伯耆古城図録
えびじょう いちょうのだん
江美城 銀杏ノ段
鳥取県日野郡江府町江尾(字銀杏ノ段)
別 名
銀杏段丸 / 銀杏殿丸(いちょうのだんまる)、蜂塚城(はちつかじょう)、蜂塚要害(はちつかようがい)、江見城(えみじょう)、江見要害(えみようがい)
遺 構
郭跡、土塁、堀切
現 状
畑地、山林
築城年
文明16年(1484年)
廃城年
不明
築城主
進氏、蜂塚安房守
形 態
丘城
備 考
史跡指定なし
参考文献
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)
萩藩閥閲録(森脇覚書)
江美城銀杏段丸跡試掘調査報告書(平成13年3月 江府町教育委員会)
江府町の文化財探訪問<第1集>(平成元年3月 江府町教育委員会)
江府町史(昭和50年12月 江府町史編さん委員会)
江尾全図(昭和50年5月 江府町)
新修江府町史(平成20年6月 江府町史編纂委員会)
日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)
江府町報 縮刷版(昭和56年1月 鳥取県日野郡江府町役場)
江府町報 第52号 江美十七夜物語(昭和46年9月10日 井上中山香)
縄張図
江美城銀杏段丸跡縄張り図及びトレンチ配置図(江府町教育委員会提供)
江美城銀杏段丸跡試掘調査報告書
概 略
伯耆国江美城の北側の出丸とされ、舟谷川(船谷川)を挟んだ丘陵に所在したと云われる。
東側、南側を舟谷川、西側を日野川、北側を小江尾川が流れることで四方が天然の川堀で守られ、丘陵尾根も急峻な断崖が切り立つ天然の要害の様相を残す。
萩藩閥閲録など毛利氏に関係する文書では「蜂塚城」「蜂塚要害」とも記述が見える。(但し銀杏ノ段、城ノ上のどちらを指すか不明)
江美神社の由緒を辿ると1484年(文明16年)に蜂塚安房守が在城したとされる江美城は元々はこの銀杏ノ段に築城された城とされる。
城主の蜂塚氏は代々江美神社を城砦鎮護・武運長久のため厚く祀っていたとされる。
城砦鎮護が目的であれば社殿は城域内に鎮座している事が自然と考えられ、江美神社の前身である磐船神社、王子権現が銀杏ノ段に所在したことから磐船神社を勧請した進氏から初代蜂塚氏(蜂塚安房守)の治世の頃は江美城が銀杏ノ段に所在したと推測できる。
陰徳太平記の記述から四代目の蜂塚義光の治世の頃(永禄年間)、政庁としての機能は現在の「城ノ上」へ移っていったことが伺え、当城は江美城の北の防衛拠点として引き続き軍事施設などが残されたと推測される。
1564年(永禄7年)8月、毛利氏による江美城攻略戦では兎丸と共に制圧され、毛利方の江美城攻めの拠点となっている。
(陰徳太平記や伯耆民談記では1565年(永禄8年)の出来事とされ、記述には1565年(永禄8年)8月、毛利方による江美城攻めに於いて本丸攻略の前に制圧された拠点の一つとして登場。江府町史では蜂塚氏一門が籠もる本丸に向け当城、兎丸、天狗ヶ滝から砲撃・射撃を行ったとある)
日野郡史 前編 江美神社の項
江美神社社記(日野郡史 前編収録)
本村より十町許り上に方り、入江といふ所にあり。銀杏の大樹があった事から是に因み銀杏の段といふ也。尚、蜂塚氏の旧城は唯今学校の上なる土地を古城といふ。又、唯今学校の敷地は土器の内と申して今、字を土居の内と申す也。寺の處より上を馬場といふ。又、西の門坂と申は蜂塚氏御在城の時、西の御門趾なるを以て字を西門坂といふ。
日野郡史では江美神社の旧所在地を字銀杏ノ段とし、往時の城砦は舟谷川を挟んだ北側に所在としている。
鳥取県神社誌では江美神社の由緒として銀杏ノ段から上ノ段へ移転した経緯が見える(要約)
1868年(明治元年)、神社改正の際、江尾社と改められる。
1872年(明治5年)、村社に列す。
1873年(明治6年)、江尾神社と改称す。
1915年(大正4年)5月、久連、貝市、小江尾などの神社と合併し現在の場所に移転し江美神社と称す。
伯耆民談記江美城の条
蜂塚氏の滅亡後、当城についての詳細は不明。
年 表
1484年
文明16年
1524年
大永4年
大永の五月崩れによって伯耆国内の諸城が次々と落城する中、当城も尼子方へ属したと伝える。
※蜂塚安房守の頃より尼子方と誼を結んでいた可能性も考えられている。
永禄年間
1564年
永禄7年
8月、毛利方に制圧され蜂塚氏の籠もる江美城本丸へ向けて射撃・砲撃が行われた場所の一つとされる。※1565年(永禄8年)とも。
地 図
写 真
訪城日 2016/04/12