伯耆古城図録

えびじょう / えみじょう

江美城

鳥取県日野郡江府町江尾(字城ノ上)

別 名

江尾城(えびじょう)、江見城(えみじょう)、江尾要害(えびようがい)、蜂塚城(はちつかじょう)、蜂塚要害(はちつかようがい)

遺 構

郭跡、堀切、空堀、土塁、虎口、土橋、列石遺構、枡形虎口、櫓台

現 状

畑地、水田、山林、上之段広場、江美神社、東祥寺、山村開発センター、江府町民俗資料館など

城 主

(伯耆山名方)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守

(尼子方)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守蜂塚義光藤井蔵人

(毛利方)蜂塚義光

(吉川方)生山某荒木刑部今田春倍今田経高吉田佐太郎藤江蔵人佐々木四郎太郎

(中村方)林文太夫矢野正倫

築城年

1484年(文明16年)頃

廃城年

1611年(慶長16年)頃

築城主

形 態

平山城

備 考

江府町指定史跡

参考文献

陰徳太平記

伯耆志

伯耆民談記

伯耆民諺記

因伯古城跡図志

森脇覚書

吉川広家功臣人数帳(1617年)

米子史談

江府町の文化財探訪問<第1集>(平成元年3月:江府町教育委員会)

江府町史(昭和50年12月発行:江府町史編さん委員会)

新修江府町史(平成20年6月発行:江府町史編纂委員会)

日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

角川日本地名大辞典 31 鳥取県(昭和57年12月 角川書店)

縄張図

江美城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

鉄山(鉄穴及び製鉄)と開田(稲作)の技法を家伝とし、その経営に長けた伯耆の国人衆、蜂塚氏の一族で蜂塚安房守による築城と云われる。

江美神社の社記では1484年(文明16年)に蜂塚安房守の在城が記述に見える。(日野郡史 前編、鳥取縣神社誌)

 

日野郡史 前編 江尾の江美城の項

字城の上に在り。西に面し高岳なり。天文五年、蜂塚右衛門尉藤井蔵人居城。此の落城は陰徳太平記、日本外史に詳なり。

 

日野郡史 前編 江美神社の項

所在地 江美村大字江尾字銀杏ノ段。石上神宮勧請磐船神社と唱へ。後、王子権現と称す。

大正四年五月二十三日、上の段へ移転。旧城址名によりて江美神社と改む。

 

江美神社社記(日野郡史 前編収録)

本村より十町許り上に方り、入江といふ所にあり。銀杏の大樹があった事から是に因み銀杏の段といふ也。尚、蜂塚氏の旧城は唯今学校の上なる土地を古城といふ。又、唯今学校の敷地は土器の内と申して今、字を土居の内と申す也。寺の處より上を馬場といふ。又、西の門坂と申は蜂塚氏御在城の時、西の御門趾なるを以て字を西門坂といふ。

 

日野郡史では江美神社の旧所在地を字「銀杏ノ段」とし、往時の城砦は舟谷川を挟んだ北側に所在としている。

後に蜂塚氏の居館を字「土居の内」、字「城ノ上」を古城跡としており、蜂塚氏の頃には既に本城が銀杏ノ段から当地へと移っていたことが伺える。

一説には字「城ノ上」に所在した城郭は毛利氏による統治の頃からとし、政庁として吉川氏が築城を行ったとする説もある。

 

伯耆志 江尾村の条 小祠の項

村の東北方五十間の山地にあり。磐船山と呼ふ。祭神又勧請等の事社伝に続々説あれとも悉無稽の妄談なり。但し旧地にて天正元年の棟札に吉川駿河守元春の名あり。次に元和元年の棟札あれとも偽作と見えたり。以後は興禪公より御代々の御名を記す。慶長六年、中村氏の臣、小松勝三郎、桜甚吉の社領証文あり。高六石并居屋敷云々とあり他の文字滅して読かたし。

 

一方の伯耆志では磐船神社の祭神や勧請については全くの出鱈目とし、天正、元和の棟札も偽物としている。

 

所在地や移転時期については近年見直されつつあり、諸説が存在する。

江府町史では江美神社の旧所在地を字「清導寺」とし、当城主郭に対する東側の防御施設と想定している。

 

伯耆志 江尾村の条 城跡の項

東祥寺の上の山なり。尼子氏の草創なり。陰徳太平記に曰く、伯耆江美城主蜂塚右衛門尉は先年尼子を背て毛利家の命令を請たりしか本庄父子か誅せられし時より又志を返して本の尼子の幕下に成ぬ。かくて富田城中勢衰へて頼むかひなく成けれは蜂塚か一族共今は早尼子の為に義を建たりとも行末に於て其の益無るへし。只、再毛利家へ降参の縁を求められ候へと諫言を納れたりけり。されとも蜂塚は吾累年の好みを忘れ毛利家に腰を折つるさへ思へは志士義人の耻る所なるに。さらは其のままにて有りも果てす。又本の尼子に帰服せし事是又千悔万悔なり。然るに尼子の滅亡近きにあるへしと見て又弱を捨強に附ん事、人間の色身を受けたる物は為さざる所にして禽獣夷狄の心とや云ふへき。かかる時節に至て貞節を守り討死したらんこそ。せめて旧悪を少しは蓋う便りともなる可し吾(原本此所江尾古城図有省略之)

義心爰に極れり。命惜く妻子も不便に思はんとする者共は悉く毛利家に降り候へ。士は渡り物なり。何そ恨とも思ふへき吾は一人たりといへとも当城を枕として善道の死を守るへきなりと云ひけれは家の子郎党共皆此儀に心服し一向に討死と思切て居たりけるを去程に蜂塚尼子の旧盟を不変とかく戦死せんと儀定して在る由聞えける間吉川元春より杉原播磨守盛重に彼城攻落すへき由下知せられ検使として今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添られにけり。各永禄八年八月朔日、雲州三保関より舟に取乗り押渡らんとしける時節俄に狂風吹来り迅雨盆を傾けて振出怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩ふて暗く舟己に覆らんとしける故。力不及漕戻し福良、戸ノ井に四日滞留して討損せられし舟共修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛等を相伴ひ蜂塚か館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故可防者一人も無りけり。翌朝、寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間雑兵共堪兼て城外へ颯と崩れ出けるを追詰一人も不残打取けれは蜂塚はとても叶はしとや思ひけん腹搔切て失にけり。杉原今田、二宮等は数百人の首を捕て気色はふて帰ける處に元春、各江美城攻取事は粉骨の忠なりといへとも大風暴雨に舟とも無理に出し多くの兵をも失んとせし事甚奇怪の曲事なりと以ての外に憤り給ひ今田、二宮、森脇、山縣等四十五日か程は出仕をそ止られけるとみえたり。此の後の事詳ならず。口碑には蜂塚氏の後、生山某一代、荒木刑部一代、今田左衛門尉、其後吉田佐太郎、藤江蔵人なと云う人在城せし由云伝ふ。

東祥寺の側に成道寺と呼ふ地あり。古墳あれとも伝なし。

 

伯耆志や陰徳太平記に見える1565年(永禄8年)の毛利方による当城への総攻撃では毛利軍が左右の山(銀杏ノ段兎丸天狗ヶ滝)から鉄砲や弓矢による砲撃・射撃を行っている描写があり、蜂塚義光が治めた頃(永禄年間)には本城の機能が当城(字「城ノ上」、或いは字「上ノ段」)へ移っていたとする説を裏付ける材料となる。

この頃も銀杏ノ段を本丸とする説を取る場合、火縄銃の有効射程範囲で左右から挟めるべき場所がないことから否定する材料となる。

 

立地としては西に日野川、北に舟谷川、小江尾川、南に南谷川、奥市川が流れる舌状台地突端に所在しており、現在と流路が変わっている可能性はあるものの各河川を天然の川堀として利用できる。

古文書では「江見(えみ)」と記されることもあり、各河川を見渡せる位置であった事が読み解ける。

大山寺方面へ続く東側台地には巨大な空堀(字「空堀」)を配することで防御力を高めていたことが地形から伺える。

現在の東祥寺が所在する位置から更に東には成道寺(成導寺、清洞寺)が所在したことが字名から伺え、成道寺と東の空堀を以って比較的手薄な東側の防衛力を強化していたことが推測できる。

毛利方の文書では「蜂塚城」や「蜂塚要害」とも記され、後者は銀杏ノ段兎丸天狗ヶ滝など周辺一帯を示すための表記と考えられる。

 

蜂塚氏は古くから続く伯耆国の国人とされるが後に尼子氏と誼を通じたとされている。

当城が築城された頃(1484年頃)の日野郡は名目的に伯耆山名氏の支配下であったとされるが伯耆山名氏の衰退は顕著で、1433年(永享5年)には尼子持久によって亀福山光徳寺へ本堂、庫裡が寄進され寺領への諸役を免除したとする記録が残る。

亀福山光徳寺は現在の鳥取県東伯郡琴浦町公文に所在しており、この頃には尼子氏の権勢が伯耆国ほぼ全土に及んでいたことが伺える。

以上の情勢から当城の築城時期には既に蜂塚氏伯耆山名氏に属しながらも尼子氏と深い関係を築いていた可能性が高い。

通説で当城は1524年(大永4年)の大永の五月崩れの後に尼子方へ恭順したと記されるが、この場合は40年以上(最長90年あまり)も形骸化した伯耆山名氏の支配下に属しつつも蜂塚氏は独立した勢力を保ったことになる。

 

1562年(永禄5年)頃、毛利氏の勢力が伯耆国へ及ぶに至り、伯耆の国人の多くが尼子氏を見限り毛利氏へと靡く中、蜂塚義光も毛利方へ恭順を誓っている。

しかし同年11月、毛利氏に降った本城常光らが殺害されたとの情報が伯耆国へ届くと、先に毛利方へ恭順した尼子方の国人衆の多くが再び離反し尼子方へと与する事態となった。

蜂塚義光も同年~1563年(永禄6年)の間に再び尼子方へ帰順している。(日野の逆心)

 

1564年(永禄7年)8月6日、毛利方の杉原盛重山田満重二宮杢介森脇右衛門尉らが3,000騎を以って当城へ総攻撃を開始、同年8月8日、城主の蜂塚義光は自刃し落城とある。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

 

陰徳太平記や伯耆民談記では1565年(永禄8年)8月朔日、毛利方の軍勢が美保湾より出撃としている。

第二次月山富田城の戦い(1565年~1566年(永禄8年~永禄9年))では未だ当城からの補給線が健在で月山富田城へは山中の間道を使い兵糧を運ぶことが出来たとあり、1565年(永禄8年)4月の毛利方による月山富田城への総攻撃も士気を維持した尼子方の奮戦により毛利方は撤退している。

同年の初夏頃には吉田源四郎の守る伯耆国八橋城を、8月には蜂塚義光の守る当城を攻略した毛利方は伯耆国側から月山富田城への間道(兵站)を封鎖し、同年9月より再び月山富田城を包囲、兵糧攻めを以って攻略している。

 

蜂塚氏の滅亡を以って伯耆国内の主要な尼子方の勢力は駆逐され、日野郡一帯は毛利氏の所領となった。

蜂塚氏の築いた中世城郭は吉川氏によって近世城郭へと改修、併せて城下町の整備も行われ日野郡内有数の規模を誇る城郭へと変化した事が推測される。

字「城ノ上」の天守台付近の遺構からは伯耆国唯一(山陰でも唯一)となる金箔鯱瓦の他、桐葉紋軒瓦などが出土している事から当城が豊臣政権下において重要な城の一つであった可能性が考えられている。

(金箔鯱瓦については当城に据え付けるためのものではなく、吉川広家が居城とした月山富田城や新たに築城していた伯耆国米子城に据え付けるため輸送し保管していたところ、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いなどの騒乱が短期間に重なり、豊臣秀吉の死去と共に放置・廃棄されてしまった可能性や、関ヶ原の戦いの後の戦功で中村氏が駿府から移封の際、駿河国駿府城から持ち出した瓦である可能性も考えられる)

 

城下町は伯耆街道と日野街道の分岐点に所在し、伯耆と美作を結ぶ交通の要衝でもあったことから宿場町としても栄え、上東屋敷、下東屋敷、上西屋敷、中西屋敷、下西屋敷、新町南屋敷、新町北屋敷、寺前、宮ノ前など城下町の形成を伺わせる小字も多く残る。

小江尾の小字には「古屋敷」が残り、当城より以前の銀杏ノ段に関係すると考えられる。

 

毎年「江尾十七夜」の会場となる字「上之段」の郭跡は1898年(明治31年)3月、旧日本専売公社の工場建設により徹底的な改変を受けている。

1980年(昭和55年)に払い下げを受け、現在の上之段広場として整備されている(江府町史、新修江府町史)

 

字「土井ノ内」には歴代城主、蜂塚氏の居館があったとされるが、恐らくは四代目、蜂塚義光の頃の居館が考えられる。

古くは「えび」ではなく「えみ」と呼ばれていたことが伝わり、古文書にも「江見」との記載が見えたり、陰徳太平記でも「江美之城」には「エミ」とルビがある。

 

年 表

1484年

文明16年

鉄山と開田の技術に長けた国人衆、蜂塚氏の一族、蜂塚安房守による築城と伝わる。

1524年

大永4年

大永の五月崩れでは伯耆国内の諸城が次々と落城する中、当城も尼子方へ属したと伝える。

蜂塚安房守の頃より尼子方と誼を結んでいた可能性も。

1536年

天文5年

蜂塚右衛門尉藤井蔵人が居城とある。(日野郡史 前篇)

1562年

永禄5年

毛利氏が出雲国への侵攻を開始、伯耆の国人衆は相次いで尼子氏から離反し、当城も毛利方へと属した。

11月5日、毛利氏に降った本城常光が暗殺される。

1563年

永禄6年

本城常光らの粛清が伯耆へ伝わると先に毛利方へ降った元尼子方の国人衆の多くは再び毛利方を離反。

当城の城主、蜂塚義光も再び尼子方へと属している。(1562年からの出来事とも)

1564年

永禄7年

8月6日、毛利方の武将、杉原盛重山田満重らが総攻撃を開始。

8月8日、蜂塚義光は一族とともに自刃し落城とある。※永禄8年(1565年)との説もある。

永禄年間~天正年間

吉川氏によって近世城郭への改修が施されたと云われる。

蜂塚氏滅亡後は吉川氏に属した諸将が城番を務めたようであり、吉川広家功臣人数帳では佐々木四郎太郎が城番として任じられている。

1601年

慶長6年

中村一忠が伯耆国の領主となると矢野正倫が城番として任じられている。

異説には林文太夫が城番とも。

1611年

慶長16年

この頃の廃城と伝わる。

地 図

写 真

訪城日 2013/11/24、2015/08/28、2016/04/12

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