武将列伝帖

うしお おおくらざえもん はるしげ

牛尾大蔵左衛門春重

【氏】不明【姓】不明【名】牛尾【通称】大蔵左衛門【諱】春重

別 名

出 身

不明

官 途

大蔵、左衛門尉

所 属

毛利氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

尼子家に仕えた牛尾氏の一族。出雲国平田城、因幡国鳥取城の城主。

一族の存続のため尼子、毛利へとそれぞれ分かれ、早い段階で毛利氏へと降っている。

 

元亀年間(1570年~1573年)の尼子再興戦では平田城に入り尼子残党から城を守っている。

同じ頃、再興戦では「牛尾大蔵」なる者が出雲国高平城を守ったとするが同一人物かは不明。

 

1578年(天正6年)、菩提寺として金峰山弘安寺を開基と伝わる。


1580年(天正8年)、因幡国若佐ノ鬼之城(若桜鬼ケ城)に在番していたが、森下吉途中村春次の要請を受けた吉川元春の命により鳥取城の城主を任されている。

森下吉途中村春次は無双の勇士が遣わされたと感極まり、急かされる様に陣容を整えると直ちに1,000騎を率いて因幡国諸寄城を攻めている。

諸寄城には磯辺某という間者が潜んでおり、出陣に合わせて不満を持つ士卒を内応させる手筈となっていた。

進軍の先々では放火を行い、一揆衆を薙ぎ払い、諸寄城へ到着するが城中の兵士は屈強な者も多く、城内からの射撃に苦戦している。

小城の攻略に時間がかかりすぎると業を煮やし、手勢300騎で押し込み郭の一つを乗っ取ると続けて二ノ丸を目指したが激しい射撃を受けている。

更に前進するが、進軍中に致命傷に近い傷を受けたことで部隊は撤退している。

命に障る程の深手を負ったことから療養のため出雲国大原郡牛尾の本拠地へ戻ったとしている。(陰徳太平記 巻之六十四 牛尾春重鳥取城入事)

 

1585年(天正13年)、南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国汗入郡へ侵入すると70騎餘を率いて泉山(伯耆国尾高城)から出陣し、敵兵50余りの首級を挙げるなど大きな活躍を見せている。

その勇姿を同僚の吉田元重は古の楚の猛将、項羽のようだと感歎している。

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