よみがな
人物名
しろうたゆう / しろうだゆう
四郎太夫
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
名
不詳
通称
四郎太夫
諱
不詳
官途
不詳
所属
尼子
列 伝
日野周辺(日野の在所)に所在した村落の庄屋か同等程度の影響力を持った人物。
親尼子派で福山肥後守とは親しい間柄であったとする。
1564年(永禄7年)6月、福山肥後守による不動寺の如来堂への夜討に呼応し、尼子氏との旧好を持つ周辺の村民を煽動し一揆を熾している。
陰徳太平記などに見える記述の解釈によっては福山肥後守が主体となって立案したとするよりも福山肥後守の襲撃による混乱を利用した一揆が計画されていたとも読み取ることができるため、不動ヶ嶽の夜討の首謀者とも推測される。
福山肥後守への報告では毛利方の香川光景が在陣する不動寺の如来堂の防備は非常に薄く、内通者の多い今なら簡単に討ち取れると進言している。
この情報を得た福山肥後守は対毛利戦で喫緊の脅威となっていた三村家親、香川光景の両将を討ち取る絶好の好機と尼子義久へ襲撃を進言し、難敵の排除が叶うと気分を良くした尼子義久より500騎を与えられている。
出雲国月山富田城から福山肥後守が到着すると夜襲が仕掛けられる直前に一揆を熾しており、敵陣を混乱させることに成功している。
香川光景ら毛利方の将兵も一揆の兆候にすら直前まで気が付いていなかったことから入念な下準備が進められた上で決行されたことが伺える。
同年6月7日、一揆の直前、香川光景の妾であった日野の庄屋の娘の密告により福山肥後守の夜襲を知った香川光景は郎党の香川景勝、入江利勝らと最低限の戦準備を済ませると乱戦の末に窮地を脱し、三村家親の居館まで逃げ遂せている。
翌日の同年6月8日、毛利方の増援として境経俊が率いる350騎と合流した三村家親らの挟撃により福山肥後守配下の500騎余は潰走、2~300余名の一揆衆も霧散し一揆は鎮圧されている。(陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事、伯耆志 中菅村の条 城跡の項ほか)
鎮圧後の動向は不明。
一揆に参加した村民は逃げ隠れていた者も探し出され悉く首を刎ねられたとしており、一揆の中心人物であったこと、以降に記述が見えないことから処刑されたと推定される。
福山肥後守の夜襲を香川光景へ密告した日野の庄屋の娘は一揆に参加した父や兄弟の助命を嘆願していたが、庄屋の娘の嘆願も受け入れられたとする記述は見えず委細不詳。