所 属
中村
▶
池田
よみがな
人物名
みなみ じんごべえ
南甚五兵衛
官 途
不詳(兵衛尉)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
中村家の家臣。
中村家の改易後は本府(池田家)に仕えたとしている。(伯耆志)
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)大事に至りければ一忠、南甚五兵衛を使者にて出雲富田城主堀尾帯刀吉晴に援兵を乞わる。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家遺臣200余名と飯山の砦(内膳丸とも)に立て籠った。
出雲国の堀尾氏へ援軍を要請するため中村一忠から使者として遣わされている。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺の門前に到着し、反乱は当日中に鎮圧される。
伯耆志 海池村の条
(略)政則、当郡境村来る。荒尾氏(但馬)の意を得て郡奉行湊五左衛門、先所領の高を以て采地を與えん事を告ぐ。承諾して当村に来り命を俟つ且当時新田開発せり。然るに聘命至らず故にこれを問う。荒尾氏、南甚五兵衛(中村氏の遺臣なり。本府に仕えしと見ゆ)を以て答て曰く「転封後万事の所置未だ至らず。姑らく他日を待つべし」とあり、偶、出雲大夫乙部氏其君の内命を以て又これを聘す曰。政則に四百石、子政明に二百石約束書あり。寛永十五年の事なり。因て荒尾氏に当地を去らん事を請う。之を許されず二男儀三郎を出雲に至らしむ。二百石を賜りて連綿たり。(略)
1638年(寛永15年)
荒尾成利より湊五左衛門に対して前任地と同じ石高で会見郡海池村への任地替えが命じられる。
湊五左衛門は任地替えを承諾し早々に海池村へと赴くが、海池村では樋口氏によって新田開発が続けられており、一向に辞令も下りないことから荒尾成利へと問い合わせている。
荒尾成利から遣わされ、湊五左衛門には池田家の転封に伴い手続きが遅れているため、今しばらく待つようにと伝えている。
樋口氏は1620年(元和6年3月27日付)、堀尾忠氏から樋口彦助に370石、樋口勘八に200石の扶持が宛がわれたとする花押入りの証文を二通、出雲の乙部氏から樋口政則に400石、樋口政明に200石の知行を約束する書簡があるとして湊五左衛門の退去を申し出たが却下されている。
堀尾忠氏は1604年8月28日(慶長9年8月4日)に亡くなっており、子の堀尾忠晴も1633年10月26日(寛永10年9月24日)に亡くなり堀尾家も無嗣改易となっているため、樋口氏の所持した堀尾忠氏の証文がどのような効力を持っていたかは不明とする。