伯耆国 会見郡
だいりゅうさん そうせんじ
大龍山總泉寺
所在地
鳥取県米子市愛宕町(大工町)
寺 名
大龍山總泉寺(だいりゅうさん そうせんじ)
別 名
大龍山宗仙寺(そうせんじ)…伯耆志での記述。
建立主
中村一忠、浄明院
建立年
1607年(慶長12年)
遺 構
空堀、郭跡
現 状
大龍山總泉寺
備 考
史跡指定なし
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
總泉寺縁起(昭和8年8月)
総泉寺延命地蔵記
尾高の里【二】(昭和52年8月 野口徳正 著)
わが郷土 米子とその周辺の郷土誌(昭和58年1月)
伯耆三十三札所<鳥取県 伯耆国>(平成8年10月初版、平成13年9月第2版 立花書院)
米子市史<全>(昭和48年10月 米子市役所)
年 表
鎌倉時代~室町時代
摂津国や播磨国などを支配した赤松範資が父、赤松則村の菩提のため美作国真庭郡に創立した青蓮寺の三代禅室珍目の開山と伝える。
1496年
明応5年
赤松政則が急死したため分家で婿養子の赤松義村が当主を継ぐ。
赤松家の権勢が陰り始めると伽藍、荘園共に官家へ皈したと伝える。(總泉寺縁起書には赤松家滅亡と記される)
永禄年間
1603年
慶長8年
米子騒動で中村方からの救援要請に応じた出雲国富田城の城主、堀尾吉晴からの援軍として堀尾信濃守忠氏、堀尾山城守忠晴が布陣し、伯耆国飯山砦に籠もった横田方と戦ったと伝える。(伯耆民談記)
1607年
慶長12年
伯耆国米子城の城主、中村一忠が夫人(中村一氏の妻)の追福のため伽藍塔を建立し、現在地に總泉寺が建立されたと伝える。(總泉寺縁起)
総泉寺の古位牌では開基を浄明院としている。(総泉寺延命地蔵記)
建立の起源には諸説あるが、中村一忠の父である中村一氏の御霊を慰霊するために建立されたとも伝える。
伯耆志には米子へ移転させた寺の一つとして記述が見える。
寺名は母の戒名「曹渓院殿清心總泉大禅定尼」から總泉寺、山号は中村一氏の戒名「大龍院殿一源心公禅門」から大龍山と名付けられたとされる。(總泉寺案内板より)
1662年
寛文2年
伯耆国6郡の全曹洞宗寺院をまとめる「僧録所」に定められ、大本山總持寺の輪番住職も務めていたとされる。
1842年
天保13年
三十一世直翁見成和尚によって山門の石垣の整備が行われたとある。(縁起書には天保年間と記述される)
2009年
平成21年
中村一忠の400回忌を機に、諸菩提をあわせた供養塔が再建された。
概 略
曹洞宗大本山總持寺九世如意庵賽峰良秀禅師を開山とする大本山總持寺直末の寺。
中村家により米子へと移された寺院の一つで伯耆国米子城からは川堀(加茂川)を挟んだ南側に所在する。
米子城とは川堀で区切られ、出雲街道が麓を通ることから出雲国側へ備えるための城砦として建造された意図が推測される。
有事の際には多くの兵を配置できる広大な郭(現在の駐車場など)を有していたようで、1603年(慶長8年)の米子騒動では中村方からの救援要請に応じた出雲国富田城の城主、堀尾親子(※)の援軍が甲兵800余りを率いてこの地に布陣、飯山砦(内膳丸とも)に籠もった横田方と戦ったと伝えている。
(※伯耆民談記では堀尾信濃守忠氏、子の堀尾山城守忠晴、伯耆三十三札所<鳥取県伯耆国>では堀尾吉晴の親子としている)
堀尾吉晴は同年12月15日(午刻)、当寺に陣を敷いて待機したとあり、出雲街道を見張る重要な拠点であったとしている。(伯耆三十三札所<鳥取県伯耆国>)
1607年(慶長12年)、中村一忠が母を供養するため伽藍塔を建立したことを始まりとする説が定説となっているが、中村一忠の母、曹渓院については異説が多数存在する。
山門横に掲げられている案内板では寺名を母の戒名「曹渓院殿清心總泉大禅定尼」から總泉寺とし、山号を中村一氏の戒名「大龍院殿一源心公禅門」から大龍山を称したとされる。
米子市大工町總泉寺縁起
(略)慶長十二年、中村伯耆守一忠夫人逝去シ追福ノ為、現在ノ地ニ伽藍塔司ヲ建立シ其ノ夫人謚号「曹渓院殿清心總泉大禅尼」ヲ開基トシテ棟室和尚ヲ拝請シ青蓮寺ヲ改メ開基ノ謚号ニ因ミ大龍山總泉寺號シ寺領壱百石ヲ寄進シ夫人ノ冥福を修メシム
1933年(昭和8年)8月、当寺の住職であった木村大芳氏の書かれた「米子市大工町總泉寺縁起」では現在の山門の案内板とはやや違う内容となっている。
木村大芳氏の縁起では「夫人」の追福の為の伽藍塔建立とあるが中村一氏の妻とは断定していない。
また、伽藍塔の建立目的に「夫人」の追福とあるが、文脈から夫人が亡くなったのは比較的近い時期の話であり、駿府ではなく伯耆に入封後の出来事と推測される。
縁起から「夫人」とされる曹渓院は中村一氏の妻ではなく中村一忠の養母(育ての親)と考えるのが妥当で、横田村詮の妻とされる中村一氏の妹が推定される。
伯耆志 大龍山宗仙寺の条
池田家系図
女、初め森武蔵守長可に嫁し、後中村式部小輔一氏に嫁し、一学一忠を生む。一氏は慶長五年に静岡で没、妻安養院春林宗茂大姉も慶長四年に静岡で没。
伯耆志では曹渓院を中村一忠の母とすることに異説があるとしている。
伯耆民談記では中村一忠の母を清心総泉大姉としており、伯耆志に異説ありと注釈が添えられている。
池田家系図では安養院春林宗茂大姉を中村一忠の母としており、曹渓院総泉大姉は中村一忠の母ではないとしている。
米子市史(全)では開壇を中村一忠としているが、総泉寺延命地蔵記には総泉寺の古位牌から当寺の開基は中村一忠の正室で松平因幡守康元娘(浄明院)としている。
曹渓院の人物像として諸説並べると以下のようになる。
1.池田家系図では中村一忠の母を安養院としている。曹渓院を母とするには情報が乏しい。
2.總泉寺縁起では夫人とだけ記述がある。実母とするか養母とするかは断定されていないが、文脈からは伯耆で亡くなった養母(中村一氏の妹)と考えられる。
曹渓院を中村一忠の養母とする説には中村一忠が11歳の若さで伯耆国へ移ることとなるが既に父母は他界し、頼れるのは家老の横田村詮のみであったことは想像に難くない。横田村詮の妻は中村一氏の妹であり、中村一忠の養母を務めた可能性が推測できる。
中村一忠が直々に菩提寺を建て、浄明院が開基を許したとすれば相当位の高い人物と推測できることから該当する人物が限られる。
3.中村一氏の正室、安養院は中村一忠が伯耆入りする前(慶長四年)に静岡で亡くなっている。
大龍山臨済寺に中村一氏と共に弔われているが、安養院の墓は近年の建立で当時から弔われていたか不明としている。
静岡で母を弔えなかった中村一忠が安養院のために開基したと推定した場合、母の名を間違えることが起こり得るのか疑問が残る。
4.中村一忠の側室で寵姫の菩提寺とする可能性を考えるが、総泉寺の古位牌には当寺の開基を浄明院としており、側室の子を良く思わず中村家を断絶させた浄明院が側室の菩提寺建立を認めるとは到底考え難い。(総泉寺の古位牌に「当寺開基松平因幡守康元娘」とある)
諸説をまとめると總泉寺の中村一忠の御母堂、曹渓院とは「中村一忠の養母で中村一氏の妹、執政家老横田村詮の妻」とする説が無難と考えられるが、この説を裏付けるまでの史料は見つかっていない。
中村家断絶の後、伯耆国へ入った加藤貞泰の父、加藤光泰の戒名が「剛園宗勝曹渓院」とあり、再び曹渓院の文字が見える。
加藤貞泰が米子城の城主を務めた頃は篤く保護を受け、加藤光泰の命日には読経供養を務めていたことから曹渓院とは特定の個人を指すものではなく、象徴とする架空の人物である可能性も僅かに考えられる。
写 真
2013年9月6日、2013年10月28日