武将列伝帖

ふくより し

福頼氏 / 福願氏 / 福良氏

【氏】菅原【姓】朝臣【名】福頼

別 名

村上氏(むらかみ し)

柳生氏(やぎゅう し)

宮本氏(みやもと し)

出 身

島根県出雲市佐田町大呂(旧:福頼)

鳥取県米子市淀江町福頼(宇多河荘福頼)

鳥取県西伯郡南部町福頼

所 属

但馬山名氏⇒伯耆山名氏⇒大内氏⇒尼子氏⇒毛利氏⇒吉川氏

 

- 列 伝 -

島根県出雲市佐田町大呂(旧:福頼)を発祥の地とする一族。

記録には鎌倉時代から地名に見える。

 

伯耆国内では現在の西伯郡南部町と米子市淀江町に福頼の地名が残ることから、出雲国(島根県東部)からの移動ルートは以下が推測される。

・陸路で出雲国(島根県)→(島根県安来市伯太町東母里福寄)→鳥取県西伯郡南部町福頼→鳥取県米子市淀江町福頼

・海路で出雲国(島根県)→鳥取県米子市淀江町福頼→鳥取県西伯郡南部町福頼

 

日本姓氏語源辞典では鳥取県米子市久米町で1571年(元亀2年)に記録が見え、鳥取県米子市淀江町福頼を経由地としている。

鳥取県西伯郡南部町福頼が1815年(文化12年)に経乗院から改称した地名とすることから淀江の方が古いと推定する海路説が考えられる。

補足に島根県安来市伯太町東母里福寄は記録時代不詳の地名とされる。(日本姓氏語源辞典:【福頼】名字の由来と語源)

 

伯耆国の同氏の祖として大山雑考に福頼上野守の記述が見える。

福頼上野守は伯耆国の守護職、山名氏之の被官とされ、一族は伯耆山名氏に仕えた国人衆(伯州衆)の中でも最高位の小鴨氏行松氏などと同格の待遇で扱われており、一段格下として淀江氏野津氏村上氏を挙げている。(大舘常興書礼抄 ※記述は福願氏となっている)

福頼上野守は宇多河荘福頼の城主ともあり、伯耆国福頼城、伯耆国富繁城が所在した宇田川村福頼周辺を拠点としている。

一族は汗入郡から会見郡の一部にまで勢力を伸ばすが、1524年(大永4年)、大永の五月崩れと呼ばれる尼子氏の侵攻を受け一時衰退する。

後に毛利氏へと与して各地で活躍している。

 

伯耆国内で活躍した一族には以下の人物が見える。

福頼元秀…伯耆国米子城飯山城)の城番。羽倉元蔭の襲撃から米子城を堅持した功で吉川元春から東伯耆1,400石を賜る。

福頼孝興…雲陽軍実記における米子城飯山城)の城番。記述内容から福頼元秀と同一人物。

福頼左右衛門…伯耆国富長城の城主。伯耆国末吉城の戦いでは山中幸盛と交戦。地名に「左右衛門屋敷」の字名が残る。

福頼藤兵衛…伯耆国香原山城(或いは伯耆国北尾城)の城主。福頼元秀の部将とされ香原山城の戦いで戦死。

上記の他に「福頼左衛門尉」として伯耆国、出雲国の各地で60年以上に渡って活躍を記述される人物も見えるが、全てが同一人物ではなく一族で官途の重複や同じ受領名を名乗った別人と考えられ、毛利家の発給文書では「村上」となっている。

 

一族の動向については伯耆山名氏配下の有力国人衆(伯州衆)から伯耆山名氏の衰退による尼子氏への従属、尼子氏の衰退によって毛利氏へと与した後に吉川氏へ仕えたとする一方、伯耆山名氏の勢力が衰退しても尼子氏へは降らず但馬・美作など国外へ退去した後、毛利氏へ与したとする経緯も見える。

 

1764年(明和元年)に記された「伯路紀草稿」では淀江の天神垣神社に祀られていた石馬を「福頼左衛門尉の乗馬した愛馬」とする伝説が紹介される他、戦の際に敵兵の馬を多く殺めたことから供養するため大明神として祀った、また、殺めた馬の呪いを恐れ魔除けとする伝説など諸説残っている。

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