伯耆古城図録

いいのやまじょう

飯山城 / 飯之山城

鳥取県米子市久米町

別 名

飯山砦(いいのやまとりで)、東之丸(ひがしのまる)、采女丸(うねめまる)

遺 構

郭跡、石垣、虎口、土塁?(山頂の平坦地、英霊塔周囲の土塁は砦由来の遺構かは不明)

現 状

山林、公園(英霊塔)

城 主

(伯耆山名方)山名之定山名秀之山名之玄山名之益伯州衆

(尼子方)山名之玄山名之益尼子勝久山中幸盛牧野某

(毛利方)山名之玄山名之益福原元秀

(吉川方)福頼元秀福頼孝興古曳吉種関祐諸加藤左近

(中村方)野一色采女横田主馬助

築城年

室町時代中頃~1460年代後期

廃城年

1603年(慶長8年)以降

築城主

形 態

平山城、海城

備 考

市指定文化財 昭和52年指定、国指定文化財 平成18年1月26日指定 ※米子城として

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

京極政高感状

出雲私史(明治25年7月 博広社出版部 桃好裕)

出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月、大正13年9月第2版)

萩藩閥閲録

雲陽軍実紀

中村記

米子史談

米子の伝承と歴史(昭和48年3月 生田彌範)

縄張図

不明※古絵図に白抜きにて(放逐された施設として)図示あり

 

概 略

伯耆国米子城から国道9号を隔てた東側の飯山(いいのやま)に所在する。

西側に虎口と土塁、西側、北側、東側に石垣が残る。

 

1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護山名教之の命により家臣の山名宗幸が飯之山に築いた砦が始まりとされ、中海(深浦)の港や続く水路を見張る海城とも云われる。

室町時代中頃~1460年代後半頃は出雲国(夜見島、弓ヶ浜方面の海路)を意識した伯耆国側の要衝の地と推定されている。

 

出雲私史 巻之四 京極氏の条(和譯出雲私史)

初め持久の子、清定、相襲いで出雲の目代となり、自ら其税を奪って京極氏に納めず。持清怒って人をして之を攻めしむ。清定曰く「我れ国を父に受く。何を以て税を京極氏に納めんや」と、遂に持清に叛き出雲を取り。措き判官(名未詳)を擒にす。二年、又伯耆を取らんと欲し、其臣、宇山、本城、亀井、米原、河副、平野の諸侯をして之を攻めしむ。名和、羽衣石、南條、小鴨等逆い戦ひて敗れ、退いて米子城を保つ。

 

1470年(文明2年)、京極氏に反旗を翻し、出雲を奪った尼子清定が続いて伯耆へ侵攻、伯耆衆が応戦するも戦線を維持できず米子城へ退いて抵抗したことが見え、これが米子城の名称が見える初見の記録とされる。

この頃の米子城は飯之山の当城、或いは丸山の内膳丸が推定されている。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑之部

古へは飯の山を本城として、湊山へは外廓の如く構えしと見えたり。(略)

大永の頃(大永四年)、雲州より尼子伊豫守経久襲ひ来たりて、当城を始め諸城を討従へ、山名氏を破滅して、一国悉く尼子の手に入る。かくして尼子衰微の後は、芸州毛利氏中国を蠶食して、吉川駿河守元春山陰道征討の先鋒として、連年当国へ乱入し、城主牧野戦の功なく、又毛利の有となる。元春国中の制法を改め、諸城を補修せられしが、当城再興して古引(一本に吉川とあり)長門守吉雅を代官とし籠置きたり。

 

吉川氏が伯耆国を掌握した頃、西側の湊山に新城の築城が開始されると東の出丸として城域に取り込まれたことが吉川広家自筆の覚書に見える。

 

吉川広家自筆覚書(吉川家文書 天正19年)

一、東之丸石垣併門矢蔵事、付あたらしく可申付事。

 

新たな米子城を築城する際、豪円がお立山を湊山と名付けるまで、現在の飯山、湊山、出山丸山はまとめて“飯山”と呼称されている。

当城が飯山の何処に所在していたのかは不明ながら、幾度も戦が行われたことは記述に見える。

 

1471年(文明3年)8月、境松合戦に敗れた伯耆山名氏の軍勢が当城へ退却、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

この頃は戦線が膠着し、辛うじて伯耆山名氏が領有していたと推測される。

 

1524年(大永4年)、尼子方の西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)により落城した城の一つに名が見え、毛利氏が台頭するまでの暫くの間は尼子氏の領有となる。

 

1562年(永禄5年)、毛利方の攻撃により落城。毛利方に与した伯耆山名氏山名秀之が城主に任じられている。

 

1569年(永禄12年)、尼子方の山中幸盛の調略により山名之玄が毛利方から離反、山名之玄が城主となり山名秀之は自害とある。

 

1570年(元亀元年)、毛利方の武将、吉川元春に攻められ落城。山名之玄は反逆の罪を咎められ自害。山中幸盛尼子勝久は残党をまとめ播州へ遁走とあることから山名之玄を見捨て伯耆脱出を図ったことが伺える。

一部の郷土史では山名之玄山名之益としており、尼子残党に味方し自害するまでほぼ同様の記述が見える。

 

1571年(元亀2年)3月中旬、尼子残党の猛将羽倉元陰の率いる五百余名が米子の城下を襲撃。火を放ち町を焼くと消火作業に気を取られていた城番の福原元秀羽倉元陰によって討ち取られたとある。

城番を福頼元秀とする記述では羽倉元陰に敵わず城内へ退却し、以降は門を堅く閉ざして応戦しなかったため討ち取られることはなかった。(雲陽軍実記 羽倉孫兵衛米子城合戦討死并秋上反心毛利一味之事)

 

福原元秀に代わり伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されている。

一説にはこの襲撃の前後、吉川隆久吉川元春による城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとしている。

 

1565年(永禄8年)、出雲国月山富田城が落城し尼子氏が滅ぶと西伯耆の経営は杉原盛重に任されることとなった。

 

1581年(天正9年)、福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

古曳吉種の城番任命時期には諸説あり、福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に城番として留守を預かる記述では1569年(永禄12年)から、福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため城番を預かる記述では1577年(天正5年)からとされる。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が代官の古曳吉種に湊山への築城を命じており、築城奉行には山県九左衛門が任じられている。

同年12月には吉川広家が米子の城下町を14の区に区切り、戸上、法勝寺、黒坂、尾高、岩倉の各城下から住民を勧誘とされる。

※この説は1575年(天正3年)の時点で米子に町が存在しなければ成立は難しい。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の敗北により吉川広家は岩国へ転封となり、駿府より中村一忠が伯耆国へ入封するが、当時の米子の有様は松林の繁茂する未開の地とされ、大名の居住が可能な施設どころか町の存在すら怪しいとする記述も見える。

そのため西伯耆で最も栄えていた伯耆国尾高城を仮の居城とし、執政家老の横田村詮と共に湊山の城郭や二の丸、城下町の整備が整った後に米子城へ入ったとしている。

 

中村一忠の入封時に関する記述では吉川広家による築城や城下町整備の進捗が文書に記される通り進んでいたのかが疑問となり、移封直前に破壊活動を行った説も憶測として挙がっている。

城郭の破却は可能性があれど、伴って城下町まで破壊したとは考え難いため、吉川広家が治めた頃の開発の進捗については深浦の軍港など限られた場所に限定されそうである。

 

中村一忠の入封時、飯山の城郭や居館の不在など、吉川広家が城郭と城下町をどの程度まで整えられていたのかは今後の史料の発見に期待がかかる。(現時点では会見郡米子庄として漁村などの小規模集落が点在した事のみ伺える)

 

中村氏が伯耆国を治めた頃は家老の野一色采女が居館を構えたことから「采女丸」とも呼ばれる。

 

1603年12月(慶長8年11月)、執政家老の横田村詮が殺害されると横田主馬助を始めとする横田家の遺臣二百余名が飯山の砦に立て籠もり、米子城騒動(横田騒動)と呼ばれる内乱に発展している。

この内乱は中村方の将兵だけでは鎮圧ができず、出雲国の堀尾氏へ援軍を要請している。

堀尾氏の軍勢が到着すると中村方は正門(大手門、玄関口)から、堀尾方は搦手(裏門、台所口)からの挟撃によって反乱を鎮圧したとする。

 

横田勢が立て籠もった場所には諸説あり、当城、遠見櫓から登り石垣を北下した内膳丸、城主居館の二ノ丸を見立てる説がある。

 

当城に立て籠もったとする説は現在の地名(山名)を基に唱えられたと推定される。

増援として参陣した堀尾氏大龍山総泉寺に陣を構えたのは加茂川を水堀として、横田方が立て籠もった当城との緩衝帯に利用した状況が推測される。

 

一説には騒動の黒幕として野一色采女の名前が見える。

日頃より横田氏野一色氏は対立していたとされ、何故に横田方が野一色氏の居館に立て籠もったのかは疑問が残る。

横田村詮が殺害された直後、横田方は満足な軍備をする時間も無いまま内乱状態へなったにも関わらず、中村方が堀尾氏へ援軍を頼まざるを得ないほどの抵抗を見せていることは、横田方が相当の準備を事前に行っていたか、或いは武器庫が置かれ防衛機能も高く、横田家で管理をしていた勝手知ったる内膳丸の方が適しているとも推測できる。

 

後の古絵図に当城の施設は白抜きで放逐されたことが記されているため米子城騒動の後、徹底的な破壊・廃城が行なわれたと推定される。

 

年 表

室町時代中頃~文明2年頃

正確な築城年は不明。

1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護山名教之の命により家臣の山名宗幸が飯之山に砦を築いた事が始まりとされる。

1470年

文明2年

伯耆山名氏の軍勢が尼子氏の領する出雲国へ侵攻を開始。

出雲私史では尼子清定の伯耆侵攻に対する防衛戦に端を発する攻防戦とする。

1471年

文明3年

8月、境松の合戦において伯耆山名氏の軍は尼子清定により敗走し、伯耆山名氏による出雲国侵攻は失敗に終わったとする。(佐々木家文書 京極政高感状)

この戦で敗れた伯耆山名氏の軍が米子へと入り(出雲私史)、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

1524年

大永4年

尼子経久山名澄之の援助を称し伯耆国への侵攻を開始。

大永の五月崩れと呼ばれる電撃戦で主要な伯耆国諸城は短期間のうちに落城したと伝わる。(伯耆民談記・伯耆民諺記など)

当城も伯耆国諸城が攻略されると同時期に尼子氏の支配下になったとされる。

 

尼子氏はこれより以前から段階的に伯耆国への侵攻・籠絡を進めていたことが判明しているため、大永の五月崩れに描かれるような武力による電撃戦によって当城が尼子氏の支配下に置かれたとするのか、その時期も不明。

1562年

永禄5年

山陽一帯を平定した毛利氏尼子氏の領有する出雲国へ侵攻を開始すると伯耆の国人衆は相次いで尼子氏から離反。

当城も毛利氏と与した伯耆山名氏によって攻略されている。

この時、城主に任じられたのは毛利氏と共に当城の攻略に参加した伯耆山名氏山名秀之であったと云われる。

1569年

永禄12年

山名之玄山中幸盛ら尼子方と結び、嶋根から敗走してきた尼子残党を当城へ迎え入れている。

経緯に諸説あるが毛利方へ反旗を翻し再び尼子方の領有となった。(伯耆民談記など)

城を奪われた毛利方の山名秀之は自害しており、一部では山名之玄山名之益としている。

1570年

元亀元年

吉川元春に攻められ落城。再び毛利方によって当城は回復されている。

尼子方へ寝返った山名之玄は謀反の咎を受け自害し、山中幸盛尼子勝久は残党をまとめ播州へ遁走とある。(伯耆民談記)

1571年

元亀2年

3月中旬、尼子再興軍の武将羽倉元陰の率いる五百余名が水路より侵入し城下を襲撃。

城下の民家を焼き、消火作業に気を取られていた城番の福原元秀羽倉元陰によって討ち取られている。

 

福原元秀に代わり伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されている。

一説にはこの襲撃の前後、吉川元春により城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとも云われる。

1581年

天正9年

福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

 

古曳吉種への城番任命時期には諸説あり、

福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に城番として留守を預かる説では1569年(永禄12年)から

福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため城番を預かった1577年(天正5年)から

とする説がある。

1581年

天正9年

福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

1591年

天正19年

吉川広家古曳吉種に湊山への築城を命じたとあり、築城奉行として山県九左衛門が任じられている。

12月、吉川広家が米子の城下町を14の区に区切ったと云われている。※この説は1575年(天正3年)に町が存在した場合と考えられる。

1592年

天正20年(文禄元年)

吉川広家古曳吉種とともに唐入りのため朝鮮半島へ出征とある。(文禄の役)

この時の城番として関祐諸加藤左近の名前が見える。

古曳吉種は朝鮮にて戦死。

1598年

慶長3年

11月、豊臣秀吉の死により日本軍は朝鮮半島から撤兵を開始。

吉川広家も出雲国月山富田城へ戻ると出征により中断していた湊山への築城を再開したとある。

築城の再開と同時に米子港(深浦)の整備も行われたとされる。

1600年

慶長5年

9月、関ヶ原の戦いに於いて毛利輝元が総大将を務めた西軍が敗れる。

東軍へと内通していた吉川広家は毛利家存続のため奔走し主家改易の危機を乗り切るが毛利家と共に岩国へ転封となる。

吉川広家の出陣中は築城奉行として祖式九右衛門が築城に当たり、住人6千人を動員して湊山築城の進捗具合は7割程度、小天守のみ完成していたとされる。(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」)

 

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となる。

1601年

慶長6年

吉川広家が岩国へ出向。

伯耆国を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ米子城主として寄進を行っている。(阿陀萱神社由緒書)

1602年

慶長7年

中村一忠、執政家老の横田村詮と共に湊山へ伯耆国米子城を完成。

当城は出丸として残され中村家の家臣、野一色采女に任された事から「采女丸」とも呼ばれた。

1603年

慶長8年

中村一忠が慶事の場で執政家老、横田村詮を誅殺。

横田村詮の子、横田主馬助を総大将として横田家の遺臣二百余名、客将で柳生一族の柳生宗章らが当城に立て籠もり中村一忠に対して抵抗(叛乱)したとされる。

中村方の兵力だけでは事態の収拾を図ることができず、救援要請に応じた出雲国月山富田城の城主、堀尾吉晴親子の援軍が到着すると翌日までに叛乱は鎮圧されている。(横田騒動・米子城騒動)

※横田方が立て籠もったのは丸山の内膳丸であったとする説もある。

 

後の古絵図には白抜きで放逐された施設として記述が見えることから騒動の後、当城の施設が破却されたと考えられる。

1966年

昭和41年

10月、飯山の山頂に英霊塔が竣工。

工事の際、城に由来する瓦や瓦礫の破片が見つかったと云われる。

地 図

 

写 真

訪城日 2019/02/23

写 真

訪城日 2013/04/29

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