伯耆古城図録

にいやまようがい / にいやまようがいやまじろ

新山要害 / 新山要害山城

鳥取県米子市新山 / 島根県安来市伯太町安田関

別 名

新山城(にいやまじょう)、安田要害 / 安田要害山城(やすだようがい / やすだようがいやまじろ)、長台寺城 / 丁台寺城(ちょうだいじじょう)

遺 構

郭跡、土塁、切岸、土橋、横堀、堀切、列石

現 状

山林、公園、福寿山長台寺

城 主

築城年

不明(平安時代頃と推定される)

廃城年

不明

築城主

安井光照(戦国期以前の築城主は不明)

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志

陰徳太平記

伯太町史

伯太町 安田要害山城調査報告書(安田要害山城跡調査団)

松江考古(第8号)

縄張図

伯太町 安田要害山城調査報告書に図示あり。

(主郭から15連郭で構造に伯耆国手間要害と共通点あり)

 

概 略

出雲国月山富田城と尼子十旗を繋ぐ尼子十砦の一つ。

城砦の始まりは不明(平安時代頃築城の説あり)だが、尼子経久の家臣、安井光照による築城が伝えられ、この頃に尼子十砦の一つとして名称が挙げられる程、城砦強化が施されたことが推測される。

 

伯耆国と出雲国の国境線上、要害山の山頂に主郭(本丸平)が所在する。

山中の峠越えの道は古代の山陰道と云われ、中・近世にも伯耆と出雲を結ぶ要路として用いられたと伝わる。

 

伯耆側からは新山村に一部が所在することから「新山要害」「新山要害山城」「新山の城」、出雲側からは安田関村に一部が所在することから「安田要害」「安田要害山城」、かつて坊床谷の本堂成に福寿山長台寺の本堂が所在したことから「長台寺城」とも呼称される。

 

築城の年代は不詳だが11世紀頃には山城石清水八幡宮の末社が勧請され、石清水八幡宮が周辺を荘園化し統治を行ったとある。(石清水文書)

古くは要害山ではなく「手間の山」「宝見山」と呼ばれていた。(宝見山八幡宮由来記:安田宮内八幡宮蔵)

 

主郭から続く各尾根にはそれぞれ郭群が設けられ、主要な施設の殆どが伯耆側に対する備えとなっている。

伯耆側には山ノ越山、小丸山、川越山、岡ノ上山、広屋山、カン林山、渡辺山、木戸坂、出雲側には長台寺の鎮座する要害山(八幡成や大成平)尾根、長台寺旧地の本堂成、出雲と伯耆の国境線上には要害山(山頂)、大谷山、ハゲノ谷山などに郭跡が見え、

城砦に関連する地名としては「八幡成」「二ノ平」「三ノ平」「軍用井戸」「七曲坂」「大成平」「小成平」「門跡又北平」「鐘突堂跡」「武者溜り」「一ノ坂」「本堂成」などが見える。

 

遠藤家記録(伯太町史)

安田関の要害山、新山の城、安井信濃守光照、同光明

 

遠藤家文書では永禄年間(1558年~1570年)、尼子氏が領有した頃に安井光照安井光明の在城が記されており、この頃の築城と推測されている。

異説には平安時代頃まで遡るとする見解もあり、残存遺構に伯耆国手間要害や出雲国月山富田城と共通する部分も見受けられる。

 

伯耆志 新山村の条

(略)要害山を新山と呼びて東面は会見郡、西面は出雲能義郡なり(略)要害山の東に在りて産土神比婆白山権現。

 

伯耆志 新山村の条 城跡の項

要害と呼ぶ山上出雲の境内にて上ること十二丁なり。其所に小祠あり。出雲人の祀る所なり。尼子勝久、山中鹿之助等永禄元亀中これに據りて毛利方と戦ひし事陰徳太平記等の書に見へたり。今焦米出つる事ありといへり。自国の事にあらざれはこれを略す。

 

伯耆志では新山村の条、城跡の項などに簡単な記述は見えるが出雲国側の事として省略されている。

 

伯耆志 新山村の条 紙籠越の項

右(城跡の項)の合戦の時、城中敵に囲まれて盬(塩)を絶つこと数日なり。一夫これを紙籠に入れて竊(密)かに運ひしが敵に遇ひて殺さる故に此名あり。今其夫の塚ありと云へり。

 

毛利方による月山富田城包囲戦の前段階の戦いでは伯耆国側(八橋郡、日野郡方面)から月山富田城への兵站を遮断するため当城も包囲されている。

籠城戦が長引くと城内の物資は乏しくなり、特に塩の不足には頭を悩ませていたようである。

窮状を見兼ねた尼子方の農夫が屑篭の中に塩を隠して運ぼうとしたが露見し殺害されたことが紙籠越の地名の由来としている。

 

1565年(永禄8年)3月、杉原盛重の軍勢に攻められ落城と云われる。

 

陰徳太平記(巻四十八)の 「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」では尼子勝久山中鹿介らが新山城に籠もり抗戦したことが記述に見えるが、これは当城ではなく島根県松江市法吉町の出雲国新山城の出来事と読むのが自然である。

伯耆志では当城に尼子勝久山中鹿介らが拠ったと読めることから、伯耆志成立の当時から「新山城」が伯耆・出雲で混同されていた可能性がある。

 

出雲国新山城の戦いでは1571年(元亀2年)8月25日(8月21日の説もあり)、尼子方は新山城を退去し簾岳へ落ち延びるが吉川元春の追撃により香賀ノ桂嶌まで退いている。

更に毛利方の児玉就英(児玉内蔵大夫)率いる水軍数百艘に追撃されると支えきれず隠岐国へと逃亡している。

 

陰徳太平記(巻四十八)の 「秋上父子心替之事」でも新山城の記述が見えるが、同じく出雲国の出来事と考えられる。

 

年 表

不明

11世紀頃に山城石清水八幡宮の末社が勧請され、周辺を石清水八幡宮が荘園化し統治とされる。

不明

城砦の始まりを平安時代頃とする説が見える。

1558年~1570年

永禄年間

尼子氏が領有し、安井光照安井光明が在城とある。(遠藤家記録)

この頃の築城とする説では尼子十砦と称されるまで城砦の機能を高めた建造が推測される。

1561年

永禄4年

尼子氏毛利氏による永禄の合戦ではこの頃から毛利方の攻撃が始まったと云われる。

1565年

永禄8年

3月、杉原盛重に攻められ落城し、月山富田城への伯耆国側からの兵站が遮断される。

(伯耆国江美城の落城を1565年(永禄8年)ではなく1564年(永禄7年)の8月とする場合)

地 図

 

写 真

訪城日 2018/02/18

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