よみがな

人物名

うしお おおくらざえもん はるしげ

牛尾大蔵左衛門春重

出身

不詳

生年

不詳

没年

不詳

不詳

不詳

牛尾

通称

大蔵左衛門

春重

官途

大蔵 左衛門尉

別名

牛尾大蔵

所属

毛利

牛尾

列 伝

牛尾氏は古くから尼子家に仕え、尼子経久の頃は家老職を務めるなど尼子家中の重臣として活躍した一族であったが、山陰地方に毛利氏の影響力が及び始めた頃には一族の存続を優先し、尼子と毛利の両陣営にそれぞれ分かれて与している。

名の見える頃より毛利方へと与しており、出雲国平田城、出雲国高平城、因幡国若佐ノ鬼之城、因幡国鳥取城などの城主を歴任した。

 

永禄12年(1569年)、毛利氏の九州侵攻により山陰、山陽の毛利方の軍勢が手薄になった隙を突いた尼子再興軍の蜂起により出雲、伯耆、因幡の諸城が攻撃を受けている。

 

永禄13年(1570年)2月、出雲国の布部山の戦いに於いて毛利軍と尼子再興軍の戦闘が行われた頃、高平城で尼子再興軍に組した牛尾弾正忠の攻撃を受けるが籠城策にて耐え抜き、毛利方の援軍を得て尼子再興軍を撃退している。

元亀年間(1570年~1573年)の対尼子再興軍戦では平田城に入り戦の指揮を採っていることから、地理的にも高平城の城主と伝える「牛尾大蔵」は同一人物である可能性が高い。

 

1578年(天正6年)、菩提寺として金峰山弘安寺を開基したと伝える。


1580年(天正8年)、因幡国若佐ノ鬼之城(若桜鬼ケ城)に在番していたが、森下吉途中村春次の要請を受けた吉川元春の命により鳥取城の城主を任されている。

森下吉途中村春次には無双の勇士が遣わされたと感極まられ、急かされる様に陣容を整えると直ちに1,000騎を率いて因幡国諸寄城を攻めることとなった。

諸寄城には磯辺某という間者が潜んでおり、毛利方の出陣に合わせて不満を持つ士卒を内応させる手筈となっていた。

行軍に於いては先々で放火を行い、抵抗する一揆衆を薙ぎ払い、諸寄城へと到着するも城兵は屈強な者も多く、特に城内からの射撃に苦戦している。

小城の攻略に時間がかかりすぎることに業を煮やすと手勢300騎を率いて郭の一つを奪取、続けて二ノ丸を目指すが射撃による激しい抵抗を受けている。

敵方の射撃を掻い潜り、更に前進を試みるが進軍中に致命傷に近い傷を受けたことで部隊は撤退することとなった。

命に障る程の深手を負ったことから療養のため出雲国大原郡牛尾の本拠地へ戻ったとしている。(陰徳太平記 巻之六十四 牛尾春重鳥取城入事)

 

1585年(天正13年)、南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国汗入郡へ侵入したため、70餘騎を率いて泉山(伯耆国尾高城)から出陣し、敵兵50餘の首級を挙げるなど大きな活躍を見せている。

その勇姿を同僚の吉田元重は古の楚の猛将、項羽のようだと感歎している。

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