伯耆古城図録

いいのやまじょう

飯山城 / 飯之山城

鳥取県米子市久米町

別 名

飯山砦 / 飯之山砦(いいのやまとりで)、飯山之塁(いいのやまのとりで)、東之丸(ひがしのまる)、采女丸(うねめまる)

遺 構

郭跡、土塁、石垣、虎口(土塁)、横堀

頂部平坦地は英霊塔の建設による改変と考えられるが、古絵図に見える地形が残存している。

頂部平坦地の縁部分は英霊塔建設に伴う土留めとも考えられ、砦に由来する遺構とするかは不明。

伯耆志では南方に普請途中の堀があったとしている。

現 状

山林、公園(英霊塔)

城 主

(伯耆山名方)山名之定山名秀之山名之玄山名之益伯州衆

(尼子方)山名之玄山名之益山名之茲山名久秀尼子勝久山中幸盛牧野某

(毛利方)山名秀之山名之玄山名之益福原元秀

(吉川方)吉川元春福頼元秀福頼孝興古曳吉種関祐諸加藤左近

(中村方)野一色采女横田主馬助

築城年

室町時代中頃~1460年代後期

廃城年

1603年(慶長8年)以降

築城主

形 態

平山城、海城

備 考

市指定文化財 昭和52年指定、国指定文化財 平成18年1月26日指定 ※米子城として

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

京極政高感状

出雲私史(明治25年7月 博広社出版部 桃好裕)

出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月、大正13年9月第2版)

萩藩閥閲録

雲陽軍実紀

中村記

米子史談

米子の伝承と歴史(昭和48年3月 生田彌範)

縄張図

不明 ※古絵図に白抜き(放逐された施設として)の図示あり

 

概 略

伯耆国米子城から国道9号を隔てた東側の飯山(いいのやま)に所在する。

英霊塔建設に伴う改変も考えられるが、江戸期に描かれた古絵図にある通り、西側に虎口と土塁を備え、西側、北側、東側の切岸面には石垣が現存している。

新城として湊山へ米子城の築城が開始される前後、大山寺の豪円がお立山を湊山と名付けるまでは現在の飯山、湊山、出山丸山の山塊をまとめて飯山と呼称している。

1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護であった山名教之の命を受け、家臣の山名宗幸が飯之山に築いた城砦が始まりとされ、中海に面する漁村及び漁港、出雲国側へ続く水道を見張った海城と推定される。

室町時代中頃~1460年代後半頃は出雲国側(夜見島、弓ヶ浜方面の海路)を意識した伯耆国側の要衝地の一つ。

 

出雲私史 巻之四 京極氏の条(和譯出雲私史)

初め持久の子、清定、相襲いで出雲の目代となり自ら其税を奪って京極氏に納めず。持清怒って人をして之を攻めしむ。清定曰く「我れ国を父に受く。何を以て税を京極氏に納めんや」と遂に持清に叛き出雲を取り。隠岐判官(名未詳)を擒にす。二年、又伯耆を取らんと欲し、其臣、宇山、本城、亀井、米原、河副、平野の諸侯をして之を攻めしむ。名和、羽衣石、南條、小鴨等逆い戦いて敗れ、退いて米子城を保つ。備後宮兼益(若狭守)等之を聞き、石見、益田、三隈の諸族と伯耆を援わんと謀り、兵二千餘を率いて直に出雲に入り清定を攻む。清定の精兵時に伯耆に在り。戦利あらず。(略)

 

1470年(文明2年)、京極氏より出雲国を奪った尼子清定が続けて伯耆国へ侵攻。

伯耆衆が応戦するも戦線を維持できず、退却先であった城砦が米子城とされ、これが城砦名の初見とされる。(出雲私史)

この頃の米子城は湊山ではなく飯之山の当城、或いは丸山の内膳丸が推定されている。

 

1471年(文明3年)8月、境松合戦に敗れた伯耆山名氏の軍勢が当城へ退却し、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

この頃は戦線が膠着し、辛じて伯耆山名氏が領有していたと推測される。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑之部

古へは飯の山を本城として、湊山へは外廓の如く構えしと見えたり。(略)

大永の頃、雲州より尼子伊豫守経久襲い来たりて当城を始め諸城を討従へ山名氏を破滅して一国悉く尼子の手に入る。かくして尼子衰微の後は芸州毛利氏中国を蠶食して吉川駿河守元春山陰道征討の先鋒として連年当国へ乱入し城主牧野戦の功なく又毛利の有となる。元春国中の制法を改め諸城を補修せられしが当城再興して古引(一本に吉川とあり)長門守吉雅を代官とし籠置きたり。

 

伯耆志 米子の条 城の項

(略)南に連る山を飯山と号し(又、采女丸と呼ぶ説下に見ゆ)、北に連る山を丸山と号す(又、内膳丸と呼ぶ説下に見ゆ)。(略)当城草創は年紀定め難けれども慶長の初、吉川蔵人広家(元春の二男なり。兄元長早世に由て家を嗣けり)経営せられし趣なり。其頃彼家の本城は出雲富田(今の広瀬なり)にて、彼国及び当国西三郡を領す。当郡は尾高を本城として(天正十一年は杉原氏在番す。其後吉田肥前守これに代る。慶長の初めの頃は吉川氏の将在城せしなるべし)余は皆其属城たり故に米子城主の事蹟諸書に見えず。但し水陸共に便なるが故に飯山下に塁を構えて(民諺記に披る)事を達せしものと見えたり。是も毛利氏の草創なり。陰徳太平記に元亀二年三月米子城福頼治部大輔元秀(毛利氏の部下)が楯籠りけるを云々。尼子勝久の将、秋上伊織助が兵、羽倉孫兵衛元陰云々。五百人小舟十余艘に取乗て米子町へ打入けり。福頼云々防戦せしが共云々所々に火を掛ける間福頼煙に咽て防ぎ得ず城中に引て入。羽倉は数人討取町家残らず放火して勇み悦び云々。漕ぎ帰りけり云々。又民諺記に六年六月(本書に元年とするは誤なり)十日、尼子勝久、山中鹿之助等云々。米子城山名治部大夫之茲、隠岐判官を語らい(此の山名氏詳ならず。此時迄杉原に属せしなるべし或は杉原盛重の女婿、河口刑部少輔久氏が族か。河口氏本姓山名なり。是等の事、倉吉の部に記す)云々。勢甚盛なるに依り富田城主吉川元春云々。末次城(出雲松江なり)を取巻き日夜を分かたず攻戦うに依り城中終に敗北し米子城に打莟む云々。雲州勢伯州へ押渡り湊山を大に攻む云々。隠岐判官一番に敗北して本国隠岐へと遁走る云々。城主山名之茲は城中に於て自害する云々と記せるも皆彼の塁にての事なり。此後吉川氏の将にて当国の士、古引長門守吉種(当家の事は実久村の下に記す)此塁を守れり。古引氏文禄元年朝鮮に戦死す後、慶長五年迄吉川氏の将在番せしなるべし。かくて当城を吉川氏の経営とする事は陰田村櫃田氏が家記に載たる広家出雲日御碕検校に答うる書には

 

就京都下向儀於御神前被抽祈念御巻物頂戴致満足候殊御太刀壹三百疋被掛御意畏悦至候然者伯州犬田之事御本領之由証文等令一見候無其粉米子ノ以在城之上可致還補候之條御立願候而弥武運長久之御祈祷所仰候猶桂左馬之介可申候恐惶謹言 三月六日 広家 判 日御碕殿 参返報

 

又一紙あり其文

 

就広家下向之儀御音信御使者則致披露候随而伯州犬田之事被御聞候桂左馬之助相談仕御支証等見申候然者米子以入城之上可有寄附之由被申條可為満足候委者又五郎被仰之條不能一二候 三月六日 恐惶謹言 今田平右衛門尉春知 判 日御碕元政様 貴報

 

今田氏は広家の臣と見えたり。右の文言を考うるに城経営中の趣と聞えたり。猶按るに広家 天正十九年六月富田入城あり。明年(文禄元年)朝鮮征伐の事発りて其三月諸将肥前に会す。広家又之に赴き渡海して数年の後、慶長元年六月一度帰朝して同二年二月又挑戦に渡り同三年四月帰朝す。然れば右の手簡の三月六日は文禄元年より慶長三年の間に非ず四年か又五年の贈答なるべし(斯記して後一本中村記を見れば四年広家初めて当城を築くと見えたり披あるなるべし)其頃富田を転して此城に移らん為めに土木を発せしが五年九月関原一敗の後、毛利数国を削られ広家周防に転する事となりしが故に六年中村氏入国の時城の修理いまだ成らず因みて暫らく尾高に在城あり。当城其頃は南方の堀も半掘りで止めし由中村記に見えたる。右等の事此彼の書に粗記すと云えとも皆粗にして弁し難く又民諺記に元春の草創と云い又世人或いは米子城主吉川元春など記する事などあるが故に今是を弁す吉川氏の在城は会て無かりし事なり。

 

1524年(大永4年)、尼子方による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城した城砦の一つとされる。

大永の五月崩れ以降、尼子方の城将は不明だが永禄年間には牧野某が籠城し毛利方の武将、吉川元春に抵抗している。(伯耆民談記)

 

1562年(永禄5年)、毛利方の武将、吉川元春が率いる部隊の攻撃を受け落城。毛利方に与した山名秀之が城主に任じられている。

 

1563年(永禄6年)6月10日、尼子勝久山中幸盛の調略を受けた山名之茲が当砦を奪い尼子方へと与している。

数日の内に出雲国末次城を攻略した毛利方の吉川元春の部隊に包囲され、迎撃に出陣した隠岐判官の部隊が遁走すると山名之茲は自刃し落城。再び毛利方の領有となる。(伯耆志)

 

1565年(永禄8年)、出雲国月山富田城が落城し尼子氏が滅ぶと西伯耆の経営は杉原盛重に任されることとなり、伯耆国尾高城を本城として他は全て属城とされる。

 

1569年(永禄12年)、尼子家旧臣、山中幸盛の調略を受けた山名之玄が毛利方を離反。毛利方の城主であった山名秀之を自害させ、尼子方へと与している。この説では尼子勝久山中幸盛が当城へ入城とある。

 

1570年(元亀元年)、毛利方の吉川元春に攻められ落城。山名之玄は反逆の罪を咎められ自害。(伯耆民諺記)

尼子勝久山中幸盛は残党をまとめ播州へ遁走とあるが目立った被害がないことから早い段階で山名之玄を見捨て伯耆脱出を図ったことが伺える。

伯耆志では1563年(永禄6年)の出来事としているが、山中幸盛尼子勝久が列記されていること、1583年(天正11年)に杉原氏尾高城に在城とあるが、既に杉原氏は改易されていることから伯耆志も一部に不整合な記述が見える。

一部の郷土史では山名之玄山名之益としており、尼子方に味方し自害するまでほぼ同様の記述が見える。

 

1571年(元亀2年)3月中旬、尼子残党の猛将羽倉元陰の率いる五百余名が城下を襲撃。

火を放ち町家を焼くと消火作業に気を取られていた城番の福原元秀羽倉元陰によって討ち取られている。

城番を福頼元秀とする記述では羽倉元陰に敵わず城内へと退却し、門を堅く閉ざして以降は応戦しなかったため討ち取られることはなかった。(雲陽軍実記 羽倉孫兵衛米子城合戦討死并秋上反心毛利一味之事)

 

福原元秀が討たれた後は伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されるが、福原元秀は当城に居らず元々福頼元秀が在番していたとも考えられる。

一説にはこの襲撃の前後、吉川隆久吉川元春による城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとしている。

但し、伯耆志では米子城の城主であった吉川広家を始め、当城砦への吉川元春の在城もなかったであろうとしている。

 

1581年(天正9年)、福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

古曳吉種の在番時期には諸説あり、福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に留守を預かる説では1569年(永禄12年)から、福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため留守を預かる説では1577年(天正5年)からとされる。

 

吉川広家自筆覚書(吉川家文書 天正19年)

一、東之丸石垣併門矢蔵事、付あたらしく可申付事。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が代官の古曳吉種に湊山への築城を命じており、築城奉行には山縣春佳が任じられている。

同年12月には吉川広家が米子の城下町を14に区切り、戸上、法勝寺、黒坂、尾高、岩倉の各城下から住民を勧誘したとされる。

※この説は1575年(天正3年)の時点で米子に町が存在しなければ成立せず、尾高城は引き続き西伯耆の本城として機能していたことから各城下の機能をこの頃移したとする説は考え難い。一説に区割りが行われたのは漁村部(現在の灘町や立町)と考えられている。

当城は東の出丸として城域に取り込まれたことが吉川広家自筆の覚書に見え、石垣、虎口(門)、櫓(矢蔵)の増設が行われたとしている。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに於いて西軍の敗北により吉川広家は岩国へ転封となり、駿府より中村一忠が入国する。

当時の米子の有様は松林の繁茂する未開の地とされ、大名の居住に耐える施設も存在せず、町の存在すら怪しいとする記述も見える。

そのため西伯耆で最も栄えていた尾高城を仮の居城とし、執政家老の横田村詮と共に湊山の本丸、居館となる二の丸を建造し、城下町の整備が整った後に米子城へ入ったとしている。

 

中村一忠の入封時に関する記述では吉川広家による築城や城下町の整備が文書に記された通りの進捗であったか疑問となり、移封直前に破壊活動を行った説も憶測として挙がっている。

城郭の破却は可能性もあるが、伴って城下町まで破壊したとは考え難いため、吉川広家が山陰の三郡を治めた頃の米子城普請の進捗については当城の補強や深浦の軍港など軍事施設の限られた場所に限定されそうである。

吉川広家の移封時、米子城の城郭と城下町がどの程度まで整えられていたのかは今後の史料の発見に期待がかかる。(現時点では会見郡米子庄として漁村など小規模な集落が点在した事のみ伺える)

 

中村氏が伯耆国を治めた頃は家老の野一色采女が居館を構えたことから采女丸とも呼ばれる。

 

1603年12月(慶長8年11月)、執政家老の横田村詮が殺害されると横田主馬助を始めとする横田家の遺臣二百余名が当城砦に立て籠もり、米子城騒動(米子騒動、横田騒動、中村騒動)と呼ばれる内乱に発展している。

この内乱は中村方の将兵だけでは鎮圧できず、出雲国の堀尾氏へ援軍の派兵を要請している。

堀尾氏の軍勢が到着すると中村方は正門(大手門、玄関口)から、堀尾方は搦手(裏門、台所口)からの挟撃によって反乱を鎮圧したとする。

 

横田勢が立て籠もった場所には諸説あり、現在の飯山(当城)とする説、遠見櫓から登り石垣を北下した丸山(内膳丸)及び城主居館の二ノ丸を見立てる説がある。

当城に立て籠もったとする説は現在の地名(山名)を基に唱えられたと推定される。

堀尾方の増援が大龍山総泉寺に陣を構えたのは加茂川を水堀として、横田方が立て籠もった当城との緩衝帯に利用したと推測される。

 

一説には騒動の黒幕として野一色采女の名前が見える。

日頃より横田氏野一色氏は対立していたとされ、何故に横田方が野一色氏の居館に立て籠もったのかは疑問が残る。

横田村詮が殺害された直後、横田方は満足な軍備をする時間も無いまま内乱状態となったにも関わらず、中村方が堀尾氏へ援軍を頼まざるを得ないほどの抵抗を見せている。

これには横田方が事前に相当な準備を行っていた、或いは武器庫が置かれ継戦能力と防衛機能に優れる上、二ノ丸、三ノ丸も掌握し易く、何より横田家が管理を行い勝手知ったる内膳丸の方が適しているとも推測できる。

横田方が内膳丸ではなく、対立した野一色氏の居館が所在する当城に立て籠った理由としては横田村詮の暗殺の黒幕ともされる野一色采女に対する報復の意図も汲み取れそうである。

 

後の古絵図に当城の施設は白抜きで放逐されたことが記されているため、騒動中の破壊であれば野一色氏へ対する横田方の報復、騒動後であれば内乱に対する見せしめや戒めとする徹底的な破壊が行なわれたと推定される。

 

年 表

1467年頃

室町時代中頃~文明2年頃

正確な築城年は不明とするが1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護山名教之の命により家臣の山名宗幸が飯之山に塁(砦)を築いた事が始まりとされ、応仁の乱に備えた築城とも推定されている。

1470年

文明2年

伯耆山名氏の軍勢が尼子清定の領する出雲国へ侵攻を開始。(出雲私史)

出雲私史では尼子清定による出雲国の奪取から伯耆国への侵攻に対する防衛戦に端を発する攻防戦とする。

1471年

文明3年

8月、境松の合戦に於いて伯耆山名氏(伯州連合軍)は尼子清定の軍勢により敗走し、尼子清定に奪われた出雲国の奪還に失敗したとする。(佐々木家文書 京極政高感状)

この戦で敗れた伯耆山名氏の軍勢が米子へと入り出雲側への警戒を行ったとある。(出雲私史)

この時、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

1524年

大永4年

尼子経久山名澄之の援助を称し伯耆国への侵攻を開始。

大永の五月崩れと呼ばれる電撃戦で主要な伯耆国の諸城は短期間のうちに攻略され、当城も落城した一城として記述に見える。(伯耆民諺記)

尼子氏は以前から段階的に伯耆国への侵攻・籠絡を進めており、大永の五月崩れに見える武力による電撃戦で尼子氏の支配下に置かれたとするかは不明。

1562年

永禄5年

毛利氏が勢いを得て、尼子氏の領有する出雲国へ侵攻を開始すると、且つて尼子氏によって国を追われた国人衆は毛利方に与し、伯耆国内で尼子方に与していた国人衆も相次いで毛利方へと恭順している。

当城も毛利氏の軍勢によって攻略され、与した山名秀之が城主に任じられている。

1563年

永禄6年

6月10日、尼子勝久山中幸盛の調略により山名之茲が当砦を奪い毛利方に反旗を翻すと尼子方へ与している。

数日の内に出雲国末次城を攻略した毛利方の吉川元春の部隊に包囲され、迎撃に出陣した隠岐判官の部隊が遁走すると山名之茲は自刃し落城。再び毛利方の領有となる。(伯耆志 ※伯耆民諺記に見える元亀元年の出来事とほぼ同じ内容)

1565年

永禄8年

出雲国月山富田城が落城し尼子氏が滅亡。西伯耆は杉原盛重に任されることとなり尾高城の属城となる。

1569年

永禄12年

山名之玄山中幸盛ら尼子方と謀り当砦を奪取し毛利方へ反旗を翻すと嶋根から敗走してきた敗残兵を当城へ迎え入れ、尼子勝久山中幸盛も入城したとされる。

毛利方の城主であった山名秀之は自害。

1570年

元亀元年

毛利方の吉川元春の軍勢による攻撃を受け落城。

山名之玄は謀反の咎を受け自害し、山中幸盛尼子勝久は残党をまとめ播州へ遁走とある。(伯耆民諺記 ※伯耆志に見える永禄6年の出来事とほぼ同じ内容)

1571年

元亀2年

3月中旬、尼子再興軍の武将羽倉元陰の率いる五百余名が水路より侵入し城下を襲撃。

城下の町家を焼き、消火作業に気を取られていた城番であった福原元秀羽倉元陰によって討ち取られている。

福原元秀に代わり伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されている。

一説にはこの襲撃の前後、吉川元春により城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとも云われる。

1581年

天正9年

福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

古曳吉種への城番任命時期には諸説あり、

福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に城番として留守を預かる説では1569年(永禄12年)から

福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため城番として留守を預かる説では1577年(天正5年)から

とする諸説が見える。

1591年

天正19年

吉川広家古曳吉種に湊山への築城を命じたとあり、築城奉行として山縣春佳が任じられている。

12月、吉川広家が米子の城下町を14に区切ったとしているが内容に不整合な点が見える。

1592年

天正20年(文禄元年)

吉川広家山縣春佳古曳吉種福頼元秀福頼吉蔵など唐入りのため朝鮮半島へ出征。(文禄の役)

留守役の城番として関祐諸加藤月岑が在番。

古曳吉種は朝鮮にて戦死。

1598年

慶長3年

11月、豊臣秀吉の死により日本軍は朝鮮半島から撤兵を開始。

吉川広家は本城の出雲国月山富田城へと戻り中断していた湊山への築城を再開とあり、深浦の軍港整備も行われたとする。

1600年

慶長5年

9月、関ヶ原の戦いに於いて毛利輝元が総大将を務めた西軍が敗れる。

東軍へ内通していた吉川広家は毛利家存続のため奔走し、主家改易の危機を乗り切るが毛利家と共に岩国へ転封となる。

吉川広家の出陣中は築城奉行として祖式長好が築城に当たり、住人6千人を動員して湊山築城の進捗具合は7つ(7割)程度、小天守は完成していたとされる。(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」)

 

関ヶ原の戦いに於ける功績により中村一忠が伯耆国領主となる。

1601年

慶長6年

吉川広家が岩国へ出向。

伯耆国を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ米子城主として寄進を行っている。(阿陀萱神社由緒書)

1602年

慶長7年

中村一忠、執政家老の横田村詮と共に湊山へ伯耆国米子城を完成。

当城は出丸として残され中村家の家臣、野一色采女に任された事から采女丸とも呼ばれた。

1603年

慶長8年

中村一忠が慶事の場で執政家老、横田村詮を誅殺。

横田村詮の子、横田主馬助を総大将として横田家の遺臣二百余名、客将で柳生一族の柳生宗章らが当城に立て籠もり中村一忠に対して抵抗(叛乱)したとされる。※横田方が立て籠もったのは丸山の内膳丸とする見立てもある。

中村方の兵力だけでは事態の収拾を図ることができず、救援要請に応じた出雲国月山富田城の城主、堀尾吉晴親子の援軍が到着すると翌日までに叛乱は鎮圧されている。(横田騒動、中村騒動、米子騒動、米子城騒動)

後の古絵図には白抜きで放逐された施設として図示されることから騒動の後、当城の施設が破却されたと考えられる。

1966年

昭和41年

10月、飯山の山頂に英霊塔が竣工。

工事の際、城に由来する瓦や瓦礫の破片が見つかったと云われる。

地 図

 

写 真

訪城日 2019/02/23

西側の虎口

西側の虎口(右側は土塁)

西側の虎口(右側は土塁)

西側の虎口(手前は土塁)

西側の虎口(手前は土塁)

西側の石垣跡

西側の石垣跡

西側の石垣跡

西側の石垣

西側の石垣

西側の腰郭

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

石垣の中央は門跡

吉川広家の書状に見える石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭(主郭直下)の石垣

北側腰郭に石垣の残骸

北側腰郭に石垣の残骸

北側腰郭(3段目)

北側腰郭(3段目)

北側腰郭(4段目)

主郭東側の石垣

主郭東側の石垣

主郭東側の石垣

麓の祠(伝・柳生宗章らの墓)

写 真

訪城日 2013/04/29

米子城の天守台からの眺め

柳生宗章の奮戦を記す案内板

登城口にある案内板

主郭へと続く階段

西側の腰郭

西側の腰郭

西側中腹の野面積み石垣

主郭には英霊塔

英霊塔付近は一段高い

主郭の東屋

主郭の高まり(英霊塔西側)

主郭の高まり(英霊塔東側)

主郭に放置された岩塊

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