よみがな
人物名
むらかみ しんざぶろう
村上新三郎
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
菅原
姓
朝臣
名
村上
通称
新三郎
諱
不詳
官途
不詳
別名
福頼新三郎(ふくより しんざぶろう)
所属
毛利
列 伝
出自は福頼氏と同じく伯耆山名氏に仕えた伯州衆の村上氏とされ、伯耆国汗入郡留長村(富長村)へと出張し、居住したと伝わる。
福頼元秀の名代として富長村へ駐在し、周辺を治めたとするなら伯耆国富長城の城主とされる福頼左右衛門は同一人物とも推測される。
伯耆志 宮本氏の条(毛利元就 書状(写))
御方の儀 従島根表御執退之由二候 尤可然存候殊敵壹人被討果之通誠二粉骨之至無比無類候 此方之儀御親子不相替可申談候 不可有余暇候 彌御馳走肝要候 猶従輝元所可申候 條不能詳候 恐々謹言 六月九日 元就(判) 福頼新三郎殿 御返報
伯耆志 宮本氏の条(小早川隆景書状(写))
今度新三郎殿 従島根就御取退之儀至吉田御両使被差下候 無事御帰郷尤肝要之由被申候 不相替前々諸事不可有疎意通被用一通候 猶我等大慶候 彌勇以御馳走肝要候 恐々謹言 五月十七日 隆景(花押) 福頼左京亮殿 高田八郎左衛門殿 福頼三郎左衛門殿 同四郎次郎殿 御宿以 裏書 小早川
後に福頼元秀と共に伯耆国から出雲国、安芸国吉田へと移り、最終的に出雲国へと再び移り居を構えたとしている。