武将列伝帖

やまだ いずものかみ しげなお

山田出雲守重直

【氏】【姓】朝臣【名】山田【通称】出雲守【諱】重直

別 名

長田又五郎(ながた またごろう)…大永の五月崩れによって伯耆国を追われ、但馬国を頼った頃に名乗っている。

平三左衛門尉(たいらのみざえもんのじょう)…天文年間の書状に見える。永禄年間の書状では山田の名が付け加えられている。

山田平三左衛門尉(やまだ へいざえもんのじょう)…永禄7年に因幡国鹿野城主とする。

出 身

不明(伯耆国や但馬国とする諸説あり)

官 途

出雲守、左衛門尉

所 属

但馬山名氏⇒毛利氏(南条氏)

生 年

1525年(大永5年)

没 年

1592年4月15日(天正20年3月14日)

 

- 列 伝 -

伯耆国堤城を本拠地とした伯耆山田氏の一族。一説には紀氏の末裔とされる。

堤城、伯耆国小鷹城、因幡国鹿野城、長門国且山城など数多くの城主を歴任する。子に山田信直山田盛直

 

1524年(大永4年)、尼子経久の伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け、本拠地であった堤城を放棄し但馬国へと逃亡している。

逃亡先の但馬国では但馬山名氏を頼っており、この頃から長田姓へと改姓し、1544年(天文13年)頃まで長田姓を名乗っている。

1546年(天文15年)頃には平姓へと改姓し、「平三左衛門尉」を名乗ったことが書状に見える。

 

1560年(永禄3年)2月、但馬山名氏毛利氏による私部表合戦で戦功を挙げている。

 

1561年(永禄4年)、若桜表合戦で戦功を挙げたことから因幡国気多郡などに所領を与えられている。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受け一族の本拠であった堤城を奪還し、翌年(或いは永禄年間中頃)には但馬山名氏から毛利氏の傘下へと移っている。

旧領への復帰後は毛利氏の思惑もあり、南条家の家臣とされている。

表向きは南条家の家臣とされるが実際は毛利氏南条氏の渉外であり、常々不穏な動きを見せる南条氏の監視のためであったとしている。

本人も一貫して毛利家の家臣であると考え、例え名目上であっても南条氏の臣下となることについて小森久綱と共に渋っていた経緯が伺える。

そのような経緯もあり奉行衆を束ねる重臣の待遇としながらも南条家の家中に於いて扱いは微妙であった。

 

吉川家臣覚書(抄) 東郷町誌 資料編収録(吉川家臣覚書一 覚書 山田右門差出)

(前略)永禄七年七月、尼子勢因州伯州口へ乱入に付て毛利家より被仰付。南条始め小森其外出雲守重直事も被差向、度々合戦有之。因州鹿野麓に於いて大合戦有之。雲州勢手強く責掛り味方引色見へ候。付て出雲守重直同蔵人佐信直二手に分れ小森勢其外少々相加り尼子後へ備り廻し両口より切かかり申候に付。尼子勢前後ノ敵大勢と見、責掛り候付弥引色に有之間、前後左右より入乱稠くせり立。尼子勢数多諸手へ討取申候付弥不叶打入富田へ引取申候。此時諸手へ討取首百余。出雲守父子手へも三十余打取り申候。家来数人手をくだき高名仕能働候ものも末々迄も有之候。味方にも惣勢之中、浅手の者は数多有之候事。但、時々毛利吉川家より御書有之候事。

 

1564年(永禄7年)、鹿野城に嫡男の山田信直と在番している。

尼子氏毛利氏による鹿野合戦では毛利方の要請を受けた南条宗勝に従い、小森久綱と共に大将のひとりとして参戦している。

嫡男の山田信直と共に奮戦し、尼子方の首級を30余り挙げたとしている。(吉川家臣覚書)

 

毛利元就 受領書出写(藩中諸家古文書纂 十 山田平次右衛門)

受領 出雲守 毛利元就

永禄九年正月二十五日 山田(平三左衛門尉)殿

 

1566年(永禄9年)1月、毛利元就より出雲守の官途を受領している。

この書状から他に「出雲守」を自称していた別の「山田出雲守」の存在が推測される。

 

1575年(天正3年)、南条宗勝が死去。家督が南条元続へと引き継がれるが待遇は変わらなかったようである。

同年10月14日付で南条元続に対して署名、血判を押印している。(南条信正外十四名連署起請文、東郷町誌 資料編)

 

1576年(天正4年)、尼子家の遺臣、福山茲正の仲介により南条元続織田氏との内通を企てたと嫌疑がかけられると吉川元春の命を受け福山茲正の一族を羽衣石城下の山田館に誘い込み殺害している。(吉川元春起請文および山田家文書)

※陰徳太平記では1579年(天正7年)4月の出来事としている。

南条氏を毛利方に引き留めるため奔走するが、南条元続とは日頃から対立もあり良好な関係を維持していたとは考えにくく、互いに不信感と猜疑心が強まっていたところに先般の福山一族殺害事件などの要因が重なり、1579年(天正7年)9月に南条元続によって堤城を攻撃されている。

南条元続の襲撃により家城を失うが、間一髪のところで嫡男の山田信直と共に因幡国鹿野城へと逃れている。

 

1580年(天正8年)8月13日、長和田合戦では伯耆国高野宮城へと入城している。(山田覚書)

1582年(天正10年)9月23日まで高野宮城へと在城とする。

 

1582年(天正10年)9月、吉川元春の下で山田信直と共に南条元続の籠もる羽衣石城の攻略へ加わっている。

戦の最中に山田信直が急死するが動揺を見せることなく数多くの軍功を挙げ、自ら羽衣石城を落城させている。

この戦では恩賞の先行給付を濫発していたため戦後に手にした領地は実質、久米郡内の28石のみであった。

 

1584年(天正12年)、京芸和睦が成立すると久米郡は南条氏の領有となったため、再び堤城を追われ会見郡の小鷹城へ移ることを余儀なくされている。

小鷹城の城主に任じられた頃は齢50代後半~60代と高齢であり、家督を次男の山田盛直に譲り隠居したと云われる。

(堤城主として山田盛直の名があることから京芸和睦以前に家督を譲っていたとも考えられる)

 

1592年(天正20年)3月14日、小鷹城にて没する。(伯耆民談記)

伯耆志では天正20年ではなく文禄元年としている。

小鷹城の所在した南部町福成(柏尾地区)に伝わる話では、城主親子は2代に渡ってこの地に善政を敷いた名君と称される。

小鷹神社には長男の山田信直と共に祀られ、現在も若宮さんとして慕われている。(長男の山田信直は今宮さんと呼ばれる)

若宮さんは五穀豊穣の神に比して稲荷宇気持神(いなりうきもちのかみ)、今宮さんは武勇に比して素益鳴尊(すさのうのみこと)とし、柏尾の守り神として崇められている。

 

雲陽軍実記では「山田出羽守重直」と記述されている。(木下藤吉郎秀吉播州上月城加勢 并 勝久氏久生害事)

萩藩山田家に伝わる元亀2年の書状が雲陽軍実記の成立以降でこの記述を参考に記されている場合、書状の宛先にある山田出雲守は山田満重が推定される他、後世に何らかの理由で作成された書状である可能性も考えられる。

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