武 将 列 伝 帖

はちつか し

蜂塚氏

【氏】【姓】朝臣【名】蜂塚

出 身

日野郡

所 属

伯耆山名氏⇒尼子氏⇒毛利氏⇒尼子氏

 

武 将 列 伝

伯耆国日野郡に勢力を誇った一族。蜂塚安房守を初代とも伝える。

往時の日野郡北部は進氏の領有と推定されているが、蜂塚安房守の名が見える頃より一族が日野郡を拠点とした有力国人衆(日野衆)の一翼として名を連ねており、日野郡北部の西側(現在の西伯郡伯耆町周辺)を進氏、東側(現在の日野郡江府町周辺)を蜂塚氏が領有している。

一考には往古より進氏の配下として与していたが蜂塚安房守の頃に尼子氏と誼を結び勢力を急拡大させ台頭したとも推測される。

 

1558年~1562年(永禄元年~永禄5年)頃、 石見国の石見銀山を巡る尼子氏毛利氏の争いに於いては尼子方の援軍として参戦。

大将として日野衆からは日野孫左衛門蜂塚入道の名が見える。(雲陽軍実記 銀山兵糧断 付尼子大勢出馬之事)

蜂塚入道についての詳細は不詳だが、この頃の当主であった蜂塚義光か名代を受けた一族の者、或いは入道を号することから家督を譲り隠居していた先代の蜂塚丹波守などが同一人物として推測される。

 

1560年(永禄3年)12月、尼子晴久が没する。

尼子氏は1561年(永禄4年)から毛利氏と和睦(雲芸和議)を結ぶが翌年の1562年(永禄5年)、毛利氏によって破棄されている。

石見銀山の争奪戦から雲芸和議へと続く混乱により尼子家の有力な家臣であった本城常光が毛利方へ寝返ると、石見国や出雲国の国人衆も相次で尼子方を離反する事態となった。

尼子氏の衰退を聞き及んだ伯耆国の国人衆も次々と毛利方へ離反する中、四代当主であった蜂塚義光は不本意な決断としながらも毛利方へと降伏、一族も恭順している。

 

1562年(永禄5年)11月、毛利方に降った尼子方の旧臣、本城常光ら一族が殺害される。

先般、尼子方から寝返った伯耆国の国人衆の多くも再び毛利方を離れ尼子方へと与しており、蜂塚義光も同調し尼子方へ帰参している。

 

1563年(永禄6年)7月3日、毛利方の領有する伯耆国河岡城を尼子方の軍勢が襲撃した際、蜂塚義光が率いる部隊が毛利方の増援に対して妨害を行なったとされる。

この時、毛利方の増援部隊に日野山名氏の当主であった伯耆国生山城の城主、山名藤幸が参加しており、戦場での会敵による接触が後の「日野(衆)の逆心」へ繋がったとも推測される。

 

森脇覚書や三吉鼓家文書では1564年(永禄7年)、陰徳太平記や伯耆民談記では1565年(永禄8年)、伯耆国江美城攻略のため、8月朔日に毛利方の杉原盛重山田満重二宮杢介森脇右衛門尉らが兵3,000騎を以って美保関から出航するが、荒天に阻まれ計画通りの渡海ができず、一部の船団は出雲国の福良や伯耆国の外江の港で四日間停留し、破損した舟の修復などを行っている。

雲陽軍実記では漂着先を福良山と記しており、伯耆国の外江の他、出雲国側へ流された船団もあったことが判る。

同年8月5日の夜半、毛利方の山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛らの部隊により蜂塚義光の居館へ放火が行われているが、守備隊は既に詰城へ移動した後であり、双方に人的な被害はなかったようである。

同年8月6日、毛利方は江美城の支城であった銀杏ノ段兎丸を制圧し、江美城本丸への総攻撃を開始。

同年8月8日、蜂塚義光江美城の本丸にて自刃、落城とある。

自刃の際、最後まで付き従った70余名の助命を求めるも降伏は叶わず全員殺害されている。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

 

江美十七夜物語では陰徳太平記を基にした物語や脚色が追加されている。

江美城の攻略戦では毛利方の総大将であった杉原盛重天狗岳付近に本陣を構え江美城に相対したこと、屋葺四郎兵衛が日野川沿いに長大な陣を敷くなど主要な武将の働きの他、蜂塚義光の妻、お市の方の武勇などが付け加えられている。(江美十七夜物語)

 

お市の方と子ども達は落城の際、東の間道(隠し通路)を使い大山寺領へ逃亡を図るが市ヶ坂付近で発見され殺害、一族は滅亡したとする。

一説に末子(庶子)は難を逃れ、後に子孫が吉川氏に仕えたとも云われている。(江府町史)

地元には庶子の一族を称する家があり、名字を変え現在も存続としている。

上 へ

戻 る