伯耆古城図録

うつぶきじょう びぜんまる

打吹城 備前丸

鳥取県倉吉市仲ノ町

別 名

打吹城二ノ丸(うつぶきじょう にのまる)…伯耆民談記では二ノ丸としている。

第二城(だいにじょう)…因伯記要に記載される。本丸に対する位置付けを表す呼称。

遺 構

郭跡、切岸、堀切(二重)、横堀

登山道の整備に伴う工事か「ち号演習」による塹壕敷設の影響を受けた可能性が高い。

「ち号演習」による塹壕痕である可能性が高い。

現 状

山林

城 主

(南条方)南条元信南条信正

築城年

1562年(永禄5年)頃

廃城年

1615年(元和元年)

築城主

南条元信南条信正

形 態

山城(出丸)

備 考

史跡指定なし

参考文献

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

南条信正他十四名連署起請文

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

草刈将監覚書

倉吉市誌 (昭和31年10月 倉吉市誌編さん委員会)

倉吉市史(昭和48年11月 倉吉市史編纂委員会)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

東郷町誌 資料編(昭和62年12月 東郷町誌編さん委員会)

縄張図

打吹城略測図より備前丸部分抜粋、加筆(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

打吹山の山頂(本丸)から西側へ20間(約36メートル)下がった位置に所在する。

主郭に対する防衛拠点として南条備前守が築いた二ノ丸(出丸)と伝え、当城が「備前丸」と呼称されるのは南条備前守が居住したことに因むとしており、南条備前守南条元信としている。(伯耆民談記)

 

登山道脇の案内板から西側の尾根に向かうと比較的広い郭が見られ、伯耆民談記では南北14間(約26メートル)、東西19間(約35メートル)の規模としている。

本丸との間には二重堀切で隔絶された痕跡も見えるが、登山道の整備、或いは大東亜戦争末期の「ち号演習」による塹壕掘削のために改変を受けている可能性が高い。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受けた南条宗勝尼子氏より伯耆国羽衣石城を奪還したことに伴い、旧領であった久米郡内の所領も回復しており、伯耆国打吹城には南条備前守山田越中守など重臣が城番として置かれている。

 

1579年(天正7年)、南条氏織田氏へと与することとなり、毛利氏とは袂を別っている。

この頃、打吹城には吉川氏の部将であった二宮木工助羽根元安牛尾大炊助北谷刑部少輔など毛利方の武将が在番しており、南条氏の主要拠点であった羽衣石城や伯耆岩倉城に対して毛利方は伯耆国今倉城に向城を築くなど包囲網を敷いている。

同年12月23日、南条方の南条元続南条元清が3,000騎を率いて打吹城へと攻撃を行うが、吉川方の反撃により撃退されている。(陰徳太平記 巻六十一 伯州羽衣石山向城 付 宇津吹城合戦之事)

この戦では南条元信の嫡男、南条元周が300騎を率いて伯耆国田後城より援軍に向かっていたが間に合わず羽衣石城へと撤退している。

伯耆民談記ではこの時の南条元信の官途を備前守と記しているが、「南条信正他十四名連署起請文」では1575年(天正3年)までに南条信正へと「備前守」の官途が譲られていることがわかる。(伯耆民談記 巻之第十 河村郡古城之部 羽衣石城の事)

 

1584年(天正12年)、毛利氏羽柴氏の和睦により南条氏の所領が確定し、再び打吹城南条氏の領有となる。

翌年の1585年(天正13年)頃、伯耆国八橋城の城主であった南条元信が倉吉へと移り、当城に居住したとされる。

 

伯耆民談記 巻之第十五 久米郡古城之部 一、同城(倉吉)地理の項

(略)二の丸を備前丸と号す。本丸を去る事西へ二十間也。境地南北十四間、東西十九間。此丸を備前丸と称する事は、南条伯耆守元続領主たる時、叔父備前守元信、始めは八橋の城主たりしが、後当城に居住せり。又、其後河村郡田後の城に移りしとなり。されば備前守居住せし丸なる故、遂に廓の号となれり。(略)

 

伯耆民談記では南条元続が領主であった頃、南条元信が倉吉へと移り当城へ居住したことを城名の由来としていることから、1585年(天正13年)までには当城が存在していたと推測される。

当城の遺構には石垣が見られないことから、1591年(天正19年)に築城が始まる打吹城小鴨丸よりも古い施設であったことが伺える。

 

因伯記要 第三章 名所旧跡 第五 東伯郡の条 倉吉城跡の項

(略)西方に第二城あり。備前丸と云う。(略)

 

因伯記要では打吹城の第二の城として格を上げた表現で取り扱われている。

 

年 表

1585年

天正13年

伯耆国八橋城の城主であった南条元信が倉吉へと移り、打吹城に居住したと伝える。

南条元信が二ノ丸に居を構えたことに因み、当城を「備前丸」と呼称したとある。(伯耆民談記)

1615年

元和元年

一国一城令により打吹城が廃城となったことに伴い、本城と併せて役目を終えたと推定される。

地 図

 

写 真

訪城日 2022/10/30

主郭

主郭

主郭

主郭

堀切

主郭の案内板

写 真

訪城日 2016/04/09

主郭

主郭

堀切(南東側)

堀切(北東側)

堀切(北東側)

堀切と土塁

写 真

訪城日 2013/05/06

主郭の案内板

主郭

主郭

主郭

主郭

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