よみがな
人物名
あんこくじ そごん
安国寺 祖権
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
名
不詳
通称
不詳
諱
不詳
官途
不詳
別名
蜂塚入道(はちつか にゅうどう)…雲陽軍実記に登場し、同一人物の可能性も考えられる。
所属
尼子
蜂塚
列 伝
伯耆国大寺村に所在した萬壽山安国寺の僧。伯耆国江美城の城主、蜂塚義光の内縁の甥と伝える。
伯耆民談記(安国寺の条)では安国寺の所在地を当時の会見郷大寺旧跡(会見郡大寺村、現在の岸本町大殿の福樹寺周辺)としている。
1558年~1562年(永禄元年~永禄5年)頃、 石見国の石見銀山を巡る尼子氏と毛利氏の争いに於いて尼子方の援軍に参戦した大将のひとりと伝える「蜂塚入道」が同一人物とする可能性も考えられる。(雲陽軍実記 銀山兵糧断 付尼子大勢出馬之事)
伯耆志 大寺村の条
往古当地に萬壽山安国寺と号する大伽藍あり。本堂十二間、四面所領三千石にて四十二の属坊ありといえり。(米子安国寺縁起に六十坊とす)
足利尊氏の草創と云い伝う村名是に因れるものなり。(委曲米子安国寺の下に記す)
伝えて曰く永禄八年(年紀陰徳太平記に據る)尾高城主杉原盛重、日野郡江美城を攻むる時、当寺の祖権といえる僧、敵に与力し大に杉原勢を困ましむ。盛重怒て諸院を焼払う。(米子安国寺縁起是に齟齬す)
其後久米郡定光寺の僧、瑞翁此地に小庵を建て焼け残れる薬師仏を安置せしか遂に米子に移て寺名を存すといえり。今、田土の字の経文鐘撞免(きょうもんかなつき)など云うあり。又、八幡村境内に経塚あり。坂中村普門寺は当時の奥院なりしと云えり。(略)
伯耆志 萬壽山安国寺の条
(略)永禄中、尼子氏の敗将安国寺に籠る。尾高城主杉原盛重、是を囲む。寺中祖権と云う僧、勇猛にして防て盛重を苦ましむ。盛重怒て火を放ち伽藍一時に灰塵となる。(大寺村土人の口碑いささか乗けり)後、博労町の南方田中に彼の本尊を得たり。(略)
伯耆民談記には「猛勇力早業万人に勝れり荒法師あり」と万夫不当の豪傑であったことが記されている。
1564年(永禄7年)8月、江美城攻略に向け進軍中であった杉原盛重が安国寺付近を通過しようとした際には「そのまま通すは勇なし」と長刀を携え、仲間の僧を引き連れ安国寺から山上へと登り、木石を落とすなどして毛利軍の進軍に対して妨害を行っている。
妨害に対して杉原盛重の部将らは速やかに僧共々仏閣を焼き払わんと火攻めの準備をするが杉原盛重は大事の前の小事として江美城への進軍を優先させている。
同年同月6日或いは8日、蜂塚義光の自刃を以て江美城が落城する。
伯耆志では尼子方の敗将が安国寺へ立て籠もったとしている。
進軍を優先する杉原盛重の部隊を追撃したが、江美城が落城すると安国寺へと戻り再び抵抗したものと推測される。
杉原盛重は江美城を攻略すると城番を置き、速やかに本拠地の伯耆国尾高城へと帰陣するが、帰路の道中に安国寺を攻撃している。
安国寺へと戻り毛利軍の攻撃に対して奮戦するが、搦め手であった西側の檜林から火をかけられ仏閣が焼かれると本尊と和尚を背負い煙の中を駆け出し八幡の上まで遁れている。
江美城の攻略前に足止めを喰ったことを恨みに持つ杉原方の部将の執拗な追撃を受けると和尚を安全な場所へと隠し、本尊を背負いながら応戦と撤退を繰り返したとある。
杉原方の追撃は続き、最終的に米子まで逃げ延びる形となり、博労町南方の畑中に本尊を捨て置いた後は行方知れずとしている。
山中に隠れていた和尚は殺害されたとしているが、伯耆志では安国寺の和尚は登場しない。(伯耆民談記 安国寺の条)