よみがな
人物名
ふくやま ひごのかみ つなのぶ
福山肥後守綱信
出身
不詳
生年
不詳
没年
1565年(永禄8年)10月10日
氏
不詳
姓
不詳
名
福山
通称
肥後守
諱
綱信
官途
肥後守
所属
尼子
列 伝
尼子家の家臣。尼子晴久、尼子義久に仕えた人物。
子の福山源五郎と共に尼子十砦のひとつ、伯耆国新山城に在番し、同じく十砦のひとつ、出雲国蓮華峯寺山城の城主としても名が見える。
1564年(永禄7年)、伯耆国不動ヶ嶽城を一時占有し在番している。(陰徳太平記(巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事))
吉田筑後守の部将であったが、吉田筑後守が播磨国刀田の太子堂の戦で討死した後、尼子晴久より所領を与えられている。(伯耆志)
吉田筑後守の討死後は吉田左京亮の部将となるが、天文年間(1532年~1555年)に吉田左京亮は播磨国で三村家親と戦い戦死している。
天文年間頃は尼子十砦の蓮華峯寺山城、伯耆国新山城の城番を務め、対毛利戦の最前線を担っている。
1564年(永禄7年)3月、毛利方は出雲国月山富田城の攻略準備のため、尼子方の主要な城砦の攻略を開始すると糧道を切断している。
この頃、出雲国の国境付近で健在な尼子方の城砦は5~6ヶ所とされる。(伯耆志)
同年6月7日、毛利方の三村家親、香川光景が伯耆国日野郡の日野村周辺に在陣とある。
三村家親は吉田左京亮を討った仇敵であったことから仇討の千載一遇の機会とし尼子義久へ出陣の許可を上申している。
尼子方の劣勢は顕著であり、安易に戦力を割く余裕もない状況であったが、日野の四郎太夫と一揆の約束を取り付けていること、毛利方との戦で特に障害となっていた三村家親、香川光景の両将を排除できると聞いた尼子義久は喜び500騎を与え出陣を許可しており、同日には出立し日野郡へと向かっている。
同日の夜半、日野郡へ到着すると先行して四郎太夫ら一揆衆が蜂起。
一揆の混乱に乗じて香川光景の在陣する不動寺の如来堂へ夜襲を仕掛けるが、庄屋の娘の密告により一揆の情報が直前で漏れていたこともあり香川光景を討ち取ることはできなかった。
同年6月8日、三村家親の本隊1,000騎と増援の境経俊らが率いる350騎の挟撃を受け部隊が壊滅したため潰走している。(陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ヶ嶽夜討事)
一説に、日野郡での敗戦後は八橋郡へと落ち延び、吉田源四郎に仕えたとする伝承も見える。
同年の弓浜合戦では吉田八郎左衛門と300騎を率いて参戦。
陰徳太平記では伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事の次章となるため、夜討後の同年6月上旬~7月頃の出来事と推定される。
戦場には遅れて到着することとなったが、結果として奇襲の形となり本隊まで迫るが大将の杉原盛重を討ち取ることは適わなかった。
毛利方の本陣が攪乱された隙に劣勢であった尼子方の本隊も態勢を立て直している。(陰徳太平記 巻第三十七 杉ノ原盛重伯州泉山城入付弓濱合戦之事)
1565年(永禄8年)9月3日、毛利方の三村家親、香川光景らの攻撃を受ける伯耆国八橋城へ救援に向かっている。
吉田源四郎の救出では自身と谷上孫兵衛、熊谷又兵衛、熊谷小平太、平松大八などを先頭に屈強な兵60名余りで吉田源四郎を囲み、大手へ向かい一直線に突破するとそのまま脱出に成功している。
脱出時、残存兵200騎のうち130名が毛利方に討ち取られたとある。(陰徳太平記 巻第三十九 大江城没落並富田勢夜討之事)
同年10月10日、平野又右衛門、養子の福山藤三郎らと三村家親の居城であった伯耆国法勝寺城を襲撃。
城下では倉庫に貯蔵されていた稲や米を乱暴に奪い去り、家屋に火を放つなど1日中挑発を続けたが三村家親は全く応戦する素振りを見せなかった。
平野又右衛門は三村家親の思惑を悟り、誘い込まれているのは自軍の方だと忠告し早々に撤退するが聞き入れることなく城下を荒らし挑発を続けている。
挑発は暗くなるまで続いたため松明を灯して帰陣する最中、道案内として先導していた一揆衆4~500名の後方に300余名の究竟な侍の集団を見つけたため一揆衆の動きに不審な点を感じ引き返したところ、前後左右の暗闇から弓矢を射かけられている。
逃走を計るも三村方の兵は田圃の畔道を巧みに移動すると退路を絶たれ、松明の光が目印となり射撃を受け負傷。
最期は逃走を諦め一人でも道連れにと駆け出したが、四方八方から矢を受け討死とある。
首級は敵の手に落ちるのだけは避けたいと養子の福山藤三郎が刎ね、地中深くに埋めたため見つからなかったとされる。
このことから当初は一揆衆と結託しての襲撃と思われるが、最期は裏切られる形の描写となっている。
その後、田の畔で三体の遺体が見つかり、この遺体の首と本人の腕が洗合の本陣(出雲国洗合城)へと送られている。(陰徳太平記 巻第三十九 福山肥後守討死之事)