所 属
尼子
▶
毛利
よみがな
人物名
うしお おおくらさえもん はるしげ
牛尾大蔵左衛門春重
別 名
のむら おおくら さえもん
野村大蔵左衛門
陰徳太平記
別 名
なかさわ おおくら さえもん
中沢大蔵左衛門
金峯山弘安寺過去帳
幼 名
のむら たろう
野村太郎
陰徳太平記での幼名
通 称
うしお おおくら
牛尾大蔵
官途に因む通称
官 途
左衛門尉、大蔵(官職不詳)
出身地
不詳(出雲国大原郡牛尾荘か)
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
春重
列 伝
毛利方の城将として出雲国平田手崎城、出雲国高平城、因幡国若佐ノ鬼之城、因幡国鳥取城、伯耆国泉山城などに在番した人物。
陰徳太平記では幼名を太郎、阿曽沼氏の家臣であった野村某の嫡男とし、母は高倉局の姪で伴家の娘としている。
高倉局は養母であったが後に牛尾豊前守との婚姻から牛尾豊前守の養子となり嫡男の扱いを受ける。
陰徳太平記 巻第三十八 富田城下三箇所合戦之事
輝元は兎角急に富田城へ押寄、初陣に武功を建ばやと頼りに元就へ訴え給えける間、元就さらば今一度富田城下麦薙の働有るべしと諸侍に触伝給。日限は同四月十七日と定めらる。(略)先尾小森口へは元就并に輝元の旗本馳向う。(略)尼子義久四千餘にて打出、吾身は山上に扣えて牛尾豊前守(略)等を尾小森口より出し。
1565年5月16日(永禄8年4月17日)
毛利輝元を大将に尼子方の立て籠もる出雲国月山富田城への総攻撃が始まる。
尾小森口(御子守口)から攻め寄せる毛利輝元の部隊に対し、尼子方の尼子義久は山上に布陣し4,000騎を以て相対しており、牛尾豊前守が部将のひとりに見える。(陰徳太平記、雲陽軍実記)
陰徳太平記 巻第三十八 富田退口合戦之事
同月二十八日、元就朝臣富田表を引払い洗合へ打入給。
1565年5月27日(永禄8年4月28日)
毛利方の軍勢が出雲国洗合城へと撤退する。
陰徳太平記 巻第四十 牛尾豊前守降参之事
(略)渠が妻の野村の某、敵の為に打れし時、嫡子大蔵左衛門、其時は太郎にて未だ三歳也しを郎党の仁田又兵衛、背に負い田中の溝に隠れ夫より紛れ出たりしを相具して伯母なりし高倉局の許に居けるが豊前守に嫁してけり。此女熟しと思けるは此では尼子家滅亡して豊前守、大蔵左衛門も敵の為に討たれぬべし如不。元就へ降参を乞い夫の一命を助け、今宗領遠江守が所領の牛尾七百貫観賞に申賜らん。然らば牛尾の家断絶せずして吾子の大蔵左衛門は立身すべし。
雲陽軍実記 尼子家臣降毛利 并 宇山飛騨守中井駿河守被讒事
去頃、富田城内軍士共、兵糧日々に乏敷成るに随い、心細く思いにける故、毛利へ降参に出る者多し中にも牛尾豊前守は妻女の勧めにて伯父遠江守が所領、牛尾七百貫の地を給りなば御味方に参可と申入ける。
毛利方の軍勢が洗合城へと撤退の前後、牛尾豊前守は妻、高倉局の説得を受け毛利方へと降伏する。
陰徳太平記 巻第四十七 雲州三笠城没落の事
出雲国牛尾の高平の城主、牛尾豊前守は去年より作州益形の城番として馳上り、跡には女房並に養子、大蔵左衛門ぞ籠り居ける。茲因、牛尾弾正忠其虚に乗て攻取んと思い、山中鹿ノ助に加勢を乞うて元亀元年三月上旬に押寄せ攻め動す。大蔵左衛門は幼少也と雖も勇猛第一の器なれば敵の多勢にも些も臆せず身命を軽んじて防戦す。豊前守が女房は武田刑部少輔信実が妹にして元繁の外孫なれば心至剛に古の葵巴など云つべき者なる故、諸軍士に下知して堅固に城を抱えける間、弾正忠終に之を陥得ず。頓て三笠の城を補修して楯籠り、隙間を伺いて攻取んと日毎に足軽を係て迫合けり。
同四月十五日、毛利輝元、吉川元春父子、小早川隆景、三笠城の山見せんとて打出て給う。爰元春の家臣、今田中務少輔経忠は此程巳が在處に在り、香川兵部太輔春継は防州徳地に居て共に布辨合戦に逢不ける事を無念に思いければ両人士卒共三百許り引具して同十六日、三笠の城三の郭の固屋を落さんと打出たり。(略)其後、此城へは牛尾豊前守移りて籠り居けるに(略)
雲陽軍実記 三笠城合戦 并 放火落城牛尾弾正忠戦死事
牛尾高平城主豊前守は作州枡形城番として去年差上られ、妻子并幼稚の養子、大蔵左衛門留守居して有りけるに牛尾弾正忠其虚に乗じて山中鹿之助が加勢を受け、元亀元年三月上旬に押寄攻動す。彼の妻女は武田刑部少輔信実が妹にて男勝の豪勇剣術者にて今巴と異名せし程の女なれば終に攻落す事不能。頓て三笠城を取立補修して楯籠り、隙間を伺い攻め取んとす。元春の家臣、今田中務少輔経忠、香川兵部大夫春綱、三百人計にて四月十六日三笠城へ押し寄せる。(略)其後、牛尾豊後守を作州より呼下し、三笠城へ入置ぬ。
1570年(永禄13年/元亀元年3月上旬)
牛尾豊前守の留守中は伯母の高倉局と共に出雲国高平城に在城する。
陰徳太平記では幼くとも勇猛な人物としており、この頃より戦場での活躍が描かれる。
尼子再興軍の援助を受けた牛尾弾正忠の攻撃を受けるが高倉局の指揮により堅守し、牛尾弾正忠は出雲国三笠城を接収して相対する。
1570年5月19日(永禄13年/元亀元年4月15日)
毛利輝元、吉川元春、吉川元長、小早川隆景らが三笠城の偵察に赴く。
吉川元春の部将、今田経忠と香川春綱は布部山の合戦に参戦出来なかったことは無念であったとする一方、この戦で手柄を挙げるための巡り合わせとして部隊を編成している。
1570年5月20日(永禄13年/元亀元年4月16日)
毛利方の今田経忠、香川春綱が300騎を率いて三笠城に立て籠った牛尾弾正忠及び尼子再興軍を撃退する。
尼子再興軍の撤退後、作州より牛尾豊前守が呼び戻され三笠城の城主に任じられている。
陰徳太平記 巻第四十七 平田城 并 所々合戦之事
平田手崎の城へ高瀬の城より米原與一兵衛、同四郎兵衛等打出て足軽を係け追い合い度々に及びけり。城中より岡又十郎、牛尾大蔵左衛門討ち出て野伏軍して敵数多討取ければ、與一兵衛等も毎度高名し或は首を討取り帰けり。其後勝久の下知に因て(略)以下一千餘騎来て働きける所を岡、牛尾、又打て出て散々に戦いけるに杉原播磨守盛重が加勢しける故、尼子勢叶ずして引退く。
雲陽軍実記 熊野高佐城明渡 并 平田手崎城軍高瀬城兵糧之事
平田手崎城を修補して牛尾大蔵左衛門に岡又十郎を添て被差籠。七月上旬に狼が森に陣を被取けるに(略)
1570年8月頃(永禄13年/元亀元年7月上旬)
岡又十郎と出雲国平田手崎城に在番する。
尼子再興軍が度々攻め入ってくるが杉原盛重の援軍もあり何れも撃退している。
陰徳太平記 巻第四十七 山中鹿ノ助大坪甚兵衛與合戦之事
当国私部の城に大坪甚兵衛一之迚大剛の兵無二の毛利家一味にて楯籠る。之仍元春より加勢為牛尾大蔵左衛門を差籠せける間、此の城輙く攻落す事難ければ勝久も如何せんと思案に煩われける(略)
1573年(天正元年)
年末、大坪一之が立て籠もる因幡国私部城へ毛利方の援軍として在番し尼子再興軍の尼子勝久と対峙する。
度々戦闘になるが私部城を堅守している。
陰徳太平記 巻第四十七 因州私部城合戦之事
(山中鹿ノ助は)同五日、私部の城へ押寄ける。(略)甲の丸は牛尾大蔵左衛門なるべし。渠は未だ二十年許りの者なれば勇有共筋骨堅まるまじき間恐に足らず。一の城戸にて姫路をさえ討果なば易々と乗取可ぞ(略)寄手巳に甲の丸へ乗り入らんとする所に牛尾大蔵左衛門鬼神をも挫く程の兵なれば少しも怯まず弓鉄砲を揃て頼りに射出し敵数多射伏。(略)牛尾が働き勇のみに非ず。諸軍士に掟する形勢は一卒一族の将共成可器有りと諸人大に感賞す。
1574年1月27日(天正2年1月5日)
尼子再興軍の山中幸盛が私部城へと攻め寄せた際、甲の丸を守備する。
山中幸盛から歳は10~20代ながら筋骨隆々で勇猛な武将と評されたが、此度は三ノ丸を守る姫路玄蕃允を討ち取ることが戦の要であるため悪戯に接触しないよう部下に命じている。
緒戦では善戦した姫路玄蕃允も次第に押され、一の城戸、二の城戸を破られると本城へ引き籠った。
姫路玄蕃允を退けた勢いで甲の丸を目指す尼子再興軍に対して遠巻きからは弓矢と鉄砲を撃ち込み、怯んだ所に三度の突撃を敢行するなどして山中幸盛を撤退に追いやっている。
陰徳太平記 巻第五十一 牛尾山中合戦事
凶徒等退治仕可候と有しかば元春、牛尾大蔵左衛門に国方の案内知たれば急ぎ馳向て山名に戮力すべしと下知せらる。茲因、牛尾頓て二百餘騎にて鳥取へこそ上りけり。さて、牛尾、鳥取の山下にさる在家を借りて居ける所に鹿ノ助此由を聞て牛尾、城中へ入なば輙く討事を得ず。夜に紛れ討取べしとて夜討に馴れたる屈強の兵共を勝りて五百餘人、白き装束を一様にして相詞をば討と問て勝てと答え。
天正三年五月七日の夜半許に牛尾が旅宿へ鬨を咄と作り足軽五十餘人、手々に続松を燃し門外より切て入る。さて鹿ノ助等の宗徒の兵は三隊に分れて牛尾が門外の敵を防がんと切り出ん時、思も寄ず後の方又は左右より不意を撃たんと押寄する。大蔵左衛門は夜討こそ入られとて筒丸取て肩にかけ、鎗提て出ければ(略)巳下三十餘人相続て先ず門外へ突て出たり。敵は手毎に炬を燃しけれ共門内は暗かりければ牛尾が間近く切て出たるをも知ず所に手の下よりわっと喚て切て懸りける間、寄手大に驚き一度に颯と崩れたり。鹿ノ助等裏の門より切入たりけれ共、屋中の者は皆大手へ切て出で、人一人もなかりければ其儘牛尾が後を慕て切て懸る。牛尾は敵の在所何国とも知ずける故、一村茂りたる呉岳の蔭に扣えて暫しは四方を窺う所に鹿ノ助在家に火を放て光の中より五百餘人進んだるを見れば所々に群って散乱たり。牛尾今夜必至定業にして更に遁べく地に非ず。迚も死ずる命なれば鹿ノ助に逢うてこそ死せんと思い、無二無三に切て蒐る。(略)四五町許り行けるが味方に引兼たる者や有ると不審ければ取て返し備えを堅め合図の篝火を焚ける間、所々木の蔭藪原に隠れ居たる兵共皆一所に集りける程に夫より静々と若佐をさして引にけり。牛尾は敵返し来て不意を撃つ事もこそあれとて四面に篝焚せ二百餘人を面向不背の玉の如に備え、吾身は中央に在て敵何国より来る共渡合わんと其夜は懈怠の心を生ず明るを遅しと待居たり。
総じて鹿ノ助、当国へ入て後、城を落す事十三箇所なれば諸人、鬼人の様に恐怖しけるに牛尾が僅かの勢にて討勝しかば人毎に牛は鹿には勝れりと。又、大蔵をぞ恐れける。鹿ノ助城に帰て扨も今夜の夜討は仕損ずべきに非ず。然るを当国の弱敵に習て敵を思い侮り打損じける事の無念さよ。牛尾が勇は聞しには勝りぬ。哀れ味方に成さまじかば尼子の弓矢をば再興すべき物をとぞ感じける。
1575年6月15日(天正3年5月7日)
吉川元春の案内として因幡国鳥取城付近に宿営するが、鳥取城への入城を阻止するため尼子再興軍の山中幸盛により夜襲を受ける。
表門で敵方と戦うが、裏門から侵入されると挟撃を避けるため城外へと退出している。
味方は散り散りとなり茂みに隠れていたが、命を賭してでも山中幸盛の首は取ると戦場に戻り雑兵を斬り続けたが、味方が何処にも見えないことを不審に思い宿営地へ戻ると合図の篝火を焚き、防備を固めて味方を待った。
篝火を見て自陣へ戻った味方には因幡国若佐ノ鬼之城(若桜鬼ケ城)へと撤退を指示し、自身は殿として夜が明けるまで滞陣している。
山中幸盛は寡兵を侮り仕損じたことを悔やみ撤退している。
陰徳太平記 巻第四十七 私部麓合戦之事
尼子左衛門尉源勝久、山中鹿ノ助幸盛巳下因州へ乱れ入りて国中を切随え、近日伯州へ打入可と聞えければ更らば退治すべしとて吉川駿河守元春、同治部少輔元長、小早川左衛門佐隆景、同八月初旬芸州を発驚し給う(略)同八月下旬、伯耆国八橋に着にけり。山名豊国是を聞て牛尾大蔵左衛門に向て(略)「一度も敵と合戦せざる事勇無きに似たり」(略)私部邊へ一働せんと云ければ牛尾尤も宜可と同意して同廿二日、山名、牛尾一千五百餘にて私部の山下へ押し寄せ(略)牛尾是を見て手勢二百餘騎、勝誇りたる敵に無手と渡り合い火水になれど戦たりけるに城兵多也と雖も初度の合戦に備え乱れ殊に道狭き八百縄手なれば大勢一度に懸る事を得ず突崩され、一二町許りぞ引たりける。牛尾は元来無勢なれば是を勝にして軽く勢いを打入んとする所に牛尾源次郎、大蔵左衛門に先をせられしを無念に思い手の勢二三十人引く敵を追かけ深入して戦い左の肩二個所突れ、巳に討れぬべかりければ大蔵左衛門是を見て、嫡流の源次郎を目の前に討せては吾れ生きて帰る共何の詮が有らん。あれ助けよと下知して又二百餘人を一手になし、真先に進て切て蒐る。(略)大蔵左衛門踏堪えて戦いける所に敵二人馳来る。得たりと渡合せしが数度の戦に心身疲労せしかば終に戦負て後なる岸へ押詰れ巳に危く見ゆる所を金尾藤三主の行衛如何有やらんと(略)一人敵の細顎中に打落しければ今一人は引かんとするを牛尾つと馳寄て切伏せ二人ながら討取けり。金尾が助け来らずば牛尾は討るべかりしを危き命助りけり。
1575年9月(天正3年8月上旬~下旬)
尼子勝久及び尼子再興軍討伐の為、芸州より毛利方の大軍が伯耆国八橋城へと着陣する。
1575年9月26日(天正3年8月22日)
毛利方の軍勢が八橋城へ入ったと聞いた山名豊国から「未だ敵と一戦も交えていないことは臆病者の誹りを受けるのではないか?」とする相談を受け、一戦交えることに同意して1,500騎を率いて私部表へと出陣する。
戦場では寡兵で敵の大軍を足止めし、功を焦った牛尾源次郎を救出するなど活躍を見せたが、連日に及ぶ戦闘に満身創痍であったため敗戦を喫し、岸辺まで追い詰められ絶体絶命の状況を金尾藤三の救援を得て命拾いしている。
陰徳太平記 巻第五十六 上月合戦之事
吉川勢に(略)伯州の吉田肥前守、牛尾大蔵左衛門などと云う一騎当千の者共(略)
1578年8月1日(天正6年6月28日)
播磨国上月城の合戦では尼子勝久の援軍として高倉山に布陣した羽柴秀吉の軍勢と戦う。
1578年(天正6年)
菩提寺として金峰山弘安寺を開基と伝える。
陰徳太平記 巻第六十四 牛尾春重鳥取城入事
牛尾大蔵左衛門春重が因州若佐ノ鬼之城に在けるを先ず鳥取の城に入て鎮護すべき由下知せられける間、牛尾頓て久松ノ城にぞ籠りける。此大蔵左衛門は先年尼子勝久当国に入し時も此城に在て山中鹿ノ助に懸合せ数箇度勇気を顕せし事なれば森下、中村等哀究竟の大将を得たりと勇み歓ぶ事限り無し。斯くて牛尾、森下、中村巳下を先陣として敵方の領内へ動き所々放火し一揆原多く薙捨けり。
(略)当国諸寄ノ城に磯邊ノ某と云者籠り居ける所に城中野心の者有て手引せん由云送ける間、牛尾頓て中村、森下相共に一千餘騎押寄や否やひたひたと切岸へ付けるを見て城中にも究竟の兵卒多く在ければ弓鉄砲入代へ入代へ射出しけれど牛尾少も怯ず手勢三百許にて無二に切懸り。砦の郭一つ乗破り、巳に二ノ丸へ乗んとする所を城中にも爰を専途と思い散々に射払けり。牛尾、是程の小城に時を移すこそ云詮なけれとて味方に先立塀に手を繋登んとする所を差詰引詰射ける矢に膝の節したたかに射させけるを大剛の者なれば事共にせず。其矢を抜て捨たりけり。され共矢柄計は抽去て鏃は猶残り留りければ左しもの牛尾も足立ずして働得ず郎党の肩に懸り扇を以懸れ懸れと下知しけれど大将既に手負ければ諸卒機後れて進得ず。次第次第に引去けり。牛尾此の手口を以の外に痛み存命不定なるに因て芸州へ云々の由申断り入湯の為雲州牛尾へこそば帰りけれ。
1580年(天正8年)
若佐ノ鬼之城(若桜鬼ケ城)の在番であったが吉川元春より鳥取城の城主に任じられている。
鳥取城の森下吉途、中村春次は無双の豪勇の派遣を受け感極まったとある。
着任後は森下吉途、中村春次と敵領内へと打ち出し、敵勢力の排除と施設の破壊を行っている。
暫くの後、因幡国諸寄城の磯辺某から城内で不満を持つ士卒を内応させる用意があると密使があり、森下吉途、中村春次と共に1,000騎を率いて諸寄城の攻略へ向かう。
諸寄城へと到着した味方は城壁に取り付こうとしたが、磯辺某の情報とは反し城内からの抵抗は頑強であった。
城兵は屈強な士卒が多く、城内からの射撃も射手の交代に高い統率が見られるなど想定外の苦戦を強いられ、自ら手勢300騎を率いて郭を一つ奪取し、続けて二ノ丸を目指すがここでも射撃による激しい抵抗を受け進軍は儘ならなかった。
味方の苦戦に業を煮やし、自ら先陣を切って敵陣に切り込むが塀を攀じ登ろうとした所で膝に矢を受けている。
その場で矢を抜き進軍を続けようとしたが、体内に鏃が残っていたために歩けなくなり郎党に支えられ後退する。
暫くは軍扇を振り部隊の指揮を采ったが、大将の負傷に部隊の士気は下がり損害ばかり増えることから諸寄城を落とせず撤退している。
八橋城の吉川元春には矢傷を癒すため故郷へ湯治に戻ると伝え、出雲国大原郡牛尾荘へ戻ったとする。
陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事
南條伯耆守元続、秀吉公の威光を奉り頼みて本国羽衣石に帰入しけるが今、吉川、小早川の四国渡海の隙を窺い行松入道が次男、次郎四郎を将として一千騎を以て攻たりければ福頼、僅か一日戦いて敵の多勢にや臆しけん。同七月九日の夜、城を落しける間、行松、頓て入代りぬ。近辺に在ける牛尾大蔵左衛門、吉田肥前守、此由を聞て「香原山を敵に取られて一日も足を溜めさせん事、吾々が勇拙き所也」と諸人の嘲難を逸け押寄て討つなりと犇めきける。二人が勢合する共は三百に足りず、雲州富田に元秋の死後、弟元康在城なれば彼所に囃し合せばやとて云々の通り云送りける。元康、来たる十四日、香原山へ出張すべきと約諾したれける間、両人も其日を待ち打出んとす。
元康、十四日の早朝に八百騎を帥いて香原山近くへ打出られしに、両人いまだ出張せざれば元康、吾僅かの勢にて戦を挑み敵に利を付けん事重きて軍せんに害なるべしと頓て討入被たり。
同日の晩景に至て牛尾、相図違わずと七十許にて打出れば大坪甚兵衛、境與三右衛門も近辺に在ける故、牛尾と一手に成て馳来り、各香原山近き所にて里人に様体問えば云々にて候と答ふ。是を聴て牛尾、吾泉山を出しより香原山を陥さずば二度と立帰らじと思定めたれば設使敵百萬騎在共一足も引く事はあらず。百騎にも足らん小勢にて一千騎の敵を山上に引受けながら少しも臆せず屯を張ける心の程こそ不敵なれ。
吉田肥前守は尾高の城を出て約束の日を違わずと急けれ共。餘に小勢なれば近辺の味方共を催促する程に爰彼所にて猶豫し其日は路上に行暮れし。香原山を避けること三里許にして一夜陣をぞ居ける。
牛尾は家人共をば陣具を求め山野村里に遺し、吾身は大坪、境を相共に十四、五人にて小さき固屋の中に居たりけるを城中より此れを知りて百人許りが押寄たり。牛尾等少も疼ず鉄砲四、五挺を前に立て持かけけるに野山に在ける家人共、遥に之を見て敵こそ寄れとて吾も吾もと馳帰ける間、敵一堪も堪ず引けるを追蒐て三人討ちとり軍神の血祭にせよと物初めよしとぞ勇みける。
明れば十五日の早天に吉田、百五十許にて着陣し、牛尾、七、八十許にて在けるを見て哀れ至剛の者哉。吾に十倍したる敵を而も頭上に置て一夜堪えける事は項羽の勇を肝膽に蓄へたる者哉と。
甚威称し立入て昨日の合戦の様を聞き、三ノ首を見て弥威歎し覚ず吐舌絶倒する程に城中には牛尾、吉田が出張すと聞れなば昨日の元康も亦引返し出被なり、然ば近辺の敵勢共、漸々に重なりて味方大事に及ばず。
先ず急に吉田、牛尾を切崩せよや。一陣破れなば残党は多也と雖も矢の一つでも放らず逃走すべきぞとて。五百騎にて打出只一に討取らんと進んだり。吉田、牛尾、二百五十許にて渡り合い、一戦の間に追立直付入に乗っ取らんとする勢いを見て敵叶い難しやと覚えけん。螺吹いて逃げたりける。かかれば牛尾、吉田も後陣の勢続を待てこそ城をぞ乗っ取りけれ。其間は藉使弱敵たり共侮ること非ずとて吾先に陣を堅固にして居たりけるに行松とても叶わずもの故に長居せんは身の大事也と思い同夜半許忍て城を出て羽衣石へと入りにける。
寄手の忍を物聞を出し置きたれば、敵こそ落れと告げる程に吾先にと乗入けれ共に足早に退きける。
和譯出雲私史 巻之七 毛利氏 輝元附吉川廣家の条
(天正十三年)七月、南条元続、行松次郎四郎をして、一千騎に将として伯耆の香原山城を攻めしむ。福頼藤兵衛兵百を以て城を守りしが其の敵す可らざるを度り、夜遁る。次郎四郎乃ち入つて居る。時に牛尾春重、泉山城に在り。吉田肥前守、尾高城に在り。兵凡そ三百、相議して曰く「吾輩此に在り。敵をして城を奪わしむるは豊深辱ならずや」と、乃ち援を元康に請い、十四日を以て興に惧に香原山を攻めんと期す。期に及んで元康八百騎を率いて之に赴きしに二人出でず。元康引き還る。暮に至つて二人乃ち出で元康の還れるを聞き、敢て城を攻めずして焉に宿す。明日次郎四郎、元康の未だ出でざるに及んで撃つて之を却けんと欲し五百騎を以て来り攻む。二人拒ぎ戦つて大に之を破る。即夜次郎四郎遁れ出でて種石城に入り遂に香原山を復す。
1585年8月4日(天正13年7月9日)
南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国尾高城(家城)の奪取を称して西伯耆(汗入郡)へと侵入し、毛利方の福頼藤兵衛が守っていた伯耆国香原山城は1日足らずで落城する。
同日夜、自身は伯耆国泉山城(尾高城の支城か)に在番していたが、行松次郎四郎が尾高城へ向かわず香原山城に駐屯しているとの報せを受け、敵を香原山城に1日も休ませるのは自分達の不働きによるものと悔やみ、尾高城の吉田元重と共に奪還の提案をするが敵勢1,000騎に対し味方は300餘騎と劣勢であったため、先ずは出雲国月山富田城の毛利元康へと援軍要請を行っており、受諾されている。
1585年8月9日(天正13年7月14日)
早朝、毛利元康を大将とした援軍800騎が香原山城の麓へと到着する。
吉田元重の部隊は合流地点への到着が遅れており、自身の部隊も援軍本隊との合流が出来なかったため、毛利元康は連携無しに攻めるは損害も大きくなると判断し攻撃には出ず待機して陣を敷くに留めている。
同日夜、既に援軍本隊到着の報せが伝わっていたことから手勢70餘騎を率いて敵陣へと向かう道中で大坪一之、境與三右衛門と合流でき、山村の小さな固屋に屯している。
大坪一之、境與三右衛門、14~15騎の部下と共に固屋で休息を取っていたところ、行松次郎四郎の手勢100餘騎から襲撃を受けるが敵兵3人を返り討ちにして撃退している。
1585年8月10日(天正13年7月15日)
吉田元重の率いる部隊が戦場へと到着する。
10倍以上の敵勢を山上にして1日持ち堪えた豪勇は中国の秦末期の猛将、項羽のようだと感嘆している。
同日、吉田元重の着陣と自身、大坪一之、境與三右衛門らの奮戦を聞き及んだ毛利元康も出陣し、行松次郎四郎の撤兵を以て毛利方が香原山城を奪還している。
陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事
香原山の合戦では首級50餘を挙げたとしている。
陰徳太平記では此度の毛利方の大勝が以降の南條元続による西伯耆侵攻を断念させたと結んでいる。