伯耆国 日野郡
ふどうがたけこせんじょう
不動ヶ嶽古戦場
所在地
鳥取県日野郡日野町中菅
城 名
不動ヶ嶽古戦場(ふどうがたけこせんじょう)
別 名
不動ヶ岳古戦場(ふどうがたけこせんじょう)…伯耆志では村名を「不動ヶ嶽」とし、山の名は「不動ヶ岳」とする。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
山城
遺 構
郭跡、土塁
現 状
山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
城 主
尼子
永禄年間、毛利方の三村家親、香川光景の軍勢に対して当城周辺に布陣する。
城 主
毛利
三村家親
永禄年間、出雲国月山富田城に対する包囲戦の準備段階として当城周辺を制圧する。
香川光景
永禄年間、出雲国月山富田城に対する包囲戦の準備段階として当城周辺を制圧する。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)
陰徳太平記 (香川正矩 陰徳太平記合本巻之二 明治44年5月 吉田八得)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)
概 略
1524年(大永4年)、尼子氏による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)によって落城した伯耆国諸城のひとつとして記述に見える。
現在の山頂手前に鎮座する不動明王を祀った祠の周辺が城跡と推定され、伯耆国不動ヶ嶽城の候補地のひとつ。
永禄年間より毛利氏の軍勢が山陰へ侵入すると、それまで尼子方に与していた伯耆国の国人の多くが毛利方へと寝返っているが、当城は変わらず尼子方への忠節を尽くしていたようである。
1564年(永禄7年)、毛利氏による出雲国月山富田城の攻略戦では伯耆国側の補給線、糧道の封鎖を目的に三村家親、香川光景らの攻撃を受け落城する。
糧道の回復を図る尼子義久は福山綱信に再攻略を命じ、四郎太夫ら親尼子派の村民一揆による助勢も受けるが奪還には至らなかった。(陰徳太平記)
伯耆志や伯耆民談記、陰徳太平記では不動ヶ嶽周辺での戦闘は記述に見えるが城砦の所在を特定する記述には乏しい。
不動ヶ嶽周辺は急峻な地形が多く天然の要害とする運用は想定できるが、城砦を構えての運用を考えるなら字「丸山」の不動ヶ嶽城が最も適当な場所と考えられる。
当古戦場、字「丸山」の不動ヶ嶽城、字「不動寺」の如来堂、字「土居ノ内」の中菅屋敷を併せた城域を「不動ヶ嶽城」と呼称したとも考えられる。
伯耆志 中菅村の条 城跡の項
不動ヶ嶽と呼ふ村の(缺字)に貝原と云ふ地あり。其の地より(缺字)に岩山あり。五丈許の瀧あり。響雷の如し。この(缺字)に一小祠あり。瀧山龍王権現と称す瀧より(缺字)に不動寺といふ地あり。陰徳太平記に如来堂と云へる是なり。寺の跡、今に存す。不動寺の地、辻堂あり。村より東二丁許。今畑となれり。この地十丁許上れば岩壁敷十丈の峰あり。これを不動ヶ岳といふ。この岳の頂に方五丈許の岩窟あり。其の中平にして莚五六枚許を敷くべし。其の所に不動明王の木像を安す。木像丈三尺許、此木像元不動寺にあり。
伯耆民談記
此処(如来堂)より十町程も行けば岩壁険峻なる数十丈もあるべき高々たる嶽あり。是を不動ヶ嶽と云ふ。古戦書に見える不動ヶ嶽も此地の事也。
伯耆民談記の記述は陰徳太平記からの転載としている。
大永の五月崩れでは他の伯耆国の主要な城砦と並び落城とすることから、城砦及び周辺地域の掌握は伯耆、日野、美作を繋ぐ街道の確保、たたら製鉄のための資源確保が主な目的と推測される。
尼子氏はたたら製鉄に関連する資材(砂鉄、材木、燃料)確保の一環として日野郡を特に重要視しており、一部の汗入郡や会見郡での待遇とは正反対に手厚い知行を行ったことが伺える。
陰徳太平記に見える永禄年間の戦では城砦を巡る戦闘ではなく、主に野戦とする記述が見える。
駐屯した毛利方の大将、三村家親は中菅屋敷、香川光景は如来堂に、尼子方の福山綱信や四郎太夫は麓の日野村に陣を敷いたとあり、城砦を巡る攻防戦ではなく不動ヶ嶽の山麓周辺で行われている。
尼子方が如来堂の香川光景を襲撃した後、続いて近辺或いは不動ヶ嶽城に駐屯したとするならば翌日の三村家親らの攻勢に「不動ヶ嶽を下って」と付記されていることから中菅屋敷以東、不動ヶ嶽の山麓や山中にも兵を置く施設があったことが推測される。 (陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事)
現在も山頂手前には不動明王を祀った祠があり、開基は不明だが平安時代から信仰の対象であったと伝わる。
写 真
2013年4月14日