所 属
尼子
蜂塚
よみがな
人物名
あんこくじ そごん
安国寺 祖権
別 名
はちつか にゅうどう
蜂塚入道
雲陽軍実記に登場し同一人物の可能性が考えられる
官 途
不詳
出身地
伯耆国日野郡
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
1564年9月6日or1565年8月26日(永禄7年8月1日or永禄8年8月1日)※
毛利本隊の杉原盛重、本隊増援の山田満重、吉川増援の二宮杢介、森脇右衛門尉ら兵3,000騎を率いて江美城を目指していたが、美保関を出航した吉川増援は荒天(暴風雨)に阻まれ計画通りの渡海が行えず、無理な渡海により多くの人的、物的損害を出した上で出雲国福良港や伯耆国外江港などへと流されている。
退避した船団は破損した船舶の修理などで4日間程の足止めを受けている。(陰徳太平記、伯耆民諺記)
雲陽軍実記では出雲国の漂着先を福良山と記しており、伯耆国外江の他に出雲国側へ流された船団があったことを記している。
和譯出雲私史 巻之五 尼子氏上 義久の条
1564年9月10日or1565年8月30日(永禄7年8月5日or永禄8年8月5日)※
舟の修理を終えた吉川方の船団が再度出航する。
同日夜半、戦場へ到着した吉川方の部将、山縣四郎右衛門、屋葺四郎兵衛らの夜襲により居館へ火が放たれるが、既に味方の将兵と共に詰城へと移動した後で人的な被害はなかったとしている。
出雲私史ではこの日に杉原盛重らが総攻撃を開始し、即日の内に討死したように記されている。
1564年9月11日or1565年8月31日(永禄7年8月6日or永禄8年8月6日)※
毛利方本隊の杉原盛重、山田満重、吉川方増援部隊の今田上野介、二宮木工助、森脇右衛門尉ら総勢3,000騎を以って蜂塚義光の立て籠もる当城本丸への総攻撃を開始する。
日野川岸や城下に布陣していた吉川方の増援部隊は銀杏ノ段と兎丸を占拠し、左右の山上から射撃、銃撃を行い蜂塚方の将兵の逃亡を許さず主郭へと押し留めている。
伯耆民談記では攻撃開始から同日のうちに落城し、蜂塚義光も即日自刃としている。
1564年9月13日or1565年9月2日(永禄7年8月8日or永禄8年8月8日) ※
江美城の本丸にて自刃、落城とある。
自刃の際、最後まで付き従った70余名の助命を求めるも降伏は叶わず全員殺害されたと記される。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))
森脇覚書や三吉鼓家文書などの書状では1564年(永禄7年)、陰徳太平記や伯耆民談記の軍記物や地誌では1565年(永禄8年)の出来事としている。
※文書(三吉鼓家文書、日野文書など)では永禄7年(1564年)、軍記物(陰徳太平記、雲陽軍実記など)では永禄8年(1565年)の出来事としている。
伯耆国大寺村に所在した萬壽山安国寺の僧。
伯耆国江美城の城主、蜂塚義光の内縁の甥と伝え、伯耆民談記では「猛勇力早業万人に勝れり荒法師あり」と万夫不当の豪傑であったことが記されている。
雲陽軍実記 銀山兵糧断 付 尼子大勢出馬之事
(略)晴久公も最早延引難成し迚、七月十四日富田を立ち、追手は湖水に添て神門郡より押寄玉えば相従う人々に亀井能登守(略)小鴨の一族、並に日野孫右衛門、蜂塚入道、小引弾正、福瀬治部太輔(略)其外備後、備中、石見の人々一万五千餘騎、大田邊に先陣着ければ(略)
1558年8月27日(永禄元年7月14日)
石見国の石見銀山を巡る尼子氏と毛利氏の争いに於いて尼子晴久の援軍として伯耆国より参戦した大将のひとりとする蜂塚入道は同一人物である可能性が推測される。(雲陽軍実記 銀山兵糧断 付 尼子大勢出馬之事)
伯耆志 大寺村の条
往古当地に萬壽山安国寺と号する大伽藍あり。本堂十二間、四面所領三千石にて四十二の属坊ありといえり。(米子安国寺縁起に六十坊とす)
足利尊氏の草創と云い伝う村名是に因れるものなり。(委曲米子安国寺の下に記す)
伝えて曰く永禄八年(年紀陰徳太平記に據る)尾高城主杉原盛重、日野郡江美城を攻むる時、当寺の祖権といえる僧、敵に与力し大に杉原勢を困ましむ。盛重怒て諸院を焼払う。(米子安国寺縁起是に齟齬す)
其後久米郡定光寺の僧、瑞翁此地に小庵を建て焼け残れる薬師仏を安置せしか遂に米子に移て寺名を存すといえり。今、田土の字の経文鐘撞免(きょうもんかなつき)など云うあり。又、八幡村境内に経塚あり。坂中村普門寺は当時の奥院なりしと云えり。(略)
伯耆志 萬壽山安国寺の条
(略)永禄中、尼子氏の敗将安国寺に籠る。尾高城主杉原盛重、是を囲む。寺中祖権と云う僧、勇猛にして防て盛重を苦ましむ。盛重怒て火を放ち伽藍一時に灰塵となる。(大寺村土人の口碑いささか乗けり)後、博労町の南方田中に彼の本尊を得たり。(略)
1564年8月(永禄7年8月)或いは1565年8月(永禄8年8月)※
毛利方による江美城の攻略戦では江尾に向け進軍中であった杉原盛重が安国寺付近を通過しようとした際、「そのまま通すは勇なし」と長刀を携え、仲間の僧を引き連れ安国寺から山上へと登り、木石を落とすなどして毛利軍の進軍に対して妨害を行っている。
妨害に対して杉原盛重の部将らは速やかに僧共々仏閣を焼き払わんと火攻めの準備をするが杉原盛重は大事の前の小事として江美城への進軍を優先させている。(伯耆民談記)
同年同月6日或いは8日、蜂塚義光の自刃を以て江美城が落城する。
伯耆志では江美城の落城後は尼子方の敗将が安国寺へ立て籠もったとし、伯耆民談記(安国寺の条)では安国寺の所在地を当時の会見郷大寺旧跡(会見郡大寺村、現在の岸本町大殿の福樹寺周辺)としている。
進軍を優先する杉原盛重の部隊を追撃したが、江美城が落城したため安国寺へと戻り再び抵抗したものと推測される。
杉原盛重は江美城の攻略後は城番を置き、速やかに本拠地の伯耆国尾高城へと帰陣するが、帰路の道中に安国寺は攻撃を受けている。
安国寺へと戻り毛利軍の攻撃に対して奮戦するが、搦め手であった西側の檜林から火をかけられ仏閣が焼かれると本尊と和尚を背負い煙の中を駆け出し八幡の上まで遁れている。
江美城の攻略前、足止めを喰ったことに恨みに持った杉原方の部将の執拗な追撃を受けると和尚を安全な場所へと隠し、本尊を背負いながら応戦と撤退を繰り返したとある。
杉原方の追撃は続き最終的に米子まで逃げ延びる形となり、博労町南方の畑中に本尊を捨て置いた後は行方知れずとしている。
伯耆志では安国寺の和尚は登場しないが、伯耆民談記では山中に隠れていた和尚は殺害されたとしている。(伯耆民談記 安国寺の条)