所 属

毛利

吉川

よみがな

人物名

いまだ こうずけのすけ つねたか

今田上野介経高

 

別 名

いまだ かずさのすけ つねたか

今田上総助経高

雲陽軍実記での表記

 

通 称

いまだ まごしろう

今田孫四郎

 

官 途

上野介、上総介(雲陽軍実記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

藤原

朝臣

経高

列 伝

吉川氏の一族。雲陽軍実記の吉川家系譜では吉川経世の次男とする。

永禄年間、毛利領となった伯耆国江美城の城番を務めた。

 

1542年1月27日(天文11年1月12日)

大内義隆の出雲国遠征に加勢した毛利元就と共に出陣した武将のひとりとして名が見える。

雲陽軍実記では官途を上総助(上総介)としている。(雲陽軍実記 第一巻 大内大納言義隆石州発向 附国々味方馳加勢揃之事)

 

1564年(永禄7年)/1565年(永禄8年)

再び尼子方へと寝返った江美城の制圧を命じられた杉原盛重の検使を務める。

 

1564年9月6日(永禄7年8月1日)/1565年8月26日(永禄8年8月1日)

検使の任と杉原盛重への増援を兼ね、二宮木工助森脇市郎右衛門山縣四郎右衛門らを率いて美保関の港を出航するが荒天により船団は多大な損害を出し、出雲国の福良、伯耆国の外之井外江)の各港へ流され4日間の足止めを受けており、この間に舟の修理と補給を行ったとしている。

 

1564年9月10日(永禄7年8月5日)/1565年8月30日(永禄8年8月5日)

同年8月5日、再び中海を渡海すると同日の夜半頃には戦場となった江美城の城下付近へと到着し、多くの首級を挙げている。

吉川元春からは戦功を大きく称される一方、荒天の最中に舟を出し、渡海に於いて大きな損害を出したことを咎められ45日ほど出仕を禁じられている。(陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事)

 

吉川家文書(1547年(天文16年※閏7月25日、7月27日の2通)、1548年(天文17年)、1595年(文禄4年))では「今田孫四郎」と通称で記載される

吉川家文書(1576年(天正4年))では「今田上野介」と官途で記載されるが同一人物とするかは不明。

 

江府町報 第52号に収録の「江美十七夜物語」では伯耆国江美城での合戦の描写では江美城の北の出丸、銀杏ノ段を放火した後に制圧し、蜂塚義光の妻、お市の方の部隊と江美城の東門付近で激しい戦闘が行われたとする脚色がなされている。

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