所 属
尼子
よみがな
人物名
しろう たゆう
四郎太夫
陰徳太平記での表記
別 名
しろう たいふ
四郎大夫
伯耆志での表記
官 途
不詳
出身地
不詳(日野郡)
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
日野郡内(日野在所)の村落の庄屋か同等程度の影響力を持った人物。
親尼子派で福山肥後守とは親しい間柄とする。
陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ガ嵩夜討事
福山肥後守と云者、本は吉田筑後守が郎党也しが筑後守、播磨の刀田の太子堂合戦の時討れて後は晴久より所領を賜りて居けり。福山、義久へ訴えて曰く家親は吉田左京ノ亮を討ち候えば私の主の敵にて候。軍兵五百人被相副候えかし。日野へ立越、彼處に四郎太夫とて親しく申合しり者の候。間渠を以て一揆等を語らい集め、三村、香川が陣へ一夜討仕て討取申可候。義久是を聞給、尤神妙の志と大に感じて倉澤十郎兵衛、石邊四郎五郎、鷹巣三郎兵衛、山路太郎兵衛、遠石五八など云者を先として足軽五百人被附たり。福山急ぎ伯州日野の在處に打越、一揆原を語らい催しけるに、皆尼子旧好を思ければ一味同心して軍の評定などしけるに不動之嶽の麓なる如来堂に香川左衛門尉光景が陣を取て居候。彼所は構えも浅間にして勢も又寡候間、夜討かけんに立所に討取可と四郎太夫等申けるに由て福山此儀に同じ一揆原を先に立、夜討に馴たる兵五百餘騎を勝って今夜々討せんと更行空をぞ侍居たる。(略)
八日、三村家親いでさらば人に膽を潰させつる福山退治し并に一揆原薙捨んとて。一手は香川左衛門尉光景、入江與三兵衛利勝、元春より被差添たる境備後守経俊、已下三百五十騎。一手は家親一千餘騎。不動ガ嶽を下りて日野の在所へ左右より押寄んとす。福山肥後守手勢五百騎に一揆原相添て七八百許にて打出けるを見て家親鉄砲雨落と打懸ると斉しく関を作て切てかかる。是を見て香川、入江、境等横合に蒐らんと進ける間一揆原堪ず逃去ければ福山も力無引退て迫蒐四五十人打取けり。さて所々に隠し居たる一揆原共捜し出して悉く頭を刎ける間是従伯州の一揆等静まりにけり。其後家親は不動之嵩より同国法性寺の城へぞ移りける。
1564年7月15日(永禄7年6月7日)
福山綱信による不動寺(如来堂)への夜討に呼応し、尼子氏との旧好を持つ周辺の村民を煽動し一揆を熾す。
出雲国月山富田城から福山綱信の部隊が到着する前に一揆を熾し、毛利方の陣営は大混乱となった。
香川光景ら毛利方の将兵は一揆勃発まで兆候にすら気が付いていなかったことから入念な下準備が進められた上で一揆が決行されており、一揆衆から事前の情報漏洩もなく、多くの住民を扇動し動員していることから人望の厚い人物であったことが伺える。
同日夜、福山綱信が到着すると毛利方の香川光景が在陣する不動寺(如来堂)の防備は非常に薄く、内通者の多い今なら簡単に討てると進言している。
陰徳太平記では一揆の直前、香川光景の妾(日野の庄屋の娘)の密告により香川光景へ福山綱信の夜襲が知らされている。
香川光景は郎党の香川景勝、入江利勝らと最低限の戦準備を済ませると乱戦の末に窮地を脱し、三村家親の居館まで逃げ遂せている。
1564年7月16日(永禄7年6月8日)
毛利方の増援として境経俊率いる350騎と合流した三村家親らの逆襲を受け福山綱信配下の500騎余は潰走、2~300余名の一揆衆も霧散し一揆は鎮圧されている。(陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事、伯耆志 中菅村の条 城跡の項ほか)
一揆の鎮圧後は消息不明とするが、一揆に参加した村民は逃げ隠れていた者も探し出され悉く首を刎ねられており、福山綱信の夜襲を香川光景へ密告した庄屋の娘は一揆に参加した父や兄弟の助命を嘆願するも受け入れられたとする記述も見られない。
陰徳太平記では福山綱信が尼子義久に対して日野で一揆の手筈があることを申し添えた上で出陣を許可されていることから事前に福山綱信と示し合わせた一揆であったと考えられるが、一揆衆の行動からは福山綱信の到着を待たず蜂起を決行していることから香川光景に対する個人的な恨みがあったことも考えられる。