所 属
毛利
吉川
よみがな
人物名
やまがた しろうえもん
山縣四郎右衛門
官 途
右衛門尉
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
吉川氏に与した武将。一族は毛利家、吉川家の家臣として仕える。
伯耆国江美城の戦いでは毛利方の増援として一隊を預かっており、屋葺四郎兵衛を副将としている。(陰徳太平記)
1563年9月28日(永禄6年9月11日)
出雲国白鹿城の戦いでは吉川方の部隊を率いる奉行のひとりとして坑道を掘削しながら敵陣へと向かっている。(陰徳太平記 巻之第三十六 雲州白鹿ノ城攻事)
伯耆志 江尾村の条 城跡の項
(略)吉川元春より杉原播磨守盛重に彼城攻落すへき由下知せられ検使として今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添られにけり。各永禄八年八月朔日、雲州三保関より舟に取乗り押渡らんとしける時節俄に狂風吹来り迅雨盆を傾けて振出怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩ふて暗く舟己に覆らんとしける故。力不及漕戻し、福良、戸ノ井に四日滞留して討損せられし舟共修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛等を相伴ひ蜂塚か館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故可防者一人も無りけり。翌朝、寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間雑兵共堪兼て城外へ颯と崩れ出けるを追詰一人も不残打取けれは蜂塚はとても叶はしとや思ひけん腹搔切て失にけり。杉原、今田、二宮等は数百人の首を捕て気色はふて帰ける處に元春、各江美城攻取事は粉骨の忠なりといへとも大風暴雨に舟とも無理に出し多くの兵をも失んとせし事甚奇怪の曲事なりと以ての外に憤り給ひ今田、二宮、森脇、山縣等四十五日か程は出仕をそ止られけるとみえたり。
陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事
(略)吉川元春より杉ノ原播磨守盛重に彼の城攻め落すべき由下知せられ検使爰に今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添をれにけり各永禄八年八月朔日雲州三保ノ関より舟に取り乗り押し渡らんとしける時節俄に猛風吹き来り。迅雨盆を傾けて降り出て怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩うて暗く舟巳に覆らんとしける故、力及不漕ぎ戻し福良、戸之井に四日滞留して打損せられし舟ども修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛等を相伴い蜂塚が館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故防者一人も無りけり可。翌朝寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀じ登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間、雑兵共堪え兼て城外へ颯と崩れ出でけるを追い詰め一人も残不打取りければ蜂塚はとても叶わじとや思ひけん腹搔き切て失せにけり。杉ノ原、今田、二宮等は数百人が首を捕りて気色ばって帰りける所に元春、各江美ノ城攻め取る事は粉骨の忠也と雖、大風暴雨に舟共無理に出し多くの兵を失わんとせし事甚だ奇怪の曲事也と以の外に怒り給い、今田、二宮、森脇、山縣等四十五日が程は出仕をぞ止られける。
1564年9月6日or1565年8月26日(永禄7年8月1日or永禄8年8月1日)※
江美城の戦いでは毛利本隊の総大将、杉原盛重へ検使として吉川元春より今田経高が派遣されており、吉川方の増援部隊の一隊を率いて美保関から出航するが暴風雨に阻まれ渡海できず、出雲国の福良或いは伯耆国の外江の軍港へと押し流され4日間の足止めを受けている。(陰徳太平記、伯耆民諺記)
1564年9月10日or1565年8月30日(永禄7年8月5日or永禄8年8月5日)※
舟の修理を終えると再度出航し、同日の夜半には戦場となった江美城の城下付近へ到着する。
屋葺四郎兵衛を副将に伴って城主の居館を放火したとある。
その際、居館に守兵は見当たらず抵抗もなかったことから既に蜂塚義光らは詰城へと移動した後であったとしている。
1564年9月11日or1565年8月31日(永禄7年8月6日or永禄8年8月6日)※
毛利方は本隊の杉原盛重、山田満重、増援部隊の今田上野介、二宮木工助、森脇右衛門尉ら総勢3,000騎を以って蜂塚義光の立て籠もる江美城本丸への総攻撃を開始する。
日野川岸や城下に布陣していた吉川方の増援部隊は銀杏ノ段と兎丸を占拠し山上から射撃、銃撃を行い蜂塚方の将兵の逃亡を許さず主郭へと押し留めている。
伯耆民談記では攻撃開始から同日のうちに落城し、蜂塚義光も即日自刃としている。
1564年9月13日or1565年9月2日(永禄7年8月8日or永禄8年8月8日) ※
自刃の前に残った将兵の降伏を嘆願したとされるが許されず全員が殺害されている。(森脇覚書、三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状)、陰徳太平記、伯耆民諺記)
※古文書(三吉鼓家文書、日野文書など)では永禄7年(1564年)、軍記物(陰徳太平記、雲陽軍実記など)では永禄8年(1565年)の出来事としている。
吉川方の増援を率いた各部隊長に対して吉川元春は戦功を大きく称した一方、荒天の最中に舟を出し無理な渡海を敢行したため大きな損害を出したことを咎められ、45日ほど出仕を禁じられている。(陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事)