武将列伝帖
なかむら つしまのかみ はるつぐ
中村対馬守春続
【氏】不明【姓】不明【名】中村【通称】対馬守【諱】春続
別 名
-
出 身
不明
官 途
大炊助、対馬守
所 属
但馬山名氏⇒毛利氏
生 年
不明
没 年
1581年11月20日(天正9年10月24日)
- 列 伝 -
但馬山名氏に仕えた因幡中村氏の一族。因幡国智頭郡の草刈氏の出身とも云われる。
始めは大炊助を称していたが毛利氏に与した頃から対馬守を称している。
1564年(永禄7年)~1565(永禄7年)頃に山名豊儀の被官として「中村大炊助」の名が見える。(山名豊儀書状写)
1575年(天正3年)、山名豊国の被官として吉川元春の許へ派遣。
1580年(天正8年)、織田氏へと降った山名豊国を因幡国鳥取城から追放すると、周辺を滞りなく治めるには有能な武将が必要と、同僚の森下道誉と共に吉川元春へ大将を一人派遣するよう具申しており、牛尾春重が城主として遣わされている。
牛尾春重の派遣には森下道誉共々、剛将の到着に感極まっており、自らも先陣に加わり因幡国諸寄城へ出陣している。
道中の敵地では放火を行い進軍し、諸寄城は小城で内通者の磯辺某も潜んでいたことから力攻めを行うも牛尾春重が瀕死の重傷を負ったことで撤退している。
同年の鳥取城の戦いでは山名豊国が物資の備蓄に万全を期していたことから兵糧攻めによる落城はなかったが、娘を人質に取られたことから織田方へ降伏したとも云われる。(この娘が大変聡明な娘であったとも云われる)
降伏に反対した森下道誉と共に山名豊国を追放し、牛尾春重を始め数名の城主が入れ替わった後、吉川経家を城主に迎えている。
1581年(天正9年)、第二次鳥取城の戦いでは籠城戦の指揮に当たっている。
同年10月、兵糧攻めによる城内の惨状を見かねた吉川経家は自らの首を差し出す代わりに城中全ての将兵、民衆の助命を嘆願している。
嘆願の全ては受け入れられず、因幡国に戦乱を招いたこと、主君山名豊国へ対する裏切りを罪に問われ、吉川経家が自刃した同じ陣所で森下道誉と共に切腹、自刃している。