よみがな

人物名

やまがた しろうえもん

山縣四郎右衛門

出身

不詳

生年

不詳

没年

不詳

不詳

不詳

山縣

通称

四郎右衛門

不詳

官途

右衛門尉

所属

毛利

吉川

列 伝

吉川氏に与した武将。一族は毛利家、吉川家の家臣として仕える。

伯耆国江美城の戦いでは増援として一隊を預かっており、屋葺四郎兵衛を副将としている。(陰徳太平記)

 

1563年(永禄6年)9月11日、出雲国白鹿城の戦いでは吉川方の部隊を率いる奉行のひとりとして坑道を掘削しながら敵陣へと向かっている。(陰徳太平記 巻之第三十六 雲州白鹿ノ城攻事)

 

1564年(永禄7年)8月1日、江美城の戦いに於ける杉原盛重への検使として今田経高が派遣されると吉川方の増援部隊の一隊を率いて美保関から出航するが暴風雨に阻まれ渡海できず、出雲国の福良、或いは伯耆国の外江の軍港へと押し流され4日間の足止めを受けている。

同年8月5日、舟の修理を終えると再度出航し、同日の夜半には戦場となった江美城の城下付近へ到着。

屋葺四郎兵衛を副将に伴って城主の居館を放火したとある。

放火の際、居館に守兵は居らず、抵抗も全くなかったことから既に蜂塚義光らは詰城へと移動した後としている。

同年8月6日、尼子方の立て籠もる江美城への総攻撃が始まり、同年8月8日までに城主の蜂塚義光が自刃し落城とある。(陰徳太平記、森脇覚書、三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

 

陰徳太平記では1565年(永禄8年)の出来事としており、伯耆志、伯耆民談記など陰徳太平記から引用した書物も準じた年号の出来事となっている。

吉川方の増援を率いた部隊長に対して吉川元春は戦功を大きく称した一方、荒天の最中に舟を出し無理な渡海を敢行したため大きな損害を出したことを咎められ、45日ほど出仕を禁じられている。(陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事)

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