よみがな

人物名

なんじょう びぜんのかみ のぶまさ

南条備前守信正

出身

不詳

生年

不詳

没年

1579年(天正7年)7月13日

賀茂

朝臣

南条

通称

備前守

信正

官途

備前守、左衛門尉

別名

南条九郎左衛門尉信正(なんじょう くろう さえもんのじょう のぶまさ)…南条信正外十四名連署起請文に署名。

 

南条九郎左衛門信正(なんじょう くろうさえもん のぶまさ)…陰徳太平記では備前守とは記されていない。

所属

南条

列 伝

南条宗皓の三男とされ、兄に南条宗勝南条元信。子に南条信光南条隆光

 

1575年(天正3年)10月14日付の「南条信正外十四名連署起請文」では毛利家へ忠誠を誓う起請文の筆頭に署名しており、吉川元春吉川元長へと届けている。

この起請文には「芸州江之儀者不及申上対元続向後無二不可構逆心候」とあり、南条家の家臣は毛利家に限らず南条家の家督を継いだ南条元続に対しても、これまで以上の忠勤に励み、忠節を尽くすよう誓約を求められる内容となっている。

起請文が作成された頃は「九郎左衛門」を称しているが、翌年には「備前守」を称している。

南条宗勝から南条元続へと家督の継承が進み権力構造が変化する過程で兄の南条元信より「備前守」の官途が譲られたと推測されるが、陰徳太平記では1579年(天正7年)に戦死するまで一貫して「九郎左衛門」と記述され「備前守」とする記述は見られない。

 

1579年(天正7年)7月9日、南条元続南条元清の離反を察知した吉川元春は東伯耆での事態収拾のため、吉川元氏吉川経言らと共に出雲国月山富田城から出陣している。

吉川勢は伯耆国羽衣石城へ立て籠もった南条方の籠城策への切り崩しの一手とする城下近隣の稲薙が目的であったとしている。

同月13日、吉川元春らが東伯耆へと入ると陣容を整え、伯耆国茶臼山城へと本陣を移したとする。

先陣の大将として杉原盛重杉原元盛杉原景盛を、副将として宍道正義山田信直らの2,500餘騎を以て長郷田表へと進軍し、近隣の民家への放火と稲薙を行っている。

毛利方の侵攻に対する軍議に於いては自ら2,000騎で出撃すれば因幡の武田源三郎が500騎で続く用意があるとして、長郷田表での迎撃が可能な上に茶臼山城吉川元春も討てると主張している。

南条元続は長郷田表に現れた毛利方の先鋒隊が2,500餘騎に及び、茶臼山城に布陣する吉川元春の本隊を合わせると少なく見積もっても14,000~15,000騎、周辺の増援が加われば恐らく20,000騎程度の兵力になるだろうと推定しており、南条方は因幡方面の戦力を集めてもせいぜい3,400~3,500騎に満たないことから迎撃に出ず、羽衣石城を楯に籠城し織田方の援軍が来るまで落城しないことだけを考えるようにと籠城策を主張している。

軍議では南条元続の主張する籠城策が推されたが、籠城策を受け容れず150騎を率いて長郷田表へ毛利勢の迎撃へと出陣している。

長郷田表では長瀬川を挟んで毛利方と対峙する形となり、渡河して攻撃を仕掛けようとするが杉原盛重の鉄砲隊に阻まれ半数が討ち取られている。

緒戦で半数の兵力を失うも残存兵力を三隊に分け長瀬川の上流、中流、下流の三方から渡河して急襲をかけるが後続は続かず、各個撃破されたため一旦は戦場を離脱し羽衣石城の麓の柵結付近で毛利方の追撃部隊を待つが、取り巻きの兵は僅か、又は単騎であったとしている。

最期は杉原盛重の部将、久須摩市允と戦い討ち取られているが、久須摩市允とは互いに見知った仲であったとしている。(陰徳太平記 巻之六十一 伯州長郷田合戦事)

 

長郷田表の合戦に於いて南条元続の籠城策に異を唱えて出陣するが、元より圧倒的な兵力差であった上に用意した策は杉原盛重に全く通用せず惨敗し、敗残兵をまとめるため号令をかけるが誰一人呼応しないなど戦下手な武将として描かれている。

合戦後の杉原盛重天野隆重による評定では杉原盛重が「私に対して矢鋒を試さんと望むの程の気概を持つ人物であったが、今日のように易々と敗北したのは勇猛さもだが、その気概が不足していたからだ」と一定の評価を下しているが、天野隆重は「南条元続南条元清でも杉原盛重殿に剣戟を向けることは叶わないのに、増してや九郎左衛門如きでは強弱を比べるに値しない」と嘲笑うような発言をしている。

天野隆重の発言に対して杉原盛重は「今回は南条方の作戦が悪かっただけであり、もしも別の作戦があった場合は勝敗が逆転していたかもしれない」と今後も油断なく戦を進めるよう、長郷田表の合戦について事細かい論評を行っている。(陰徳太平記 巻之六十一 盛重隆重長郷田合戦評論ノ之事)

 

1581年8月30日(天正9年7月21日)、山田越中守と共に羽柴秀吉の陣へと赴き、吉川軍の布陣する伯耆国馬ノ山砦への攻撃を進言している。

1576年(天正4年)以降の「南条備前守」は本人とされているが、陰徳太平記では1579年(天正7年)7月の長郷田表の合戦で討死していることから羽柴秀吉の陣へと赴いた「備前守」は南条元信である可能性が考えられる。

伯耆民談記では官途の継承以降も続けて南条元信を「備前守」とする記述となっており、山田越中守と共に羽柴秀吉の陣へと赴いた人物が南条元信である可能性を補強している。

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