伯耆古城図録

えびじょう / えみじょう

江美城 / 江尾城 / 江見城

鳥取県日野郡江府町江尾(字城ノ上)

別 名

江尾要害(えびようがい)、蜂塚城(はちつかじょう)、蜂塚要害(はちつかようがい)

遺 構

郭跡、堀切、空堀、土塁、桝形、虎口、土橋、列石遺構、桝形虎口、櫓台

城ノ上、上ノ段、土井ノ内、寺ノ前、上東屋敷、宮ノ前、馬場、馬場道ノ下など

東側の土橋から以南の字名が堀切。城ノ上の南側を巡る。

東側の土橋から以北、東祥寺の墓地や観音像が所在する場所の字名はヲクビとなっている。

人桝とも呼ばれる。本丸の西側、西の丸の北直下に所在する。

現 状

畑地、水田、山林、上之段広場、江美神社、東祥寺、山村開発センター、江府町民俗資料館など

城 主

(伯耆山名方)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守

(尼子方)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守蜂塚義光藤井蔵人

(毛利方)蜂塚義光

(吉川方)生山某荒木刑部今田春倍今田経高吉田佐太郎藤江蔵人佐々木四郎太郎

(中村方)林文太夫矢野正倫

築城年

1484年(文明16年)頃

廃城年

1611年(慶長16年)頃

築城主

形 態

平山城

備 考

江府町指定史跡

参考文献

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)

萩藩閥閲録(森脇覚書)

吉川広家功臣人数帳(1617年)

米子史談

江府町の文化財探訪問<第1集>(平成元年3月 江府町教育委員会)

江府町史(昭和50年12月 江府町史編さん委員会)

江尾全図(昭和50年5月 江府町)

新修江府町史(平成20年6月 江府町史編纂委員会)

日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)

江府町報 縮刷版(昭和56年1月 鳥取県日野郡江府町役場)

江府町報 第52号 江美十七夜物語(昭和46年9月10日 井上中山香)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

角川日本地名大辞典 31 鳥取県(昭和57年12月 角川書店)

縄張図

江美城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

鉄山の経営(鉄穴及び製鉄)と開田の技術(稲作)に長けた日野郡の在地国人衆(日野衆)、蜂塚氏の一族で蜂塚安房守による草創と云われる。

1484年(文明16年)、蜂塚安房守による築城が通説となっているが、宮市神社の社伝には同年に蜂塚安房守が在城したとするのみで築城には触れられておらず、これより以前の築城も推測される。(鳥取縣神社誌 宮市神社の項)

 

日野郡史 前編 江尾の江美城の項

字城の上に在り。西に面し高岳なり。天文五年、蜂塚右衛門尉藤井蔵人居城。此の落城は陰徳太平記、日本外史に詳なり。

 

日野郡史 前編 江美神社の項

所在地 江美村大字江尾字銀杏ノ段。石上神宮勧請磐船神社と唱へ後、王子権現と称す。

大正四年五月二十三日、上の段へ移転。旧城址名によりて江美神社と改む。

 

江美神社社記(日野郡史 前編収録)

本村より十町許り上に方り、入江といふ所にあり。銀杏の大樹があった事から是に因み銀杏の段といふ也。尚、蜂塚氏の旧城は唯今学校の上なる土地を古城といふ。又、唯今学校の敷地は土器(居の誤字か)の内と申して今、字を土居の内と申す也。寺の處より上を馬場といふ。又、西の門坂と申は蜂塚氏御在城の時、西の御門趾なるを以て字を西門坂といふ。

 

日野郡史では江美神社の旧所在地を字「銀杏ノ段」とし、往時の城砦は舟谷川を挟んだ北側に所在としている。

また、蜂塚氏の居館を字「土居ノ内(江尾全図の表記は土井の内)」、古城跡を字「城ノ上」としており、1536年(天文5年)には本城が銀杏ノ段から移転していたと推測する記述が見える。

字「城ノ上」に所在した城郭は毛利氏による統治の頃、吉川氏が政庁として新たに築城、増改築を行ったと推測され、所在地や移転時期に関しては近年再考がなされ、諸説存在する。

 

伯耆志 江尾村の条 小祠の項

村の東北方五十間の山地にあり。磐船山と呼ふ。祭神又勧請等の事社伝に続々説あれとも悉無稽の妄談なり。但し旧地にて天正元年の棟札に吉川駿河守元春の名あり。次に元和元年の棟札あれとも偽作と見えたり。以後は興禪公より御代々の御名を記す。慶長六年、中村氏の臣、小松勝三郎、桜甚吉の社領証文あり。高六石并居屋敷云々とあり他の文字滅して読かたし。

 

伯耆志では磐船神社の祭神や勧請について社伝の記述は全くの出鱈目とし、天正、元和の棟札も偽物であろうとしている。

 

伯耆志 江尾村の条 城跡の項

東祥寺の上の山なり。尼子氏の草創なり。陰徳太平記に曰く、伯耆江美城主蜂塚右衛門尉は先年尼子を背て毛利家の命令を請たりしか本庄父子か誅せられし時より又志を返して本の尼子の幕下に成ぬ。かくて富田城中勢衰へて頼むかひなく成けれは蜂塚か一族共今は早尼子の為に義を建たりとも行末に於て其の益無るへし。只、再毛利家へ降参の縁を求められ候へと諫言を納れたりけり。されとも蜂塚は吾累年の好みを忘れ毛利家に腰を折つるさへ思へは志士義人の耻る所なるに。さらは其のままにて有りも果てす。又本の尼子に帰服せし事是又千悔万悔なり。然るに尼子の滅亡近きにあるへしと見て又弱を捨強に附ん事、人間の色身を受けたる物は為さざる所にして禽獣夷狄の心とや云ふへき。かかる時節に至て貞節を守り討死したらんこそ。せめて旧悪を少しは蓋う便りともなる可し吾(原本此所江尾古城図有省略之)

義心爰に極れり。命惜く妻子も不便に思はんとする者共は悉く毛利家に降り候へ。士は渡り物なり。何そ恨とも思ふへき吾は一人たりといへとも当城を枕として善道の死を守るへきなりと云ひけれは家の子郎党共皆此儀に心服し一向に討死と思切て居たりけるを去程に蜂塚尼子の旧盟を不変とかく戦死せんと儀定して在る由聞えける間吉川元春より杉原播磨守盛重に彼城攻落すへき由下知せられ検使として今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添られにけり。各永禄八年八月朔日、雲州三保関より舟に取乗り押渡らんとしける時節俄に狂風吹来り迅雨盆を傾けて振出怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩ふて暗く舟己に覆らんとしける故。力不及漕戻し、福良、戸ノ井に四日滞留して討損せられし舟共修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛等を相伴ひ蜂塚か館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故可防者一人も無りけり。翌朝、寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間雑兵共堪兼て城外へ颯と崩れ出けるを追詰一人も不残打取けれは蜂塚はとても叶はしとや思ひけん腹搔切て失にけり。杉原今田、二宮等は数百人の首を捕て気色はふて帰ける處に元春、各江美城攻取事は粉骨の忠なりといへとも大風暴雨に舟とも無理に出し多くの兵をも失んとせし事甚奇怪の曲事なりと以ての外に憤り給ひ今田、二宮、森脇、山縣等四十五日か程は出仕をそ止られけるとみえたり。此の後の事詳ならず。口碑には蜂塚氏の後、生山某一代、荒木刑部一代、今田左衛門尉、其後吉田佐太郎、藤江蔵人なと云う人在城せし由云伝ふ。東祥寺の側に成道寺と呼ふ地あり。古墳あれとも伝なし。

 

陰徳太平記 伯州江美之城没落之事

伯耆国江美ノ城主、蜂塚右衛門尉は先年尼子を背いて毛利家の命令を請けたりしが本庄父子が誅被ずるより、又志を反へして本の尼子の幕下と成りぬ。如斯て富田城中、勢い衰えて頼むかい無く成りければ蜂塚が一族共今は早や尼子の為に義を建てたりとも行末に於て其益無かるべし。只再び毛利家降参の縁を求められ候えと諫言を納れたりけり。され共蜂塚は吾累年の好みを忘れ毛利家に腰を折りつるさえ思えば志士義人の耻ずる所なるに、さらば其ままにて有も果不。亦本の尼子に帰服せし事是又千悔万悔也。然に今尼子の滅亡邇在可(ちかくなり)と見て復た弱きを捨て強きに附かん事人間の色身を受けたる者は成不所にして猛禽夷狄の心とや云うべき。かかる時節に至りて貞節を守り討死したらんこそせめて旧悪を少しは葢う便りともなるべき吾れ疑心爰に極まれり。命惜しく妻子も不便に思わんずる者共は悉く毛利家に降り候え。士は渡り物なり。何ぞ恨みとも思うべき。吾は一人たりと雖(いえども)、当城を枕として善道の死を守るべきなりと云ければ家の子郎党皆此儀に心服し一向に討死と思い切つてぞ居たりける。去程に蜂塚尼子の旧盟を變不(かえず)、兎角戦死せんと議定して在る由聞えける間吉川元春より杉ノ原播磨守盛重に彼の城攻め落すべき由下知せられ検使爰に今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添をれにけり各永禄八年八月朔日雲州三保ノ関より舟に取り乗り押し渡らんとしける時節俄に猛風吹き来り。迅雨盆を傾けて降り出て怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩うて暗く舟巳に覆らんとしける故、力及不漕ぎ戻し福良、戸之井に四日滞留して打損せられし舟ども修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛等を相伴い蜂塚が館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故。防者一人も無りけり可。翌朝寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀じ登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間、雑兵共堪え兼て城外へ颯と崩れ出でけるを追い詰め一人も残不打取りければ蜂塚はとても叶わじとや思ひけん腹搔き切て失せにけり。杉ノ原今田、二宮等は数百人が首を捕りて気色ばって帰りける所に元春、各江美ノ城攻め取る事は粉骨の忠也と雖、大風暴雨に舟共無理に出し多くの兵を失わんとせし事甚だ奇怪の曲事也と以の外に怒り給い、今田、二宮、森脇、山縣等四十五日が程は出仕をぞ止られける。

 

雲陽軍実記 雲州国士及於毛利再為尼子方事の条

(略)伯州には岩坪の日野孫左衛門、江見蜂塚等一統して再び尼子へぞ返りける。

 

雲陽軍実記 毛利所々人数置 并再富田発向端城落る事の条

伯耆国江美城主。蜂塚右衛門尉は先年毛利に降りけるが全く本意に非ず。当時の急難を逃れん為なりとて。又尼子へ帰り無二の志を成しけるが毛利より杉原に下知して城を被攻(せめられ)けるに今田上野介、二の宮杢之助を探り使として被差向(さしむかわせる)。合戦花々敷有けるが小勢にて難渋に及びしかば右衛門尉さわやかに鎧ひ出立終に潔く討死して名を後代に残しける。

 

陰徳太平記では1565年(永禄8年)、毛利方による当城への総攻撃に於いては毛利軍が左右の山(銀杏ノ段兎丸天狗ヶ滝)から鉄砲や弓矢による砲撃・射撃を行ったとする描写があり、蜂塚義光が治めた頃(永禄年間)には本城の機能が当城(字「城ノ上」、或いは字「上ノ段」)へ移っていたとする説を裏付ける材料となる。(日野郡史では天文年間中、既に移転としている)

永禄年間も銀杏ノ段を本丸とする説も見えるが、毛利方の本陣とする天狗岳天狗ヶ滝)から見て、火縄銃の有効射程範囲で左右から挟めるべき場所がないことが否定する材料となる。

尚、天狗岳を毛利本陣とした直接の記述は見えず、陰徳太平記に於ける記述からの推測となる。

後世の時代小説(江美十七夜物語など)では毛利本陣を兎丸天狗岳と明記する物語も見えるが、何れも経過は陰徳太平記を元にしているため一部に不整合な点が見える。

 

字「城ノ上」の周辺を本城とする場合、西に日野川、北に舟谷川、小江尾川、南に南谷川、奥市川が流れる舌状台地突端に所在しており、現在と流路が変わっている可能性はあるものの各河川を天然の川堀として利用できる。

古文書では「江見(えみ)」、陰徳太平記でも「江美(えみ)」と記されることもあり、各河川を見渡せる位置であった事が読み解ける。

大山寺方面へ続く東側台地に対しては巨大な空堀(字「堀切」)を東から南にかけて配することで防御力を高めていたことが残存する地形から伺える。(但し、昭和の始め頃に工事を行ったとする手記や口伝があり、相当の改変を受けたとしている)

現在の東祥寺が所在する位置から更に東には成道寺(成導寺、清洞寺)が所在したことが字名から伺え、成道寺と東の空堀を以って比較的手薄な東側の防衛力を強化していたことが推測できる。

江府町史では江美神社の旧所在地を字「清導寺」とし、同じく東側の防御施設であったと想定している。

毛利方の文書では「蜂塚城」や「蜂塚要害」とも記され、銀杏ノ段兎丸城ノ尾丸天狗ヶ滝など周辺一帯を含めた表記と推測される。

 

城主の蜂塚氏は古くから続く伯耆国日野郡の国人とされ、後に尼子氏と誼を通じたとしている。

当城の草創とされる1484年(文明16年)頃の日野郡は名目的には伯耆山名氏の支配下とされていたが影響力の衰退は顕著であった。

1433年(永享5年)には尼子持久によって亀福山光徳寺へ本堂、庫裡が寄進され寺領への諸役を免除したとする記録が残る。

亀福山光徳寺は現在の鳥取県東伯郡琴浦町公文に所在しており、この頃の尼子氏の権勢が東伯耆まで及んでいたことを鑑みると、西伯耆への影響力はほぼ全土へ及んでいたとも推測される。

(一説では面での統治ではなく重要な拠点のみの点、或いは拠点を繋げる線で抑えていた程度とする考察もある)

このような情勢から文明年間の蜂塚安房守の出現と併せ、日野衆の一翼として蜂塚氏の名が見える頃より伯耆山名氏に属しながらも尼子氏と深い関係を築いていた可能性が考えられる。

通説では1524年(大永4年)、大永の五月崩れの後に尼子方へ恭順したとされているが、この場合は40年以上(最長90年あまり)も形骸化した伯耆山名氏の配下に属しつつも蜂塚氏は独立した勢力を保っていたこととなる。

 

1562年(永禄5年)頃、毛利氏の勢力が伯耆国へ及ぶに至り、伯耆国の国人衆の多くが尼子氏を見限り毛利氏へと靡く中、蜂塚義光も毛利方へと恭順しているが、雲陽軍実記では不本意なことだが周辺情勢を鑑みた上での決断としている。

しかし同年11月、毛利氏に降った本城常光らが殺害されたとの情報が伯耆国へ届くと、先に毛利方へと恭順した尼子方の国人衆の多くが再び離反し尼子方へと与する事態となった。

蜂塚義光も同年~1563年(永禄6年)の間に再び尼子方へと帰順している。(日野の逆心)

 

1564年(永禄7年)8月1日、毛利方の武将、杉原盛重の率いる船団が美保関より出航するが、今田上野介二宮木工助森脇市郎右衛門山縣四郎右衛門ら一部の船団は暴風雨のため計画通りの渡海が行えず、出雲国福良港へ流される船団と伯耆国外江港へ退避した船団に分かれ、それぞれ破損した船舶の補修などで4日間程の足止めを受けている。(陰徳太平記、伯耆民諺記、雲陽軍実記)

同年8月5日、舟の修理を終えた毛利軍の船団が再度出航。

同日の夜半、山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛らにより城主居館が放火されるが蜂塚義光と守将らは既に詰城へと移動していた。

同年8月6日、毛利方の武将、杉原盛重山田満重二宮杢介森脇右衛門尉らが3,000騎を以って当城への総攻撃を開始。

毛利軍の各隊はそれぞれ銀杏ノ段兎丸を占拠し、山上から射撃と銃撃を行い残敵を主郭まで追い詰めている。

同年8月8日、城主の蜂塚義光が自刃し落城。自刃の前に残った将兵の降伏を嘆願したとされるが許されず全員殺害されている。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

 

陰徳太平記、伯耆民談記では1565年(永禄8年)8月朔日、毛利方の軍勢が美保湾より出撃としている。

第二次月山富田城の戦い(1565年~1566年(永禄8年~永禄9年))では未だ当城からの補給線が健在で月山富田城へは山中の間道を使い兵糧を運ぶことが可能であったとされ、1565年(永禄8年)4月の毛利方による月山富田城への総攻撃も士気を維持した尼子方の奮戦により毛利方は撤退している。

4月の包囲戦の失敗から伯耆国内に補給拠点が残存している状態では月山富田城を落とせないと判断した毛利方は先に伯耆国内に残る尼子方の拠点制圧と補給線の寸断を進めている。

同年初夏、尼子方の吉田源四郎が守る伯耆国八橋城を陥落すると日本海側の航路を掌握、続いて同年8月には尼子方へと寝返った蜂塚義光の守る当城を陥落させ補給路となる山中の間道を寸断している。

当城の落城を以て伯耆国内で尼子方に与する主な拠点は消滅し、伯耆国側から月山富田城への兵站を封鎖すると、同年9月より再び月山富田城を包囲、兵糧攻めを以って攻略している。

 

江府町報 第52号に収録の江美十七夜物語(井上中山香 著)では陰徳太平記の記述を基として戦闘の詳細や登場人物の活躍が物語として追記されている。

屋葺四郎兵衛の部隊が兎丸対岸の向山に布陣し、上は相見ヶ谷から下は伯耆国美女石城に至るまで日野川沿いに展開させ水路上の退路を断ち、今田上野介は夜陰に紛れて銀杏ノ段の城主居館付近へと潜み攻撃の機会を伺う、占拠した後は蜂塚義光の妻、お市の方と東門から宮市坂にかけて激しい戦闘を行うなど物語が肉付けされている。

井上中山香氏の江美十七夜物語の他、兵隊作家であった棟田博氏が「江美城落城」という小説を週刊誌に発表したとも伝え聞く。

 

蜂塚氏の滅亡により伯耆国内で尼子方に与した勢力は駆逐され、日野郡一帯も毛利氏の所領となり、吉川氏の管轄となっている。

蜂塚氏の築いた中世城郭は吉川氏によって近世城郭へと改修が施され、日野川の水路や伯耆街道、日野街道、作州街道の陸路など主要な交通網が通うことから宿場町など城下の整備も行われ日野郡内有数の規模を誇る城郭へと変化した事が推測される。

字「城ノ上」の天守台付近の遺構からは伯耆国内唯一(山陰でも唯一)となる金箔鯱瓦の他、桐葉紋軒瓦などが出土している事から当城が豊臣政権下において重要な城のひとつであった可能性が通説として唱えられている。

しかし近年、駿河国駿府城の発掘調査で出土した金箔から、この金箔鯱瓦が当城に据え付けるためのものではない可能性が考えられるようになっている。

旧来の仮説として吉川広家に因む瓦と仮定するのであれば、吉川広家が居城とした月山富田城、新たに築城していた伯耆国米子城に据え付けるため備中方面を経由して予め輸送され当城へ保管されていた瓦と推測される。

事前に輸送し保管していたが文禄・慶長の役により普請奉行ら関係者が出征し不在となったことから、本城であった月山富田城の改造や城下町整備に遅延が生じた、或いは米子城の普請も大幅に遅れており、築城途中であったことから引き続き保管され、関ヶ原の戦いの戦後処理により吉川広家が岩国へ移封されるまでに月山富田城の改修、或いは米子城の完成を見なかったことから保管されたまま忘れ去られてしまったことも考えられる。

吉川氏が保管に気付いていたとしても岩国へ持ち出さなかった理由として、金箔瓦は豊臣家を象徴するものであったことから徳川方に叛意を疑われる可能性を排除するため放置、或いは廃棄したことも考えられる。

駿府城の発掘調査で出土した金箔瓦との関連を考えた仮説として、関ヶ原の戦いの戦功で中村氏が駿府から移封の際に何者かが駿府城から持ち出した瓦である可能性が考えられる。

中村方で当城の城番であったとされる人物には林文太夫矢野正倫と石高の高い重臣の名が見えるが、中村家に関する文書で金箔瓦に触れている記述は今のところ見えない。

 

城下町は伯耆街道と日野街道、作州街道の分岐点に所在し、伯耆と美作を結ぶ交通の要衝でもあったことから宿場町が栄えたとあり、花街なども存在したとされる。

字名に上東屋敷、下東屋敷、上西屋敷、中西屋敷、下西屋敷、新町南屋敷、新町北屋敷、寺ノ前、宮ノ前など城下町に由来する小字も多く残る。

小江尾の小字には「古屋敷」が残り、こちらは当城より以前の銀杏ノ段に関係すると考えられる。

 

江尾十七夜の主会場となる字「上之段」の郭跡は1898年(明治31年)3月、旧日本専売公社の工場建設により改変を受けている。

北側の石垣面には2つの抜け穴跡が残り、伝承では蜂塚義光の妻、お市が通った隠し通路とする言い伝えが残る。

1980年(昭和55年)に払い下げを受け、現在の上之段広場として再整備が行われている。(江府町史、新修江府町史)

 

字「土井ノ内」には歴代城主、蜂塚氏の居館があったとされるが、恐らくは四代目、蜂塚義光の頃の居館と考えられる。

 

年 表

1484年

文明16年

伯耆国日野郡の有力国人衆、蜂塚氏の一族、蜂塚安房守が在城と伝わる。(鳥取県神社誌)

1524年

大永4年

大永の五月崩れにより伯耆国内の諸城が次々と落城する中、当城も尼子方へ属したと伝える。

1536年

天文5年

蜂塚義光藤井蔵人が在城とある。(日野郡史 前篇)

1562年

永禄5年

毛利氏が出雲国への侵攻を開始すると伯耆国の国人衆は相次いで尼子氏から離反する。

尼子方であった本城常光の寝返りを機に当城の蜂塚義光も毛利方へと属する。

11月5日、毛利方に降った本城常光が殺害される。

1562年~1563年

永禄5年~永禄6年

本城常光らの粛清が伯耆へ伝わると先に毛利方へ寝返った元尼子方の国人衆の多くが再び毛利方から離反し、蜂塚義光も再び尼子方へと与している。

1564年

永禄7年

8月1日、美保関より船団が出航するが荒天に遭い福良、外江の港へ四日間停留し、破損した舟の修理を行っている。

8月5日、毛利方の武将、山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛らにより居館が放火され、蜂塚義光らは詰城へ移動する。

8月6日、毛利方の武将、杉原盛重山田満重らが3,000騎を以て総攻撃を開始。

8月8日、蜂塚義光は一族とともに自刃し落城とある。※永禄8年(1565年)との説もある。

永禄年間~天正年間

吉川氏によって近世城郭への改修が施されたと云われる。

蜂塚氏の滅亡後は吉川氏杉原氏に属した諸将が城番を務めており、吉川広家功臣人数帳では佐々木四郎太郎が城番として任じられている。

1601年

慶長6年

中村一忠が伯耆国の領主となると林文太夫矢野正倫が城番として任じられている。

1611年

慶長16年

1609年(慶長14年)に中村家が改易されると城主であった矢野正倫は浪人となり京都へ転出し、その後の詳細は不明。

加藤氏関氏による管理は見えず、天領として暫く存続した後に廃城と伝わる。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/11/24、2015/08/28、2016/04/12

兎丸(南側)からの遠望

主郭(本丸)と天守台

八幡丸の模擬櫓

二ノ丸から主郭の眺め

東祥寺の空堀(字名はヲクビ)

上ノ段広場

上東屋敷上岸の石垣

八幡丸(模擬櫓)への坂道

八幡丸東側に石垣と虎口

本丸と西ノ丸を隔てる堀切

二ノ丸(西ノ丸)

二ノ丸(西ノ丸)の虎口

二ノ丸の北の人枡

人枡の土塁

人枡土塁上の祠

主郭と大山の遠景

天守台跡

天守台の虎口・土塁・列石遺構

天守台には石段

天守の井戸跡

天守台から二ノ丸(西ノ丸)の眺め

本丸東側の土橋

土橋南側の空堀内は連郭

土橋南側空堀の高低差

土橋南側空堀の連郭には石垣跡

江府町役場裏の登城道

木クビ(ヲクビ)の礎石

江美神社

上ノ段広場

上ノ段広場の石垣

上東屋敷に石組みの井戸跡

城主居館跡とされる土井ノ内

土井ノ内(山村開発センター)

東祥寺

東祥寺の門構え

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