武将列伝帖
ふくより じろうたいふ たかおき
福頼次郎大輔孝興
【氏】不明【姓】不明【名】福頼【通称】次郎大輔【諱】孝興
別 名
福頼治部少輔孝興(ふくより じぶのしょう たかおき)
出 身
不明
官 途
次郎大輔、治部少輔
所 属
吉川氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
登場する時期、内容の記述が福頼元秀と一致するため同一人物と考えられる。
1571年(元亀2年)7月、米子・尾高の両城下を襲撃した尼子残党との戦に於いて、羽倉元蔭が米子城(飯山城)の城主を討ち漏らしたことは無念であるとする描写が見えることから、この戦では城番の福頼氏(福頼元秀)は討たれなかったこととなる。(雲陽軍実記)
雲陽軍實記 後版(島根郷土資料刊行会:昭和48年4月)では概ね上記通り、尼子毛利合戦雲陽軍実記(株式会社新人物往来社:昭和53年12月)では「福頼治部少輔孝興」とし「焼討に対して詮方なく城に入り門を閉じて出合はず」としている。