伯耆国 八橋郡
やばせじょう
八橋城
所在地
鳥取県東伯郡琴浦町八橋
城 名
八橋城(やばせじょう)
別 名
大江ノ城(おおえのしろ)…中世はこちらの呼称、表記が一般的。
大江城(おおえじょう)…中世はこちらの呼称、表記が一般的。
岩上山ノ城(いわかみやまのしろ)…伯耆民談記に見える呼称。
立石城(たていしじょう)…JR山陰本線の敷設前は南側にも城域が展開していたことに由来する呼称。
津田城(つだじょう)…城主の津田氏に因む呼称。
八橋陣屋(やばせじんや)…廃城後、政庁として機能した陣屋部分の呼称。
端八橋城(はやなせのしろ)…中務大輔家久公御上京日記に見える経由地のひとつ。「やなせじょう」と読むか。
築城主
築城年
室町時代
廃城年
1617年(元和3年)
形 態
平山城
遺 構
郭跡、石垣、礎石
現 状
JR八橋駅、八橋城山稲荷神社、酒井片桐飛行殉難碑、公園、山林、原野
備 考
東伯町指定史跡(現琴浦町指定史跡)(昭和49年5月1日指定)
縄張図
八橋城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
伯耆山名
一族累々の家城とする。
大永の五月崩れにより国外へと退去する。
城 主
尼子
大永の五月崩れ以降は兄の吉田光倫が伯耆西三郡、自身は東三郡を領有したとする。(伯耆民談記)
天文年間、吉田左京亮の戦死に伴い家督を相続する。
吉田源四郎の部将として永禄7年に在番している。
永禄7年に在番した城将のひとりとする。
城 主
毛利
香川光景
永禄7年に尼子方から奪取し、三村家親と共に逗留したとある。(伯耆民談記)
城 主
毛利
三村
三村家親
永禄7年に尼子方から奪取し、永禄8年に出雲国月山富田城が落城するまで居城とする。
三村五郎兵衛
三村家親の部将として在番した城将のひとり。
海邊左近右衛門
三村家親の部将として在番した城将のひとり。
村松宗兵衛
三村家親の部将として在番した城将のひとり。
城 主
毛利
杉原
永禄8年、三村家親の転出後は伴い杉原家の居城となる。
杉原盛重の没後、当城を継承する。
城 主
毛利
吉川
有地右近大夫
吉川廣家功臣人數帳で城主と記される。
有地左京
吉川廣家功臣人數帳で城主と記される。
城 主
毛利
南条
永禄8年、毛利元就の命を受けた南条宗勝が城番として置いた部将のひとり。(東郷町誌)
永禄8年、毛利元就の命を受けた南条宗勝が城番として置いた部将のひとり。(東郷町誌)
一条市ノ助
永禄8年、毛利元就の命を受けた南条宗勝が城番として置いた部将のひとり。(東郷町誌)
永禄8年、毛利元就の命を受けた南条宗勝が城番として置いた部将のひとり。(東郷町誌)
赤木兵太夫
城 主
南条
芸京和睦後に城番として入城する。
芸京和睦後に城番として置かれた部将のひとり。
芸京和睦後に城番として置かれた部将のひとり。
赤木兵太夫
城 主
中村
関ヶ原の合戦後、3万石の知行を得て城主となる。
中村栄忠
中村一栄の没後、家督を相続する。
中村栄忠の伯耆国打吹城への移転後、後任として城主となる。
河毛備後
城 主
市橋
市橋長勝
中村家の改易後、美濃国今尾より移封となる。
城 主
池田
池田長明
伯耆国が池田光政の所領となったことに伴い居城とある。
津田元匡
伯耆国が池田光仲の所領となったことに伴い、家老の津田元匡が陣屋を設け自分手政治を行う。
津田氏
津田元匡以降、一族が自分手政治を行う。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
陰徳太平記 合本三(香川正矩著 明治44年5月 犬山仙之助)
陰徳太平記 巻之三(香川正矩著 明治44年5月 吉田八得)
雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)
出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月第2版)
東伯町誌(昭和43年 東伯町誌編さん委員会)
東郷町誌(昭和62年12月 東郷町誌編さん委員会)
年 表
室町時代
1524年
大永4年
大永の五月崩れによって落城。尼子方が領有すると吉田左京亮が居城し、東伯耆の三郡を支配したとされる。
1532年~1555年
天文年間
1564年
永禄7年
1565年
永禄8年
9月3日、伯耆国不動ヶ嶽を陥落させた毛利方の香川光景が続けて当城を攻撃する。
尼子方の守将であった吉田源四郎は落城必至と見ると城兵200余騎を率いて毛利軍の包囲網を破り、出雲国月山富田城へ落ち延びている。
落城後は毛利方の三村家親が居城とし、月山富田城の攻略まで守将を置き包囲網を維持する。
東郷町誌では三村家親ではなく杉原盛重を城主としている。
1580年
天正8年
4月24日、南条元続、南条元清兄弟が二度に渡って当城を攻撃する。
1581年
天正9年
1584年
天正12年
1600年
慶長5年
1604年
慶長9年
1609年
慶長14年
中村一忠が病没。中村家は嫡男無しのため断絶とされる。
1610年
慶長15年
中村家の改易に伴い美濃国今尾より市橋長勝が城主として封じられている。
1615年
元和元年
江戸幕府より一国一城令が出される。
1617年
元和3年
鳥取藩主、池田光政の所領となり池田長明が居城。
この年に廃城とされ、建物の一部を残し政務に当たったと推測される。
1632年
寛永9年
鳥取藩主、池田光仲の所領となり、家老の津田元匡が陣屋を設け自分手政治によって当地を治めた。その後、明治まで津田氏による委任統治が続いた。
概 略
陰徳太平記など中世の書物では大江城(大江ノ城)の呼称で登場する。
築城主は伯耆山名氏の重臣であった行松正盛とされ、伯耆国尾高城と同様に行松氏代々の家城と云われる。
伯耆民談記 巻之二 都邑之部
一、八橋
八橋郡菊里の郷にあり。本名を菊里という。古城を岩上山の城という。委くは古城の巻に誌す。寛永九年、津田将監に賜り古城の麓に屋敷を構え、周りに侍の小路を割り当て組の騎士に重官を置く事松崎に同じ。
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部
一、同城地理
城の本名を大江の城と号す。山を岩上山と称す。大手は東向也。本丸の高さ麓より二十六間、境地南北三十二間、東西二十三間、めぐり八十七間あり。南の隅に井あり、深さ五間、今は水無し。二の丸は本丸より東に続き、下き事三間、東西二十七間、南北二十二間、東に向つて門の跡あり。何れも礎石累々所々に残る。二の丸より五間斗り下に廓あり。東西五十八間、南北二十間、南に堀あり。長九十六間、廣さ三間、深さ二間、水無し。北に堀有り、長さ三十間、廣さ四間、深さ一間余、水あり。又、東にも堀あり、長さ五十間、廣さ六間、深さ一間、水あり。東北に川堀あり、長さ五十間、廣さ二十八間、深さ一間半。城山の東を去る事九十間斗りにして大日山あり。城山に同じく、又、西北に諏訪山あり。 相去る事二百三十間余り、高さ城山より四五間計と、此間深田也。城山より海浜へ百十間あり。民屋此間に連る。東西の馬寄せ至極よし。
伯耆民談記では本丸と二ノ丸が存在し、周囲は堀を巡らせ南の端に井戸、東に大手門があったことが記述に見える。
また、二ノ丸の下(現在の八橋駅舎から立石団地周辺)にも郭があったとしている。
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部
一、八橋の城の事
菊里の郷八橋にあり。大江の城と号す。行松左衛門尉正盛入道累代の家城なり。然るに大永の崩れに尼子経久が為に滅亡し正盛は流浪の身と成れり。当城尼子領と成って吉田肥後守が舎弟吉田左京亮居住し西三郡を守護す。然るに左京亮、播州太子堂に於て備中国成和の城主三村修理亮家親と合戦して討死せり。其子源四郎という。幼少にて孤と成りしが家臣とも軍事を補佐して当城に在り。然るに永禄七年の冬より三村家親、毛利元就の名を蒙り伯耆の押と成て会見郡法勝寺の城に居る。源四郎が家臣福山を始め各打寄りて申談する様、主人の怨敵を目の前に差置き此儘にあるべきぞ。急ぎ法勝寺へ押寄せ一朝に討果すべしとて軍議一決しける。此事三村家親に聞えて頓て芸州へ注進せしかば毛利家より香川佐兵衛尉光景を加勢として法勝寺の城へ着陣し、九月三日、家親、光景一手に成り二千余の人数にて八橋の城へ寄せかけたり。城中には吉田が臣、福山、谷土、熊谷、平松等を始め二百余人楯籠る。大手は無村勢攻寄せしが素より家親勇猛の将なれば真先に城門へ押詰め攻立つる。城中にも三村と見るよりも我先きにと突き出て身命を惜まず戦うたり。香川は搦手より攻めけるが肩先を射られ少し猶豫する所に長男五郎廣景、二男兵部太輔春継、士卒を進め外廓を乗やぶる。城兵今は叶わずとて、福山、平松、谷土、熊谷等屈竟の者共八十余騎源四郎を真中に取り包み大手へ一文字に突て出づ寄手の中を打破り西の方へ落ちて行く。家親怒てそれを討留め射取れや者どもと下知すれども主従難なく落延び尼子の本城雲州富田へ馳込みたり。三村、香川は勝鬨唱え城を乗取り当城に逗留す。源四郎が家来共此事を口惜く思い尼子義久に訴え、秋山、牛尾、本多等五百余の加勢を乞受け当城へ夜討しけれども三村、香川、用心隙間なく秋山等追払われて富田の城へ引帰る。かくして光景は芸州に帰り、当城は家親より三村五郎兵衛、海辺左近、村松宗房等に五百余人を添えて入置きける。其後当城は尾高の杉原播磨守の領となり、播磨守、尾高の城をば嫡子彌三郎元盛に譲り、其身は当城に有りて羽衣石の南条を押さえしが天正九年臘天下旬、当城において病死せり。二男又次郎景盛続て在城せしが悪逆無道なりし故、仝十年初夏の頃、吉川元長に攻落さる。此時毛利家と上方との和睦となり当城も南条元続の持と為り。伯父備前守元信を差置きたるが元信、倉吉へ移りし後、山田越中、正壽院等当城を相守る。又、吉田源四郎は尼子滅亡の後、毛利家に随い肥前守と改め杉原播磨守が聟となり、又次郎景盛亡びて後、尾高の城主となり西三郡を領せしなり。慶長五年、南条亡びて後は中村伯耆守忠一当国一圓拝領あり。当城には叔父彦右衛門一栄、三万石にて居住す。(其前駿河国沼津の城主なり)同九年三月、一栄此所にて病死す。其子伊豆守、当所を転じて倉吉に移る。同十四年、中村忠一早世に依て家系断絶す。翌十五年、市橋下総守長勝、当城を拝領有て濃州今尾より移住せしが領地は二万三千石なり。元和三年、新太郎光政公、因伯一圓を拝領有て当所には池田河内長明を差置給う。寛永九年、御当家の御領国となって津田将監元匡に此所を給わり子孫今に至って領主たり。
1524年(大永4年)、尼子経久による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城。
城主であった行松正盛は家城を失った行松氏の一族と共に国外へと退去している。
大永の五月崩れ以降、尼子氏は当城に吉田左京亮を留め置き、伯耆国羽衣石城、伯耆国泊城などを拠点として東伯耆三郡の支配体制を固めている。
天文年間(1532年~1555年)、吉田左京亮が播磨国にて討死したため、子の吉田源四郎が家督を継承している。
1564年(永禄7年)、毛利方の三村家親が伯耆国法勝寺城へ侵攻。
吉田源四郎は援軍として出陣するが法勝寺城への救援は奏功せず落城している。
和譯出雲私史 巻之五 尼子氏上 義久の条
(永禄八年)九月三日、香川光景、三村家親来つて大江城(島根郡に在り)を攻む。
義久、秋上久家を遣わして之を援う。利あらず、城将吉田源四郎、久家と共に富田に還る。
1565年(永禄8年)、尼子方の籠る出雲国月山富田城の孤立を画策する毛利方は伯耆国側からの補給を絶つため、伯耆国内における尼子方の残存戦力であった日野郡の伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽を攻略すると孤立した当城の攻略へ向かっている。
毛利方の総大将は三村家親、検使に香川光景を派遣し精兵2,000騎で当城を攻撃し落城させている。
落城の寸前、尼子方の城主であった吉田源四郎は残存兵200騎をまとめ敵中突破を敢行し、60名ほどが無事に月山富田城まで落ち延びている。
陰徳太平記では敵中突破を敢行したのは福山綱信らの行動とし、吉田源四郎は勇士に囲まれながら落ち延びたと記している。
尼子方からは秋上庵介、本田与次郎らが奪還のため3,000騎を従え夜襲を行ったが回復には至らなかった。
毛利方の領有となると三村家親の部将、三村五郎兵衛、海邊左近右衛門、村松宗兵衛らが在番とある。
1566年(永禄9年)11月21日、月山富田城に拠った尼子氏は降伏。
この頃より毛利方の武将、杉原盛重が城主に任じられている。
1582年1月19日(天正9年12月25日)、杉原盛重が当城にて病没。
家督は長男の杉原元盛へと相続され、当城へは次男の杉原景盛が入城している。
1582年(天正10年)、杉原元盛への家督継承を良しとせず、杉原景盛と旧臣の謀略によって杉原元盛が殺害される。
同年8月、杉原景盛の家督継承は認められず、毛利方の介入を受けると杉原家は改易となった。
1584年~1585年(天正12年~天正13年)、京芸和睦が成立すると当城は南条氏の領有となり、南条元信や山田越中守、正寿院利庵などが在番とされる。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易されると伯耆国は中村一忠の領有となり、中村一栄、中村栄忠、河毛備後守、依藤半左衛門が城主に見える。
大日本古文書(二 吉川廣家功臣人數帳(折本) 御用ニ罷立衆)
伯州八橋 有地右近大夫、同左京
吉川広家功臣人数帳では有地右近大夫、有地左京が在番としているが、当城は芸京和睦から南条氏の改易まで南条氏の支配下であったため、記述される「伯州八橋」が何時、何処を示しているかは不明。
一説には南条氏が関ヶ原の合戦まで大名としての体裁を維持できていなかったとする説もあり、西伯耆を支配していた吉川氏が東伯耆の一部も領有していた可能性が推測される。
1610年(慶長15年)、中村家が改易されると美濃国から市橋長勝が転封となる。
1615年~17年(元和元年~元和3年)、元和元年の一国一城令により城郭の破却が行われたとされる。
廃城後は八橋郡の政庁となる陣屋が置かれ、池田家の池田河内守長明(1606~1679)、津田将監元匡が城主へと任じられている。
津田元匡(1602~1648)以降は津田氏の知行となり、自分手政治による委任統治が明治時代まで続いている。
現在はJR山陰本線の敷設工事による開削及びJR八橋駅の建設によって南北が分断、北側に二つの郭跡が残る。
伯耆民談記では残存する郭跡の西側を主郭、東側を二ノ丸と伝えているが、戦国期の城砦か廃城後の陣屋、どちらの縄張を指すかは不明。
八橋城山稲荷神社への山道脇にはニノ丸の石垣や礎石の残骸が点在し、整った石垣跡は市橋長勝が改修を施したものとも伝える。
残存遺構も改変が著しく、八橋城山稲荷神社が鎮座する郭跡は二ノ丸ではなく櫓台など別の役割を持った郭跡とする見方もある。
ニノ丸の南側~東側にかけて土塁のような土盛も見えるが、これは線路敷設時の切通による改変(土留め)と考えられる。
ニノ丸から西へ登ると主郭となり、神社の鎮座する郭跡の麓に礎石の残骸が見える。
線路で分断された南側には郭跡が残っていたとされるが近年の宅地造成によりほぼ消滅している。
別名に「立石城」とも呼称され、城砦の南側には覚天山体玄寺が鎮座、更に南の立石団地を含む一帯までが往古の城域とも推測されている。
主郭の「酒井片桐飛行殉難碑」は1932年(昭和7年)に飛行機墜落で亡くなった新聞社の飛行士、酒井憲次郎と片桐庄平を偲んで建てられた慰霊塔。
写 真
2013年9月14日