所 属
但馬山名
▶
毛利
よみがな
人物名
もりした でわのかみ よしみち
森下出羽守吉途
別 名
もりした みちひろ / もりした みちすけ
森下道祐/森下通祐
別 名
もりした どうよ
森下道誉/森下道与/森下道輿
法名
別 名
もりした しろう さえもんのじょう
森下四郎左衛門尉
通称
別 名
もりした にゅうどう
森下入道
官 途
左衛門尉、出羽守
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1581年11月20日(天正9年10月24日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
吉途
列 伝
因幡国の国人で山名豊国の家老。
伯耆国富繁城に在城したとも伝える。
1580年(天正8年9月)
因幡国鳥取城での合戦後、主君の山名豊国は織田氏へ降伏し臣従の意を表する。
山名豊国を降伏後に追放したとする説と、降伏前に追放したとする両説が見える。
同月、山名豊国を追放し毛利氏へ与している。
山名豊国に代わる鳥取城の城番の派遣を中村春続と共に吉川元春に要請しており、因幡国若佐ノ鬼之城の城番であった毛利家の家臣、牛尾春重が鳥取城の城将として派遣されている。
無双の勇士と評判であった牛尾春重の派遣には感極まるものがあったとし、間髪入れずに軍を編成すると牛尾春重を総大将に推し中村春続らと共に因幡国諸寄城へ出陣している。
1581年(天正9年3月)
因幡国諸寄城の攻略に失敗し、牛尾春重が負傷を癒すため出雲国大原郡牛尾荘へと戻る。
鳥取城の城番が幾度か入れ替わった後、吉川経家が鳥取城の城主に任じられている。
1581年(天正9年6月)
第二次鳥取城の戦いでは籠城戦の指揮にあたっている。
自らも部隊を率いて幾度となく敵陣へ夜襲を仕掛けるが、敵方の参軍であった黒田孝高には策を見破られた上、偽報に躍らされるなど悪戯に将兵を失うばかりで戦果は上げられなかった。
1581年(天正9年10月)
兵糧攻めによる城内の惨状を見かねた吉川経家は自らの首級と併せ、自身と奈佐日本之助の3将の命と引き換えに、城内の将兵と領民の助命を条件とする降伏の使者を送っている。
降伏の条件について吉川経家の処遇など一部の条件に関して織田信長へ伺いが立てられているが、吉川経家の意思は堅いと知ると特段の異議は無いと羽柴秀吉に一任している。
羽柴秀吉は因幡勢の奮戦を称え、吉川経家は仮の城主であったこと、降伏開城した城主の命は取らない慣例もあることから此度の戦の原因とする自身と中村春続の自刃で収めるよう説得するも、吉川経家は吉川家の恥となることを良しとせず自刃している。
概ねの経緯は同じであるが異説に羽柴秀吉が切腹を要求したのは戦の原因になったとする自身による山名豊国の追放、海賊行為を行った奈佐日本之助、山賊行為を行った塩冶高清の3名とされ、この説では鳥取城で吉川経家と自身、因幡国丸山城で奈佐日本之助、塩冶高清が切腹している。