武将列伝帖

ふくより さえもんのじょう

福頼左右衛門尉

【氏】村上【姓】不明【名】福頼【通称】左右衛門尉【諱】不明

別 名

福頼左衛門(ふくより さえもん)

出 身

不明

官 途

左衛門尉、右衛門尉

所 属

尼子氏⇒毛利氏、吉川氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

伯耆山名氏に仕えた国人衆(伯州衆)、福頼氏の一族で伯耆国富長城、伯耆末吉城の城主。

福頼沙弥を祖とする汗入郡宇多河荘福頼周辺に拠った勢力と推定される。

大山町国信の地名に「左右衛門屋敷」という字名が残っていること、富長城の城主であり富長村を治めたとする人物であれば福頼元秀の六男、村上新三郎は同一人物とも考えられる。

 

1524年(大永4年)、大永の五月崩れによって富長城が落城。

一族は尼子氏へ恭順する一派と尼子氏に反発し但馬、美作など国外へと退去する一派に分かれたが、後者は後に毛利氏へと与して尼子方と戦っている。

 

元亀年間(1570年~1573年)、尼子再興戦では毛利方に与し末吉城に籠って山中幸盛ら率いる尼子残党と対峙。

籠城戦で対抗するも尼子残党の攻撃を受け末吉城は落城している。(国信神社縁起)

国信神社社伝では福頼左衛門尉と記述され、末吉城に籠もったのは山中幸盛とし、逆に籠城する尼子残党を攻撃したとしている。

尼子残党の攻撃によって末吉城が落城した後は国延村と併せて尼子再興軍の陣城として接収されている。

国延村を囲むように防柵や土塁、空堀が急造され、大山方面からの敵襲に備える防衛拠点へと改修されたことが国信神社縁起に記述されている。

但し、縁起では天正年間中期~末期の出来事とされており、山中幸盛の尼子再興戦で末吉城が登場するのは元亀年間であることから縁起は後世の創作とする可能性が考えられる。

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