所 属
大内
▶
尼子
▶
毛利
よみがな
人物名
すぎはら はりまのかみ もりしげ
杉原播磨守盛重
別 名
すぎはら さこんのすけ もりしげ
杉原左近亮盛重
瑞仙寺文書に記述
別 名
すぎはら さこんのじょう もりしげ
杉原左近尉盛重
護法山神社再興棟札銘
別 名
すぎはら はりま
杉原播磨
官途に因む通称
別 名
すぎはら さこん
杉原左近
官途に因む通称
官 途
播磨守(従五位上)、左近亮(瑞泉寺文書)、左近衛将監(護法山神社再興棟札銘)
出身地
不詳(備後国)
生 年
1533年(天文2年)
没 年
1582年1月19日(天正9年12月25日)
氏
平
姓
朝臣
諱
元親
列 伝
杉原匡信の次男とされ、備後国の国人、山名理興(杉原忠興)の家老とする人物。
大内氏との神辺合戦では敵方であった吉川元春から高く評価されている。
陰徳太平記 巻第十七 備後の国神邊の城合戦之事
義隆より忠興退治の為、陶中務権大輔隆房を大将として防長の軍士五千餘騎を差上せらる。(略)
安芸国の御家人、馳せ加わりて一萬餘騎、天文十七年六月二十日、神邊表へ出張す。忠興聞ゆる勇士なれば多勢の敵をも恐怖せず足軽を出して防戦す。同月二十三日、吉川治部少輔元春、吉川家相続の後、今度初めての合戦なれば諸人の目を驚かす一戦せんと手勢一千餘騎を引率して城の麓へ押し寄せ、小高き處に馬を控え、足軽を分て遣わして所々の在家を放火せらる。(略)杉ノ原播磨守盛重、真先に進んで駆け入りければ吉川勢已に散り去らんとす。治部少輔元春は今年十九歳、勇気熾盛の若武者なる故、敵の大勢に些つとも臆せず。大音揚げて諸軍を下知せられしかば一千餘騎の兵、射れ共切れ共少しも怯まず力戦す。され共杉原は多勢にして而かも不意を撃ちかる故、吉川勢叶い難く見ゆる所に元春槍取って扣き立て真先に進んで敵数多突き伏せ身命を軽んじて戦い給えば(略)盛重手負いて少し引き退けば是に力を得、吉川勢彌々進んで戦う故(略)忠興爰をも破られて城中へ逃げ入りける。
1548年7月25日(天文17年6月20日)
大内方の陶隆房を大将とし、安芸国の国人衆の軍勢を合わせた10,000餘騎が備後国神辺城へと向けて進軍する。
尼子方に与した杉原忠興の部将として神辺表で大内勢を迎え撃つ。
1548年7月28日(天文17年6月23日)
大内方の吉川元春の部隊と戦闘になる。
緒戦は優勢であったが負傷したため後退したところを吉川元春らに押し込まれ城内まで退去している。
大内方は平賀隆宗と700騎を向城へ残し、陶隆房、吉川元春らは陣を払い撤退している。
陰徳太平記 巻第十七 平賀杉ノ原合戦之事
同年霜月十九日、杉ノ原播磨守盛重、同左衛門太夫興勝、七百騎を率して平賀が向い城へ押し寄せ、此程此城に籠り御座す事は杉原が城を攻落とされん為に候とかや承は候り。然れ共戦いて決する事もなく徒らに日数を送られ候(略)
隆宗二百餘騎、敵の妻手の方の深谷より騫直に駆け出て横合いに切ってかかる。杉原興勝、盛重は何れも聞ゆる勇士なりけれど敵に不意を撃れて味方崩れ立ちければ力無く一度に咄と潰にけり。隆宗追っかけ頭五十餘級討ち取り。先刻の詞には相違して蓬くも逃げ行く物哉。返せ左衛門、戻せ播磨守と罵りけれど一返しも返さず城中さして引きにけり。
翌日、又た足軽競り合い有りけるに隆宗僅か五十騎許りにて打って出て下知しけるを盛重、遥かに是を見て昨日の耻を雪がんと究竟の兵を選んで槍一本に弓一張、太刀持ちたる歩行の者一人宛組合せ三百騎打って出て足軽を押し立て隆宗が旗本へ一文字に切ってかかる。(略)
翌日、又た足軽迫り合いの有りけるに隆宗、例の総金の鎧着て究竟の兵三十許り勝て引き具し、足軽を颯と迫り立て逃くる敵には目も懸けず唯一人城中へつと入り、古き固屋の有りけるに火をかけ頓て駆出たり(略)
1548年12月16日(天文17年11月19日)
平賀隆祐の300騎が攻め寄せたため杉原興勝と共に迎撃に出る。
平賀隆祐の部隊は囮であり、平賀隆宗の200騎による奇襲を受け城内へと敗走する。
1548年12月17日(天文17年11月20日)
300騎を率いて平賀隆宗の本陣を攻撃する。
平賀隆宗をあと一歩の所まで追い詰めるが手傷を負わせたのみで取り逃がしている。
1548年12月18日(天文17年11月21日)
平賀隆宗によって城内が放火される。
城内の混乱に乗じて平賀隆宗は自陣へと戻り撤退している。
1557年(弘治3年)
毛利氏の傘下となっていた山名理興が死去する。
継嗣であった杉原直良は既に亡く、吉川元春からの推挙もあり山名理興の家督を継ぎ備後国神辺城の城主となる。
正室は毛利興元の娘で彼女は四度目の再婚、四十を超える齢であったとされるがこれは政略結婚とされ、毛利氏がいかに杉原氏との繋がりを重要視していたかが覗える。
毛利元就直属の忍衆を束ねた忍頭ともされ、その将兵には野武士や忍崩れ、山賊、海賊、強盗など実戦経験豊富で命知らずの傾奇者やならず者達を多く召し抱える独特の部隊であったとされる。
足軽には忍の技を自ら教え修得させたとも伝え、徳岡久兵衛、別所雅楽允、佐田三兄弟(佐田彦四郎、佐田神五郎、佐田小鼠)など忍び上手な配下が育ち、安芸国鏡山城の戦いから忍が本格的に実戦で運用され始めたとされ、播磨国上月城の戦いにおいては忍部隊による多大な戦果を上げている。
傾奇者やならず者とされる配下の将兵には何らかの罪を犯し素行の悪い者も多かったが、仲間内での結束は強固で信義にも厚い人材が揃っていたとあり、彼らを纏めあげていた手腕、裁量、度量の広さなど三国志で言うところ、呉の武将、甘興覇を髣髴とさせる武将である。
家臣や配下からの信頼は厚かったとする一方、笑った顔を一度も見せなかったとも言い伝えられ、無表情、或いは大変怖い面持ちであったことが伝えられている。
吉川元春の家臣達は陰で「能面」や「お面杉原」とあだ名を付けて呼んでいたとされるが、杉原家の家臣団は恐れて黙っていたとある。
毛利方の武将となった後は各地を転戦している。
遠征中、一連の杉原家相続に異を唱え下野していた山名理興の旧臣、藤井皓玄の謀反によって留守中の神辺城を一時占拠されてしまうが息子達と共にこれを鎮圧している。
1564年(永禄7年)
行松正盛の後家と再婚し、遺児の養育を引き受けたことで行松家の家督を正当に継承したことから伯耆国尾高城の城主となる。
尾高城を任されていた頃には岡成神社を崇敬し、社領を寄進し刀剣を奉納すると武運長久を祈ったと伝える。
同年、弓浜合戦では1,500騎を率いて美保関から出撃し尼子方の4,000騎と対峙している。
尼子方も先陣は森脇、本田父子、馬木ら1,000騎、二陣に山中幸盛、立原、牛尾、平野ら2,000騎、三陣に秋上伊織介ら1,000騎の陣容に対し、杉原方は先陣に河口刑部少輔、入江大蔵少輔、入江左衛門進ら500騎、二陣に自身と行松正盛の遺児徳若(杉原元盛)、松千代(杉原景盛)を随伴させた1,000騎で対峙している。(陰徳太平記 巻第三十七 杉原盛重入伯州泉山城附弓浜合戦之事)
1564年8月(永禄7年8月)※、山田満重らと伯耆国江美城を攻略する。
尼子方は江美城の城主であった蜂塚義光が一族と共に自刃している。(森脇覚書など)
※陰徳太平記、伯耆民談記では1565年(永禄8年)の出来事とする。
1565年(永禄8年3月)
同年、出雲国月山富田城の戦いでは小早川隆景の部将として軍役する。
1566年(永禄9年)
伯耆国瑞仙寺の寺領を安堵する。(瑞仙寺文書)
永禄年間には伯耆国戸上城の城下、観音寺村の観音寺で四代目住職(大龍山總泉寺縁起では八世棟室和尚)と出会い、住職の見識の広さ、人徳の高さに惹かれてそのまま観音寺に帰依したとする話も伝わり、この縁から観音寺が杉原家の菩提寺に選ばれたと伝えている。
1567年(永禄10年)
比江津神社(現日吉津神社)の主職に田口千代若を預け置く。(蚊屋嶋神社文書)
1569年(永禄12年)
尼子残党の山中幸盛らに一時的に尾高城を奪われる。
これにはわざと空にした城に寡兵の敵軍を誘い込み、逆に包囲戦を以って殲滅する意図が見えることから空城の計であったとも推測される。
1570年(永禄13年8月)
護法山神社を再興とある。(永禄十三年 杉原盛重護法山神社再興棟札銘)
銘には「然処信心大壇越備後国住武源朝臣杉原左近尉盛重」とあり、源姓としているが天正年間の銘では平姓となっている。
1571年(元亀2年2月)
浄満原の合戦で尼子残党を撃破する。
同年3月、芸陽への留守中に米子、尾高の両城下が尼子残党の襲撃を受けている。
伯耆へ帰還すると吉田元重らを大将に任命し、七百余騎の兵を以って迎撃に転じ日吉津の浜まで尼子残党を押し戻している。
この戦では敵大将の羽倉元蔭が戦死しており、羽倉元蔭の最期に際しては感嘆の涙を流してその武勇を称えている。(陰徳太平記 巻第四十八 羽倉元陰戦死之事)
1573年(天正元年)
足利義輝の焼香料として伯耆国興恩寺を光源院へ寄進している。(光源院文書)
1575年(天正3年)
吉川元春に従い因幡国の尼子残党攻めにおいて勲功を挙げる。
1578年(天正6年)
播磨国上月城の戦い(熊見川の合戦)において対羽柴軍との戦で活躍する。
同年3月、角盤山大山寺根本中堂の金剛童子を再興する。(天正六年 杉原盛重金剛童子再興棟札銘)
銘には「備後国安那郡村尾郷神辺城主杉原播磨守平ノ朝臣盛重ト云フ。東西ニ聞ヘタル武者アリ」として源姓から平姓へと変わっている。
1580年(天正8年)
織田方に寝返った南条元続、その弟である小鴨元清の攻撃を受けるが撃退する。
1581年(天正9年)
伯耆国久古荘を大山寺西明院へ寄進している。(大山寺文書)
陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事
(略)元春は徒に後陣の勢を待つベからずとて九月二十日伯州八橋の城に著給い盛重と軍議有て安否の一戦と定られ所に播磨守時節風気に侵され前後不覚の体也ければ嫡子彌八郎元盛、次男又二郎景盛、諸軍勢の兵糧菜肴等を奉る。
1581年10月17日(天正9年9月20日)
因幡国鳥取城を攻める織田軍と備中国の宇喜田家の動きに対し吉川元春が八橋城へと入り軍議を持つ。
重病のため杉原元盛、杉原景盛の兄弟が諸将の接待から軍勢の兵糧管理に至るまでの采配に当ったとする。
1582年1月19日(天正9年12月25日)
伯耆国八橋城にて病没する。家督は長男の杉原元盛へと相続されている。
臨終の際、杉原元盛と杉原景盛に対し「汝ら、我が弔いには僧によって供養するに及ばず。敵城を攻略せよ。これぞ我に対する至大の供養である」と言い遺したとも伝える。
尾高の小鷹山観音寺、八橋の覚天山泰玄寺、天万の壺嶽山大安寺、島根県出雲市平田町の高松山大林寺など多くの場所が墓所と伝わっている。
伯耆民諺記では伯耆国羽衣石城の城主、南条宗勝を尾高城に招いて毒殺したと記述があるが、これは創作話とされる。
別の伝承では伯耆民諺記を基にした創作と思われるが、南条宗勝から羽衣石城へ招かれ毒殺されたとする全く逆の話も残る。