所 属

尼子

よみがな

人物名

ふくやま ひごのかみ つなのぶ

福山肥後守綱信

官 途

肥後守(陰徳太平記、伯耆志など)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1565年11月2日(永禄8年10月10日)

不詳

不詳

綱信

列 伝

尼子家の家臣。尼子晴久尼子義久に仕える。

尼子十砦のひとつ、伯耆国新山城に子の福山源五郎と共に在番し、同じく尼子十砦のひとつ、出雲国蓮華峯寺山城の城主としても名が見える。

 

天文年間

尼子十砦の蓮華峯寺山城、伯耆国新山城の城番を務め、対毛利戦では最前線で相対する。

 

陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ガ嵩夜討事

福山肥後守と云者、本は吉田筑後守が郎党也しが筑後守、播磨の刀田の太子堂合戦の時討れて後は晴久より所領を賜りて居けり。福山、義久へ訴えて曰く家親は吉田左京ノ亮を討ち候えば私の主の敵にて候。軍兵五百人被相副候えかし。日野へ立越、彼處に四郎太夫とて親しく申合しり者の候。間渠を以て一揆等を語らい集め、三村、香川が陣へ一夜討仕て討取申可候。義久是を聞給、尤神妙の志と大に感じて倉澤十郎兵衛、石邊四郎五郎、鷹巣三郎兵衛、山路太郎兵衛、遠石五八など云者を先として足軽五百人被附たり。福山急ぎ伯州日野の在處に打越、一揆原を語らい催しけるに、皆尼子旧好を思ければ一味同心して軍の評定などしけるに不動之嶽の麓なる如来堂に香川左衛門尉光景が陣を取て居候。彼所は構えも浅間にして勢も又寡候間、夜討かけんに立所に討取可と四郎太夫等申けるに由て福山此儀に同じ一揆原を先に立、夜討に馴たる兵五百餘騎を勝って今夜々討せんと更行空をぞ侍居たる。香川光景是とは知らず。此は水無月七日の事なれば(略)富田より福山肥後守馳向たり。香川、三村に力を合せ松山に於て吉田左京ノ亮を討たりし其寃を報べし也迚も遁すまじきに。(略)香川も入江も引敵と一つに成て打紛れ押合刎合大門の外へ遁し出けるを敵は少も知ずけり。福山是を見てこれは口惜次第哉。堂中に敵多く共二十、三十にはよも過し。惜使樊噲が勇をなすとても是程の小勢に被突立事やある。押返し攻入りやろ下知して己れ真先に進ける間又取返し切入りけれ共防ぐ敵一人も無りけり。(略)福山攻入りて捜せと云ける間乱入を見けるに内には敵は一人も無りけり。福山如何に敵はと問えば内より日野の一揆の中に相見賢徳と云者カラカラと笑いて「香川は隠形の法を得たるにや。何処に在共見え候わず。唯本尊の不動明王利剣を提て御座す。是こそ能敵にて候え。御首捨はりてんやと云を嗟と笑いたりければ福山大に腹を立て。(略)

八日、三村家親いでさらば人に膽を潰させつる福山退治し并に一揆原薙捨んとて。一手は香川左衛門尉光景、入江與三兵衛利勝、元春より被差添たる境備後守経俊、已下三百五十騎。一手は家親一千餘騎。不動ガ嶽を下りて日野の在所へ左右より押寄んとす。福山肥後守手勢五百騎に一揆原相添て七八百許にて打出けるを見て家親鉄砲雨落と打懸ると斉しく関を作て切てかかる。是を見て香川、入江、等横合に蒐らんと進ける間一揆原堪ず逃去ければ福山も力無引退て迫蒐四五十人打取けり。さて所々に隠し居たる一揆原共捜し出して悉く頭を刎ける間是従伯州の一揆等静まりにけり。其後家親は不動之嵩より同国法性寺の城へぞ移りける。

 

伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事

左京亮、播州太子堂に於て備中国成和の城主三村修理亮家親と合戦して討死せり。

 

1553年~1554年(天文22年~天文23年)

吉田筑後守の部将であったが、吉田筑後守が播磨国刀田の太子堂の戦で討死した後、尼子晴久より所領を与えられている。(伯耆志)

吉田筑後守の討死後は吉田左京亮の部将となる。

 

1561年(永禄4年)

伯耆民談記では吉田左京亮を太子堂の戦で討死としているが、陰徳太平記では備中国松山城三村家親と戦い吉田左京亮が討死としており、三村家親は故主の仇敵としている。

 

1564年(永禄7年3月)

毛利方が出雲国月山富田城の攻略準備のため、尼子方の主要な城砦の攻略を開始し糧道を切断している。

この頃、雲伯国境付近で健在な尼子方の城砦は5~6ヶ所とされる。(伯耆志)

 

1564年7月15日(永禄7年6月7日)

毛利方の三村家親香川光景が伯耆国日野郡(不動ヶ嶽村或いは中菅村周辺)に出張とあり、仇敵である三村家親を討つ千載一遇の機会として尼子義久へ出陣の許可を求めている。

この頃の尼子方の劣勢は顕著であり安易に戦力を割く余裕のない状況であったが、不動ヶ嶽周辺の村には四郎太夫という懇意の人物がおり、親尼子派の住民を扇動させ一揆に乗じて三村家親香川光景を討ち取るとした具体策を具申することで尼子義久は納得し、倉澤十郎兵衛ら勇将と足軽500騎を預かり日野郡へと向かっている。

同日夜半、四郎太夫ら一揆衆が蜂起し毛利方の混乱に成功するが香川光景入江利勝らを討ち取ることは適わず逃走を許している。

香川光景らを如来堂へ追い詰めたと誤認し攻撃を仕掛けるが香川光景を見つけられず、相見賢徳の言動に腹を立て殺害しようとする。

相見賢徳との問答は襲撃から逃れ御堂の天井へ隠れていた香川光景の力者三名(不動寺の僧)が事の顛末を見届け後世まで語り継いだとある。

戦場から逃れた香川光景三村家親の屋敷へと辿り着き、香川光景の無事を知った三村家親は友の生還を喜んでいる。

この時、伯耆国不動ヶ嶽城を占有し一時在番している。(陰徳太平記(巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事))

 

陰徳太平記及び伯耆志では一揆の詳細が描かれており、一揆に乗じて香川光景の逗留する不動寺の如来堂へ夜襲を仕掛けたが、庄屋の娘の密告により一揆の情報が直前で漏れていたこともあり香川光景を討ち取ることはできなかったとしている。(伯耆志 中菅村の条)

 

1564年7月16日(永禄7年6月8日)

逆襲に転じた三村家親の本隊1,000騎、境経俊らが率いる増援350騎の挟撃を受け、手勢の500余騎は潰走、2~300余名の一揆衆も霧散し一揆は鎮圧されている。(陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嶽夜討事)

一説に、日野郡での敗戦後は八橋郡へと落ち延び吉田源四郎に仕えたとする。

 

陰徳太平記 巻第三十七 杦ノ原盛重伯州泉山城入 付 弓浜合戦之事

(略)去程に盛重敵、三保関より打出、度々泉山へ働きける(略)山中、森脇等既に旌旗を進めんとする所に吉田八郎左衛門、福山肥後守二人、三保関勢泉山へ働なば一定大合戦有可。杦原が軍立聞しに劣ずか。名を聞んより面見如ずと云い、いざ行て見可とて三百許にて馳来りけるが早三保関んい合戦有と覚えて。

 

1564年(永禄7年)

尼子方は毛利方の杉原盛重が守る伯耆国尾高城に度々攻撃を仕掛けたとある。

弓ヶ浜での合戦では尼子方の増援として吉田八郎左衛門と300騎を率いて参戦している。

戦場には遅れて到着するが結果として奇襲の形となり、敵本隊まで迫るが大将の杉原盛重を討ち取ることは適わなかった。

毛利方の本陣が攪乱された隙に劣勢であった尼子方の本隊も態勢を立て直している。(陰徳太平記 巻第三十七 杉ノ原盛重伯州泉山城入付弓濱合戦之事)

 

陰徳太平記 巻第三十八 冨田城下三箇所合戦之事

(略)元就さらば今一度冨田城下麥薙の働有可と諸侍に觸伝え給。日限は同四月十七日と定めらる。

(略)尼子義久四千許にて打出(略)尾小森の谷より出し(略)吉田八郎左衛門尉、福山肥後守等先に進て手に々々敵を打取。

 

1565年5月16日(永禄8年4月17日)

出雲国月山富田城への毛利方による総攻撃が開始される。

尼子義久の指揮する本隊に編成され、吉田八郎左衛門尉と共に尾小森口周辺で戦果を挙げる。

 

陰徳太平記 巻第三十九 大江ノ城没落並富田勢夜討之事

(略)光景は左の肩、したたかに射れながら物ともせず、諸士を下知して切て入りければ城の兵、谷上孫兵衛、福山肥後守、熊谷又兵衛、熊谷小平太、平松大八等を先として屈竟の兵六十餘人、源四郎を真中に取り込め大手へ一文字に切て出てける間さしもの家親が軍兵共、中を開きて通しければ思うままに切り抜けたり。

 

1565年9月26日(永禄8年9月3日)

月山富田城を包囲する毛利方の別動隊として三村家親香川光景が伯耆国八橋城を襲撃する。

吉田源四郎の救出に際しては谷上孫兵衛熊谷又兵衛熊谷小平太平松大八などと共に屈強な兵60名余りで吉田源四郎を囲み、大手へ向かい一直線に突破するとそのまま脱出に成功している。

脱出時、200騎のうち130名が毛利方に討ち取られたとある。(陰徳太平記 巻第三十九 大江城没落並富田勢夜討之事)

在城の経緯は複数あり、元より八橋城に在番していた伝と糧道確保のため救援に向かった伝が見える。

 

陰徳太平記 巻第三十九 福山肥後守討死之事

(略)福山肥後守は去年、故主吉田左京が敵、三村家親が伯州不動之岳に居けるを打損じ残念とも口惜共云限なく如何もして彼を討て故主の恩をも報じ弔いともなさばやと十二時中心頭を労しけるが此比は家親伯耆の法性寺に居ければ平野又右衛門と合伴い陣を二隊に分て法性寺へこそ押寄せけれ。比は神無月十日餘りの事なれば民屋に刈納めたる稲など乱妨して取運び在家放火して一日馳廻りけれ共家親は敵を深入させて引包て討可事を思ける故、態と勢をも出ず知ぬ顔して居たりけり。平野は早く敵の気を察して「三村程の者の目前に在家を焼せながら遠見して居べきに非ず。いか様一行(てだて)有べき成。長居は恐有」とて軽々と引退けり。福山は其用心もなく深入りして已に夜に入しかば手毎に松明燃し連て帰りける所に家親兼て用意したりければ一揆原四五百人所の案内として先に立、其後に究竟の侍三百餘人勝を相添え歩行立にて混々と後を付たり。福山是を見て一揆原何程の事の有可ぞとて引返して追払懸破る。され共物馴たる三村勢なれば所々の田の畔畠の壠を走り渉り前後左右より散々に射ける間暗さは暗し、敵の関の聲は行先に充満たり。進退惟に谷(きわまり)て、ただ漠然として立たりけり。福山はいざ蒐入切死せんと云けれ共、道分明ならずして敵又何處に在とも知ずけるに敵は闇紛れより松明の光を便りに狙寄、散々に射る。福山が勢は手元のみ明らかにして敵の方は暗ければ弓、鉄砲も其役をなさず。唯徒に的に立ていらしけり。福山は空しく矢に当て死なんより、一人成共敵を打てこそ死なんとて、関の聲を案内に走り蒐り走り蒐り戦けるが十方より射る矢に喉を射られて伏ければ猶子の福山藤三郎、敵に首を掻れじと走り懸て首押切、深き泥中に押入、吾身は敵の中へ走り入数人切伏、其身も痛手数ヶ所負ければ一揆の手に掛らじと自害して、とある田の畔に伏居たり。其外郎等三人所々にて討れにけり。一揆等福山が頸を尋ねけれ共深く隠したりければ終に見つからず間、空しく躯の田の畔に有けるを見出し福山を討ちたるしるしにとて腕を切てぞ出しける。三村此腕と郎等共の頸を洗合の陣へ遣りけり。此福山は洗合へ味方に参可と数通の誓紙を書ながら竟に降人に出不ける其天罰にや。今止々と討るるのみならず、血をあやしたる小指の疵、至今平癒せずして有けるが其指の疵を諸人に見せしめん為にや今腕を切られけるこそ不思議なれど、諸人舌を巻き心を寒して恐怖せり。

 

伯耆志 鴨部村の条 城跡の項

村の北上る事一丁余りの山なり。北方に空堀の形あり。頂の平地方二十三間、稍下て西方に方十五間許の地あり。昔の法勝寺城是なり。永禄七年毛利氏の草創にて同年其将、三村修理亮家親(備中成羽之人)日野郡不動岳より 移して当城に入る。九月、家親尼子方吉田源四郎其部下谷上孫兵衛、福山肥後守等が籠れる八橋城を攻破る。吉田以下走て富田城に入る。同八年十月、福山肥後守、平野又右衛門来て当城下に火を放つ。家親出て戦わず平野は其術を察して引退きしに福山血気に任せて相動き日暮に至りて(原本此所に城跡の図あり。之を略す)引返す所を家親大勢を卒して之を追う。福山返えし合せて戦えば三村方闇夜に乗じて案内後に拠りて前後左右より散々に撃て掛る福山進退を失いて唯敵兵の聲を便りに走り寄て戦いけるが遂に討死したりけり。猶子の福山藤三郎首を切て泥中に埋めて其身も自害せり。旦日首を索むれとも見えず其腕を切て他の首と共に吉川氏の出雲洗合の陣に送りけり(陰徳太平記の趣を取る)。

 

1565年11月2日(永禄8年10月10日)

平野又右衛門、養子の福山藤三郎らと三村家親の居城であった伯耆国法勝寺城を襲撃する。

城下では倉庫に貯蔵されていた稲や米を奪い去り、家屋に火を放つなど1日中挑発を続けたが三村家親は全く応戦する素振りを見せなかった。

平野又右衛門三村家親の思惑を悟り、誘い込まれているのは自軍の方だと忠告し早々に撤退するが聞き入れることなく城下を荒らし挑発を続けている。

挑発は暗くなるまで行われたため松明を灯して帰陣する。

行軍は一揆衆4~500名を先行させ、後方に300余名の屈強な侍達を続かせるが、不審な人影が後方集団に紛れ込み始めたことを警戒し引き返すと不審な人影は三村家親の手勢であったことが判り追い払っている。

三村家親の手勢は夜間の行動に長けた者が多く、闇夜の中でも田圃の畔道を巧みに移動し、松明の光を目印に暗闇の前後左右から弓矢を射かけている。

最期は敵を一人でも道連れにと駆け出したが喉元に矢を受け討死とある。

 

首級は養子の福山藤三郎が刎ね、地中深くに埋めたため見つからなかったとされる。

合戦後、田の畔で三体の遺体が見つかり、この遺体の首と本人の腕とする御印が洗合の本陣(出雲国洗合城へと送られている。(陰徳太平記 巻第三十九 福山肥後守討死之事)

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