伯耆古城図録

やばせじょう

八橋城

鳥取県東伯郡琴浦町八橋

別 名

大江ノ城 / 大江城(おおえのしろ / おおえのじょう)、立石城(たていしじょう)、津田城(つだじょう)、八橋陣屋(やばせじんや)、端八橋郡城(はやなせのしろ / やなせじょう)

遺 構

郭跡、石垣、礎石

現 状

JR八橋駅、八橋城山稲荷神社、酒井片桐飛行殉難碑、公園、山林、原野

城 主

(伯耆山名方)行松正盛行松氏

(尼子方)吉田左京亮吉田源四郎福山茲正横道高光

(毛利方)三村五郎兵衛海邊左近右衛門村松宗兵衛杉原盛重杉原景盛

(南条方)南条元信山田越中守一条市ノ助正寿院利庵赤木兵太夫

(中村方)中村一栄中村栄忠

(市橋方)市橋長勝

(池田方)池田長明津田元匡津田氏

築城年

室町時代

廃城年

1617年(元和3年)

築城主

形 態

平山城

備 考

東伯町指定史跡(現琴浦町指定史跡)(昭和49年5月1日指定)

参考文献

伯耆志

伯耆民談記

陰徳太平記 巻之三(香川正矩著 明治44年5月 吉田八得)

陰徳太平記 合本三(香川正矩著 明治44年5月 犬山仙之助)

東伯町誌(昭和43年 東伯町誌編さん委員会)

東郷町誌(昭和62年12月 東郷町誌編さん委員会)

縄張図

八橋城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

陰徳太平記では大江城(大江ノ城)と記述される。

伯耆民談記では本丸と二ノ丸が存在し、周囲は堀を巡らせ南の端に井戸、東に大手門があったことが記述に見える。

また、二ノ丸の下(現在の八橋駅舎から立石団地周辺)にも郭跡があったとされる。

 

築城主は伯耆山名氏の重臣、行松正盛とされ、伯耆国尾高城と同様に行松氏代々の家城と云われる。

 

1524年(大永4年)の尼子氏による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)で落城、城主の行松氏も国外へ退去すると尼子家家臣の吉田左京亮が居城としている。以降、尼子氏は当城、伯耆国羽衣石城、伯耆国泊城の3城を拠点とし東伯耆の支配体制を固めている。

 

天文年間(1532年~1555年)に吉田左京亮が播磨国にて討死。子の吉田源四郎が城主となった。

尼子方の城番として福山茲正横道高光の名前も見える。

 

1564年(永禄7年)、播磨国にて吉田左京亮を討った仇敵、三村家親が伯耆国法勝寺城へ侵攻すると吉田源四郎は援軍として出陣するが、法勝寺城は落城している。

 

1565年(永禄8年)、毛利方の出雲国月山富田城包囲戦の前段階として出雲国と伯耆国との補給路を絶つため、尼子方の伯耆国内における残存戦力であった伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽が続けて落城。孤立した当城も攻撃を受け落城している。

落城寸前、城主の吉田源四郎は残存兵200騎をまとめ敵中突破を敢行し、60名ほどが無事に月山富田城まで落ち延びている。

 

月山富田城尼子氏が降伏した頃は毛利方の武将、杉原盛重が城主となっている。

 

杉原盛重の後、南条氏の南条元信、中村家の中村一栄、その子の中村栄忠、美濃国の市橋長勝、池田家の池田長明らが城主として短期間で入れ替わり、最終的に池田家の家老、津田元匡が陣屋を構え、以降は津田氏の知行となり、自分手政治による委任統治が明治時代まで続いた。

 

現在はJR山陰本線の敷設工事による開削及びJR八橋駅の建設によって南北が分断、北側に二つの郭跡が残る。

線路で分断された南側にも郭跡が残っていたとされるが近年の宅地造成によりほぼ消滅している。

 

伯耆民談記の記述より、残存する郭跡の西側を主郭、東側を二ノ丸と伝えているが、戦国期の縄張なのか、廃城後の陣屋としての縄張を指すのかは不明。

八橋城山稲荷神社への山道脇にはニノ丸の石垣や礎石の残骸が点在し、整った石垣跡は市橋長勝が改修を施したものとも云われる。残存遺構も改変著しく、八橋城山稲荷神社が鎮座する郭跡は二ノ丸ではなく櫓台など別の役割を持った郭跡とする見方も。

 

ニノ丸の南側~東側にかけて土塁のような土盛も見えるが、これは線路敷設時の切り通しによる改変(土留め)が考えられる。

ニノ丸から西へ登ると主郭となり、神社の鎮座する郭跡の麓に礎石の残骸が見える。

 

主郭の「酒井片桐飛行殉難碑」は1932年(昭和7年)に飛行機墜落で亡くなった新聞社の飛行士、酒井憲次郎片桐庄平を偲んで建てられた慰霊塔。

 

年 表

室町時代

伯耆山名氏の配下、行松正盛によって築城され、行松氏の居城であったとされる。

1524年

大永4年

大永の五月崩れにより落城し尼子領となると吉田左京亮が居城し、西伯耆の3郡を支配したとされる。

1532年~1555年

天文年間

吉田左京亮が播磨国で三村家親に討たれると子の吉田源四郎が家督を継ぎ当城の城主となった。

1564年

永禄7年

吉田源四郎が伯耆国法勝寺城へ侵攻してきた三村家親を迎撃するため出陣。

この頃、城番として福山茲正横道高光の名前が見える。

1565年

永禄8年

毛利家の家臣、香川光景が伯耆国不動ヶ嶽を攻略すると続いて当城を攻撃。

劣勢極まった城主の吉田源四郎は城兵200余騎を率いて毛利軍の包囲網を破り、尼子氏の拠点である出雲国月山富田城へ落ち延びた。

当城は毛利方の領有となり毛利家の家臣、杉原盛重が城主となった。

1580年

天正8年

4月24日、南条元続南条元清兄弟が二度に渡って当城を攻撃。

1581年

天正9年

杉原盛重が病没。二男の杉原景盛が城主として在城。

1584年

天正12年

春頃、南条元続が八橋より赤崎原へ出陣とある。

毛利氏豊臣氏の「芸京和睦」で当城は南条氏が領有となる。

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦いで西軍に所属した南条氏は改易。

伯耆国は中村一忠の所領となり、中村一栄が3万石を知行し城主となる。

1604年

慶長9年

中村一栄が病没。家督を継いだ中村栄忠が城主となる。

1609年

慶長14年

中村一忠が病没。中村家は嫡男無しとされ断絶すると美濃国今尾より市橋長勝が城主として封じられている。

1615年

元和元年

江戸幕府より一国一城令が出される。

1617年

元和3年

鳥取藩主、池田光政の所領となり池田長明が居城。

この年に廃城とされ、建物の一部を残し政務に当たったと推測される。

1632年

寛永9年

鳥取藩主、池田光仲の所領となり、家老の津田元匡が陣屋を設け自分手政治によって当地を治めた。その後、明治まで津田氏による委任統治が続いた。

地 図

写 真

訪城日 2013/09/14

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