武将列伝帖

あらお たじまのかみ なりとし

荒尾但馬守成利

【氏】高階【姓】朝臣【名】荒尾【通称】近江【諱】成利

別 名

荒尾内匠介(あらお たくみのすけ)

荒尾近江(あらお おうみ)

幼 名

駒之助(こまのすけ)

劉節(りゅうせつ)

出 身

不明

官 途

但馬守、近江守

所 属

池田氏

生 年

1589年(天正17年)

没 年

1655年(明暦元年)10月12日

 

- 列 伝 -

池田家の家老、荒尾成房の嫡男。藩主池田忠継池田忠雄池田光仲に家老として仕えた。

後の米子城預かりとなる初代荒尾氏。

 

1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では池田忠継に従い出陣しており、大和田攻略では右手の大将として武名を上げた。

 

1625年( 寛永2年)、父、荒尾成房の隠居により家督を相続。

 

1630年(寛永7年)、父、荒尾成房が死去すると隠居料を相続。

知行は1万3000石、合わせて鉄砲50丁、組士50余名を預かった。

 

1632年(寛永9年)、藩主、池田忠雄が死去すると家督を継いだ池田光仲は因伯へ転封となった。

転封後は伯耆国米子城の城代となり、池田光仲(当時3歳)を弟の初代倉吉荒尾氏、荒尾嵩就と共に補佐し政務を執り行った。

米子町では自分手政治を行い、米子城下の整備に専念。給所は会見郡48村、汗入3村、日野3村の計54村。

 

1649年(慶安2年)、江戸城の修理で幕府工事御手伝の監督にあたった経歴から因幡東照宮造営の本奉行を務めている。

 

1652年(承応元年)、藩主権力の強化を図った池田光仲と対立。責問十余条を突き付けられ家老職を罷免され隠居を命じられた。

同年、隠居に伴い家督を嫡男の荒尾成直に譲っている。

この時は浪人となって国外への立ち退きを示唆するなど抵抗したが、最終的に処分を受け入れ隠居した。

 

1655年(明暦元年)10月12日に死去。67歳。

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