所 属
尼子
よみがな
人物名
よしだ さきょうのすけ
吉田左京亮
官 途
左京亮
出身地
不詳(出雲国飯石郡吉田村か)
生 年
不詳
没 年
1561年(永禄4年)
氏
源
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
出雲吉田家の一族。
大永の五月崩れ以降、尼子経久より伯耆国大江城(八橋城)の城主に任じられる。
伯耆民談記 巻之第十 河村郡古城之部 羽衣石城
此戦乱を五月崩れとて今に民間に伝う。かくて尼子経久は旬日の間に一国を平定し羽衣石の城には尼子紀伊守国久を移し、泊り河口の城には国久の次男式部太輔誠久を差置き東三郡を與て因幡表を押えさせ。尾高、八橋の両城には吉田筑後守、同左京亮兄弟を入れ置き西三郡の鎮撫たらしめたり。
伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 河口城
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事
菊里の郷八橋にあり。大江の城と号す。行松左衛門尉正盛入道累代の家城なり。然るに大永の崩れに尼子経久が為に滅亡し正盛は流浪の身と成れり。当城尼子領と成って吉田肥後守が舎弟吉田左京亮居住し西三郡を守護す。
1524年(大永4年)
尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)では行松氏の家城であった八橋城を攻略する。
伯耆国の掌握後、兄の吉田光倫が伯耆国尾高城の城主に、自身は大江城(八橋城)の城主に任じられている。
尾高城と大江城(八橋城)の両城を以て西伯耆三郡(会見郡、汗入郡、日野郡)の軍政を担ったとある。(伯耆民談記)
陰徳太平記 巻第十 武田信実尼子を頼事
吉田筑後守、同舎弟左京亮に二千餘を附けて伯州に残し置き(略)
伯耆民談記 河村郡古城之部 羽衣石城
1540年(天文9年9月)
毛利元就討伐の為、尼子晴久は芸州へ向けて出陣する。
芸州への遠征には参加せず、吉田光倫と共に伯耆国の留守役を担った。
陰徳太平記 巻第十一 尼子国久伯州発向之頼事
伯耆の国の守護吉田筑後守、舎弟左京亮が許より尼子晴久吉田の陣へ注進しけるは其地御発向の隙を窺い山名祐豊より因幡の守護武田山城守に伯州の牢人南條豊後守、山田出雲守、小森木工允已下都合六千餘騎を先陣として伯州へ指し越し。(略)吉田兄弟は橋津の渡口を押えんと八橋の城にぞ入りける。
陰徳太平記 巻第十一 橋津川合戦付尼子兵部の太輔戦死並武田山城守最後之事
武田山城守は(略)伯州の在々に南條、行松等が家人共の残り留まりける者共を語らい多数を以て発向せんと羽檄を所々にぞ飛しける。(略)同十月九日、其勢七千餘騎。伯州馬野山邊へ出張し爰にて軍勢を二隊に分け、先ず橋津口へは南條豊後守宗勝、小森木工允、餅之瀬已下二千餘騎也。(略)尼子紀伊守も吉田兄弟を近付け御邊達は豫じめ約する如く南條らと一戦せられ候え。(略)吉田兄弟は二千餘騎にて南條と勇気を較ぶべしとて橋津の橋の此方に備えたり。
陰徳太平記 巻第十一 南條吉田合戦之事
南條豊後守宗勝は(略)橋津の橋の邊へ打ち出てけり。吉田兄弟も同じく橋の此方に備え敵陣を見渡してありけるが(略)吉田兄弟、此(福山肥後守の)儀に同し駒をはやめて打ち向う所に南條も橋を渡さんと思い旗の手を進め掛かりける間、両陣橋の上にて行き合いたり。矢軍するももどかしく互いに槍、長刀の切っ先きを汰え火華を散して攻め戦う。南條豊後守は左の手の無りければ二の腕に三間柄の槍を縄にて結い付け右の手にて石衝を執って衝きける。元来聞ゆる大力なれば両手にて突よりも猶を軽げ也。吉田左京亮、真先に進んで南條と渡し合う。橋をせり越し、せり越され、三度ヶ迄戦いける。第三ヶ度の迫り合いに宗勝、左京が冑を二度迄衝き仰のけける程に、吉田已に引色に成りければ南條大きに勇み、爰を揉めや者共とて頼りに進みける間、後陣の大勢一度に咄っと橋の上へ上りければ橋桁堪えず真中より折れて南條を始め三百餘人一度に川へぞ落ち入りける。尼子勢にはあれを見よ。敵の運の尽きたる有様こそ不便なれとて箙を敲き一度に咄っと時を掲げてぞ勇みける。或は水中に溺死し、又は適々浮き上がりたるも皆な突き殺されて三百餘人は一人も残らず討れけり。南條豊後守は無双の水練古冶子にも勝りたれば下流へ向いて泳ぎける。
伯耆民談記 河村郡古城之部 羽衣石城
武田山城守を大将として(略)伯州の浪人衆都合六千余人を集めて仝十月八日、伯州へ押入(略)尾高、八橋の吉田兄弟此事を聞くや否、芸州へ注進したる(略)(尼子紀伊守国久父子)吉田兄弟と一手になって橋津川を隔て尼子は武田と攻戦い、吉田は南條以下の浪人勢と取結びける。(略)南條豊後守等は橋津川を隔てて吉田兄弟とたたかいしが味方敗北し剰へ橋桁折れて南條始め数百人水の底に落入兵士多く溺死しけり。
1546年11月1日(天文15年10月8日)
武田国信と南条宗勝ら因伯連合軍約6,000騎(後に7,000騎)が伯耆国へ進軍中との報せを受け、尼子晴久に対して早急の援軍を要請している。
1546年11月2日(天文15年10月9日)
橋津川の戦いでは吉田光倫と2,000騎を率いて南条宗勝、小森久綱の率いる2,000騎と橋津川を挟んで対陣する。
橋上で南条宗勝との一騎打ちとなり、一進一退の攻防を繰り広げるが三度目の戦いで押され始め、堪えきれずに後退している。
南条宗勝に続けと敵方の兵が手柄を求めて橋上に殺到したため、橋は重量に耐えられず倒壊している。
橋の倒壊に巻き込まれたのは南条方の300餘騎とし、浮き上がる者は突き殺され、溺死する者と合わせて一人残らず討ち取ったとするが、南条宗勝は無双の水練であったため、沖まで泳ぎ難を逃れたとある。(陰徳太平記)
出雲私史では南条宗勝の部隊と合戦になるが、自軍の兵を後退させ橋上に誘い出し、敵方が橋の中程に進んだ所で橋桁を落として南条宗勝を含む南條勢300騎余りを水没させている。(出雲私史)
陰徳太平記 巻第二十二 尼子晴久作州働付高田合戦並真木大蛇射事
尼子修理太夫晴久、自大将として出雲、伯耆、隠岐、石見、備後、備中の軍士を催し二萬八千餘騎、天文二十二年三月中旬作州へ発向せらる。(略)
同(五月)二十二日、(略)牛尾、川副一千餘騎にて懸るを見て吉田筑後守、同左京ノ亮五百餘騎にて横槍を入て戦たり。
1553年(天文22年3月中旬)
尼子晴久が作州へ侵攻を始め、浦上宗景と合力する国衆との戦となる。(高田表合戦)
1553年7月2日(天文22年5月22日)
播磨勢を率いる小寺美濃守、黒田某、真壁某の3,000騎に対し、尼子方は真木隠岐守、真木上野介、真木宗右衛門、その他一族の8名が500騎を率い討死覚悟で切り込む所、尼子方の馬田某、浅山某、桜井某、牛尾某らが1,000餘騎で加勢している。
牛尾遠江守、牛尾三河守、川副美作守らが攻めかかると、吉田光倫と別動隊の500騎餘を率いて敵軍側面を攻撃している。
陰徳太平記 巻第二十二 浦上敗軍並播州刀田太子堂合戦之事
浦上帯刀左衛門宗景は今日(天文二十二年五月二十二日)の合戦に打負、味方七百騎討れ手負は数知れずければ機後れ力落して居たりける。其夜忍て高田表を引払い備前国天神山へぞ帰りける。尼子勢いは爾勇み誇て直に播州へ押入けるに敢て遮る者なければ為彼所へ押寄押寄攻ける程に十七箇所の城郭を攻落し、近日置塩の城を取巻。赤松刑部少輔則房を攻べしと擬しける所に刀田の太子堂に衆徒等楯籠る由を聞て先彼所を蹴破なば志。(略)卯の上刻に吉田筑後守、牛尾遠江守、川副美作守、二千餘騎鹿子川を渡して大手へ向かえば其外五千三千引分引分太子堂の前後左右幾重共なく取囲う。(略)大手に向たる吉田、牛尾、川副等意ず引たりけり。衆徒等是を見て得たり賢しと霧隠より時を作り打出打出追掛たれば寄手案内は知れず深田に馬を馳入て空く討たれる者もあり。河水や溝に陥て押えて頸を掻るもあり。霧に咽びて敵味方を見分けず共に打合て死する者幾と云数を知れず前代未聞の有様。(略)吉田筑後守は味方剰に云甲斐無し打負。其上同士軍して益無打れたるを見て小高き所に打上り。吉田筑後守此に在。味方の兵共後安く退候へと呼ばり。散残りたる手勢五十餘人を前後に立て扣たり。大衆是を聞てあれこそ聞ゆる勇士吉田なれ。それ討取れや者共とて、霧の隙より間近く寄て散々に射たりける程に吉田が勢も過半打れ今は二十餘人ぞ残りける。是者共を左右に立て筑後守と名乗て大勢の中へ切て入れば衆徒等敵を射るとて備取次に成たりける故、一所に打寄る事を得ず。散々に打破られ簇々ばっと引たりける。筑後守此時引は引べしを天運にや放されけん。又、僅の衆徒の長袖共に大軍益無打負し事、吾身一人の不覚也とや思けん。少も引かず向敵に打て懸り打て懸り敵多討取たりけるか。第四箇度の合戦に重手負たりければ腹摘破て失にけり。かくて尼子勢太子堂の合戦に打負ぬと聞こえし(略)
陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ガ嵩夜討事
福山肥後守と云者、本は吉田筑後守が郎党也しが筑後守、播磨の刀田の太子堂合戦の時討れて後は晴久より所領を賜りて居けり。福山、義久へ訴えて曰く家親は吉田左京ノ亮を討ち候えば私の主の敵にて候。(略)富田より福山肥後守馳向たり。香川、三村に力を合せ松山に於て吉田左京ノ亮を討たりし其寃を報べし也。
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事
左京亮、播州太子堂に於て備中国成和の城主三村修理亮家親と合戦して討死せり。
1553年~1554年(天文22年~天文23年)
太子堂合戦では濃霧による視界不良のため誤って沼地へと侵入した所に敵襲を受けている。
濃霧の中での襲撃を発端に同士討ちも始まり、2,000餘騎あった部隊も吉田光倫の周りに手勢50餘騎を残すだけとなった。
吉田光倫は小高い丘へと上がり部隊を立て直そうと号令するが、大声は敵勢の一斉射撃を受ける事態となり更に手勢の半数が討ち取られている。
大将首を狙う敵兵に対し皆が大将(筑後守)を名乗ることで的を絞らせず、その隙を突いて戦場からの離脱を試みた吉田光倫であったが深手を負い戦場にて討死とされる。
陰徳太平記では吉田光倫の記述のみで自身の戦への参加及び生死は不明だが、後に福山綱信から松山で討たれたことが語られているため、太子堂合戦への参戦があっても落延びた可能性が考えられる。
伯耆民談記では太子堂合戦で討死とし、家督は嫡男の吉田源四郎(吉田元重)へと引き継がれている。
1561年(永禄4年)
尼子方の立て籠もる備中国松山城へ在番していたが、毛利方に与した三村家親によって討ち取られ、備中松山城も陥落する。
陰徳太平記では香川光景、三村家親に攻められ松山で討たれたとしている。