武将列伝帖

ふくより さえもんのじょう もとひで

福頼左衛門尉元秀

【氏】菅原【姓】朝臣【名】福頼【通称】左衛門尉【諱】元秀

別 名

村上新二郎 / 村上新次郎(むらかみ しんじろう)

村上遠江守(むらかみ とうとうみのかみ)

村上左衛門督(むらかみ さえもんのかみ)

出 身

不明

官 途

遠江守、左衛門尉、左衛門督、治部大輔、民部大輔、次郎大輔、兵衛尉

所 属

但馬山名氏⇒伯耆山名氏⇒大内氏⇒尼子氏⇒毛利氏⇒吉川氏

生 年

不明

没 年

不明 ※一説には1585年7月(天正13年)

 

- 列 伝 -

伯耆山名氏に仕えた国人衆(伯州衆)、福頼氏の一族。 村上家時を父とする。

 

伯耆志 宮本氏の条

(略)家時の子、元秀、村上新二郎と号し後、遠江守と改む。因伯の間に来り但馬の山名氏に属す後、大内氏に従い、又、毛利氏に属す。汗入郡香原山城に在りて度々戦功あり。(陰徳太平記に見えたり)その頃は福頼を姓とす彼、山下の村名によれるなり。元亀二年、米子城に在りて尼子氏の兵と戦う。(城の伝に記す。陰徳太平記に治部太輔とし家譜に左衛門とす)元秀の二男、吉蔵三助と云う。毛利氏に従いて朝鮮蔚山の合戦に功あり。下に挙く太閤感状連名の中に見えたり後、故有りて備後国小奴可郷宮本と云う地に居る。因て姓を宮本とす。又、後日日野郡俣野村に来る。彼村に其墟あり。(略)

 

伯耆志の宮本氏の条では父、村上家時の兄弟に柳生宗矩があったとしているが真偽は不明。

幾度も改名を行っており、新二郎、或いは遠江守を名乗った頃に但馬山名氏へと属し、因幡、伯耆へ土着したとある。(伯耆志)

 

1524年(大永4年)、尼子氏による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)では三輪神社を通過し東進する尼子経久の軍勢の前に立ち塞がり進軍を阻害している。(三輪神社沿革誌)

 

1558年(永禄元年)、尼子方の石見国温湯城を毛利方の吉川元春が攻撃した合戦では尼子方の援軍の将(福頼左衛門)として登場するが、江ノ川を渡ることができず早々に引き上げたため救援に失敗している。

このため、温湯城に拠った小笠原長雄は翌年に毛利方へと降伏している。

大永の五月崩れでは尼子方へ従わず国外へ退去した一族、尼子方へ恭順し国内へ残った一族の双方があり、この戦で尼子方の援軍として登場する武将は出雲国を拠点にした同名の別人と考えられる。

毛利方へ与した時期、経緯は不明だが尼子氏滅亡の前後が推測され、伯耆国から尼子氏が駆逐され、南条氏の退去後は伯耆旗頭に任じられている。

 

1571年(元亀2年)7月、伯耆国米子城飯山城)の城下に於ける尼子残党との戦闘では防衛戦の指揮を采り、夜陰に紛れ城下へと侵入した羽倉元蔭率いる部隊の焼討を阻止するため手勢200騎余りを率いて出陣するが敵わず城内へと退却し、籠城戦に切り替えた後は門を固く閉ざして一切出撃しなかった。(伯耆民談記、陰徳太平記 巻四十八 羽倉元蔭戦死之事、雲陽軍実記 羽倉孫兵衛米子合戦討死并秋山反心之事)

この戦で羽倉元蔭に討たれたとする説も一部に見られるが、同説は米子城飯山城)の城番が福原元秀とする場合に限り、福原元秀の戦死後、伯耆国戸上城から米子城飯山城)の城番へ任じられたとする流れが自然と推測される。

戸上城の城主としては「福頼次郎民部大輔元秀」とする記述が見える。

 

1573年(天正元年)には吉川元長に従い西伯耆での対尼子残党戦に軍役とあり、以降は吉川氏の部将とされる。

 

元亀年間(1570年~1573年)の尼子再興戦では国信神社縁起に「毛利氏麾下福頼左衛門尉」とあり、伯耆国末吉城の戦いでは尼子残党を率いた山中幸盛に敗れている。(国信神社縁起)

但し、縁起の記述には戦闘を天正年間中期~末期の出来事としており、尼子再興戦の起こった時期(遅くとも天正元年)と合致しない。

このため時期を合わせるのであれば「天正年間中期~末期」ではなく「天正元年中頃~末頃」の書き間違いと解釈すると整合性が取れる。

末吉城での出来事を優先するなら「元年」を「年間」とした単純な記述間違いが考えられ、「天正年間中期~末期」を優先するのであれば伯耆国内最後の大規模戦闘、伯耆国香原山城の戦いとの関連を示すと考えられる。

香原山城の戦いであれば敵方の行松二郎四郎(南条方)が山中幸盛(尼子方)に置き換わっており、改変や脚色が成された物語とも考えられることから信憑性が格段に低くなる。

「毛利氏麾下福頼左衛門尉」を地理的な部分を優先し推察すると伯耆国富長城の城主とされる福頼左右衛門尉村上新三郎、毛利麾下を優先するのであれば本人や香原山城の城番、福頼藤兵衛を示すとも考えられる。

 

1580年(天正8年)、吉川元春から東伯耆1,400石を与えられている。(萩藩閥閲録)

1,400石の内訳として、

同年6月12日の文書では久米郡下津和300石、同小原300石、同関250石、同やくり250石。

同年7月10日の文書では久米郡北条200石、同八分100石。

宮本家文書では久米郡に1,700石の知行とある。(宮本家文書 毛利輝元 吉川元春 感状)

 

1581年(天正9年)まで米子城飯山城)の城番を務めたとされるが在番期間には諸説が存在する。

・伯耆民談記では1569年(永禄12年)まで。

・尼子残党の将、羽倉元蔭に討たれる説では1571年(元亀2年)まで。

吉川元春に従い尼子残党の拠る播磨国上月城攻略のため、後任に古曳吉種が城番に任じられる説では1577年(天正5年)まで。

 

1583年(天正11年)、伯耆国羽衣石城の城主、南条元続が伯耆国八橋城の回復を図った際は横道春重末次元康井上春佳らと共に迎撃し南条軍を退けていることから、吉川元春より1,400石の知行を受けた後は東伯耆に移っていたことが伺える。

 

1585年(天正13年)7月、西伯耆に駐屯していた毛利方の軍勢が四国征伐のため手薄になった隙を狙い、行松氏の正当な後継者を称する行松二郎四郎が手勢千騎余りを率いて汗入郡へ侵入した際には香原山城に立て籠っている。(城主を福頼藤兵衛とする説あり)

行松二郎四郎の率いる千騎に対し僅か百騎で抗戦を試みるが劣勢を覆すには至らず、僅か1日すら戦線を保つことができないと悟ると城に火を放ち落ち延び、備中方面の毛利本隊へ援軍を要請している。

香原山城を奪った行松二郎四郎は伯耆国尾高城へ向かわず駐屯していたが、毛利元康を大将とする増援に牛尾春重吉田元重らの加勢もあり、数日のうちに毛利方が回復、この戦が西伯耆で行われた最後の大規模な戦闘であったと伝えられている。

 

伯耆志 宮本氏の条(毛利輝元感状(写))

今度河原山之儀旁御馳走故任存分大慶此事候 御粉骨之次第無申許候 猶元康へ令申候 間不能一二候 恐々謹言 七月廿二日 右馬頭輝元(判) 福頼左衛門殿 御陣所

 

伯耆志 宮本氏の条(吉川元春感状(写))

河原山之儀頓被仕崩候 段旁御本望不可過之候 爰元之儀御同前候 誠今度別而御短束候 敵早々落去候 御粉骨不浅井候 自是可申述候 恐々謹言 七月廿三日 駿河守元春(花押) 福頼左衛門殿

 

香原山城の合戦で行松二郎四郎の軍勢を退けたことに対し毛利輝元吉川元春より感状を賜っている。(伯耆志)

伯耆志に所収される感状の写しに対する註釈では合戦の詳細を不詳とし、敵方を南条氏ではなく尼子氏としている。

地元郷土史(汗入史綱など)では撤退までの戦闘の経過として、付近の牢人衆が南条方に与した上に兵糧も尽きたため進退極まったためとしている。

また、撤退中に追撃を受けた福頼藤兵衛は山中で射殺され、戦死したとする場所を福頼塚(トーベー塚)としている。

毛利本隊へ援軍を要請する場面も撤退先が尾高城になるなど諸説が存在する。

また、地元郷土史(淀江町誌など)では香原山城の戦いが伯耆国北尾城での出来事としている。

先の羽倉元蔭による米子城飯山城)への夜襲と同様に、香原山城の戦いでも福頼藤兵衛ではなく本人の死亡説が存在する。

 

吉川元長が病没する直前、吉川家の家督を相続する吉川広家に忠誠を誓う起請文に出雲の国人として連署に名を連ねている。

吉川元長が没したのは1587年7月10日(天正15年6月5日)とされることから1580年(天正8年)に東伯耆1,400石を与えられた後、数年で出雲国へ異動したこととなる。(伯耆志、萩藩閥閲録)

 

伯耆志 宮本氏の条(毛利輝元感状)

今度蔚山籠城初中後御苦労之通慥聞届候 誠御粉骨之至無比無類候 愈御心懸肝要候 猶児玉若狭守可申也 正月廿八日 輝元(判) 福頼左衛門殿

 

1598年(慶長3年)、朝鮮出兵には二男の福頼吉蔵と共に渡海し蔚山の戦いで戦功を挙げていることが感状に見える。(伯耆志)

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