城年の明記はなされていないが、伯耆国倉吉陣屋を残して打吹城が廃城となった1615年(元和元年)頃に併せて役目を終えたと推定される。

写 真

2016年4月9日

越中丸跡広場の入口

越中丸

越中丸跡広場

越中丸

越中丸跡広場

越中丸

越中丸跡広場

越中丸

越中丸跡広場

越中丸

櫓跡

越中丸

虎口か堀跡の名残

越中丸

案内板

案内板

南側に長谷寺

長谷寺

長谷寺境内

長谷寺

長谷寺境内の荒尾氏墓所

荒尾氏墓所

長谷寺境内の荒尾氏墓所

荒尾氏墓所

荒尾氏墓所の案内板

荒尾氏墓所

長谷寺境内の土塁

荒尾氏墓所

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