よみがな
人物名
なさ やまとのすけ
奈佐大和之助
出身
不詳
生年
不詳
没年
1581年11月20日(天正9年10月24日)
氏
不詳
姓
不詳
名
奈佐
通称
日本之助
諱
不詳
官途
不詳
別名
奈佐日本之助(なさ にほんのすけ)
所属
但馬山名
▶
尼子
▶
毛利
吉川
列 伝
但馬国奈佐氏の嫡流。但馬山名氏の配下として山陰地方沿岸を勢力圏としていた。
水上戦の指揮に長け、織田氏に対抗する勢力であったため織田方からは「海賊衆(賊衆ではなく水軍衆を意味する海賊)」と喩えられた。
陰徳太平記 巻第四十三 尼子勝久雲州入附松永霜台事の条
(略)先ず但馬国に馳下て、垣屋播磨守を頼み、奈佐大和ノ助が海賊船に取乗て、名字の士六十三人雑兵併せて二百餘人。永禄十二年五月、先ず隠岐国に渡りぬ(略)
1569年(永禄12年)、尼子再興の軍を起こした山中幸盛、尼子勝久らが山名祐豊の重臣であった垣屋播磨守光成を頼った際は数百艘の舟を手配し、尼子再興軍を隠岐国の佐々木為清(隠岐為清)の元へと送っている。(陰徳太平記、雲陽軍実記、広瀬町史(上)ほか)
1570年(元亀元年)、尼子再興軍に与する形で出雲国満願寺城を攻略し入城している。
海側に対して出雲国月山富田城への補給線を絶つため在番している。
1573年(天正元年)、毛利方の武将、吉川元春らの攻撃を受け満願寺城が落城したため降伏。
水軍の指揮能力に長けていたことから吉川元春より直々に誘いを受け、吉川方に与したとされている。
伯耆国外江村に宿舎を置き、伯耆国外江城に逗留し練兵を行なっていたことも考えられ、但馬国から伯耆国の沿岸部で水上戦に備えた地形の確認や水軍の指南を行っていたことが推定される。
天正年間、織田方の勢力が中国地方まで及び始め、海賊行為の取り締まりを称した締め付けが始まったため、但馬国芦屋城の城主、塩冶高清と連携し織田方へと抵抗している。
1581年(天正9年)、第2次鳥取城の戦いでは因幡国鳥取城に派遣された吉川経家と共に織田方の羽柴秀吉と対峙。
丸山に因幡国丸山城を築き、因幡国雁金山城を守る塩冶高清と共に鳥取城との兵站を確保した。
同年9月、織田方の武将、宮部継潤の攻撃によって雁金山城が落城すると鳥取城との兵站が寸断。
海路から兵糧・物資の搬入を試みるが受け取りに率いた水軍は織田方の武将、細川藤孝らによって千代川河口で撃破され輸送船の多くが鹵獲されている。
同年10月、兵糧攻めによる城内の惨状を見かねた吉川経家は自身の首と引き換えに城内の将兵と領民の助命を条件に降伏の使者を送っているが、塩冶高清と共に助命について特に念を押されている。
羽柴秀吉は吉川経家の武勇・忠節を惜しみ自刃を思いとどまるよう説得するが、塩冶高清らの切腹を譲らなかったことから吉川経家は最後まで羽柴秀吉の提案には承服しなかった。
鳥取城が降伏し開城すると丸山城も降伏。
吉川経家の自刃に先立ち塩冶高清と共に鳥取城内(丸山城内とも伝わる)の陣所にて切腹し自刃したとされる。
丸山城の麓には塩冶高清、佐々木三郎左衛門と共に3名の供養塔が現存する。
子孫は江戸時代も旗本として存続したとされる。