伯耆古城図録

とのえじょう

外江城 / 戸江城

鳥取県境港市外江町、鳥取県境港市渡町、鳥取県境港市芝町

別 名

戸ノ井城(とのいじょう)…伯耆志での表記。

戸之井城(とのいじょう)…陰徳太平記での表記。

遺 構

不明

現 状

荒山)太陽光発電所、港湾施設

米山)商業施設、会社施設、住宅地など

野山)畑地、荒地

城 主

吉川方奈佐日本介

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

水塞

備 考

史跡指定なし

参考文献

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助

雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所

萩藩閥閲録

境港市史(昭和61年3月 境港市

境港市史 付録 町名・地字図(境港市※昭和58年2月1日

縄張図

不明

 

概 略

往時は弓浜半島が成立しておらず、中海に浮かぶ小島のひとつであったとしている。

島根半島からの侵攻に備えた城砦とする他、日本海側から出雲国月山富田城への輸送ルートでは中継港と位置付けられている。

中海と日本海を結ぶ往来の中継港であったとすることから、往時より比較的整備された港湾の存在が伺える。

 

伯耆志 江尾村の条 城跡の項

永禄八年八月朔日、雲州三保関より舟に取乗り押渡らんとしける時節俄に狂風吹来り迅雨盆を傾けて振出怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩ふて暗く舟己に覆らんとしける故。力不及漕戻し、福良、戸ノ井に四日滞留して討損せられし舟共修補して同五日又押渡りけり。

 

陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事

永禄八年八月朔日雲州三保ノ関より舟に取り乗り押し渡らんとしける時節俄に猛風吹き来り。迅雨盆を傾けて降り出て怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩うて暗く舟巳に覆らんとしける故、力及不漕ぎ戻し福良、戸之井に四日滞留して打損せられし舟ども修補して同五日又押渡りけり。

 

1565年(永禄8年)8月1日、毛利方による伯耆国江美城の攻略戦では毛利方の援軍として美保関より吉川方の検使及び援軍が出航するが、台風の影響を受けた船団の一部が外江方面に流されたとしている。

外江でも舟の修理が可能であったとする描写が見えることから、港湾や造船施設を持つ水塞であった可能性が伺える。(陰徳太平記、伯耆志)

同年9月3日、毛利方の攻撃を受けた伯耆国八橋城の陥落を以て尼子方に与した雲伯両国内の主要城砦が毛利方の領有となる。

出雲国月山富田城は孤立し、毛利方による包囲網が狭められ兵糧攻めに遭っている。

同年9月20日、尼子方が立て籠もる月山富田城への包囲網を狭める一方、毛利方は後方の兵站となる雲伯の処々に附城を築き要害を構えたとしている。

出雲国の福良(福頼)、伯耆国の外江(州崎を外江境)の水塞にも部隊が再編され将兵の入れ替えがあったとしている。(弓之浜合戦並三穂合戦事)

 

1566年(永禄9年)、補給線を絶たれ兵糧難に陥った尼子方は因幡、但馬方面へ救援物資の輸送を求めている。

出雲国十神山城、出雲国福良山城などへ日本海の航路を使い隠密に物資を運ぶ計画であったが、事前に出雲国荒隈城の毛利方へと情報が漏れていたこと、昨年より馬潟、外江、大江、美保関の強化が図られたことにより海路の警戒は厳重であり、尼子方の輸送船は弓ヶ浜近辺で引き返すことを余儀なくされ、月山富田城への輸送が失敗した上、大江にて船団は鹵獲され物資も奪われている。(雲陽軍実記 伯州浜の目合戦并因但之兵糧船大江奪取事)

 

1573年(天正元年)、尼子再興戦で尼子方に与した奈佐日本介が毛利方へと降伏。

吉川元春から直接の説得を受け、以降は吉川方に与して外江村に逗留し水兵の練兵を行ったとしている。(萩藩閥閲録)

 

城砦が所在した正確な位置は不明。

境港市史に付録の「町名・地字図(昭和58年2月1日現在)」より、現在の外江町内と渡町内に見える屋敷跡や陣場跡、島(小丘や小山)の小字から城砦の痕跡を推測する。

 

伯耆誌 東外江村の条 長福寺趾の項

境内に経塚、荒山塚、佐斐神塚、森殿塚などと呼ぶ古墳あり。伝詳ならず。

 

現在も字名に「経塚」が見え、荒山塚は外江町の字「外荒山」周辺が推定される。

佐斐神塚、森殿塚の字名は確認できないが、経塚、荒山塚の所在地から境水道に面する村の北東部に「経徳山長福寺」が所在とし、古墳の伝承もあることから城郭へ転用された候補地のひとつと推測する。

他の候補地に比べると伝承など情報も多いことから外江町内で最も城跡の可能性が高い場所と考える。

 

伯耆誌 西外江村の条 荒山古跡の項

村の東南山丁許の所にて人家の旧記と云えり。敷石又米を盛れる瓶を掘出す事ありと云えり。

 

伯耆誌 西外江村の条 青木塚の項

村の東南十丁許の田中に在り。伝詳かならず。

 

荒山古跡は東外江村の条に見える荒山塚の西外江村に属する部分で外江町の字「内荒山」周辺と推測される。

青木塚の字名は確認できないが、村の東南部に「経徳山補岩寺」が存在したとされる。

境水道に面する村の北西には屋敷と関係する字名が密集しており、字「西灘屋敷」、字「南屋敷東」、字「南屋敷西」は寺屋敷、字「北屋敷灘通」、字「寺屋敷通」、字「寺屋敷南通」から屋敷が寺院と関係することが伺える。

字「白尾」は「城尾」から転訛した可能性も考えられ、周辺に字「伊勢宮前」、字「太郎右衛門堀」、字「五本松」とあることから、城砦が館跡へ転用されたとする候補地のひとつと考える。

字「五本松」については伯耆志に六本松に関する記述が見える。

 

伯耆誌 渡村の条 小祠の項

村中西面の社にて東西十三間南北廿五間の地なり。祭神の伝は陰田村の下に記すが如し。当社寛永の頃迄は二社在て村の南北に鎮座あり。旧地今田土となる。字上ノ陣場、下ノ陣場と呼ぶ。神事場の訛りなり。後、両社を合せて一社とす。故に両大神と称す。

 

伯耆誌 渡村の条 古墳の項

村の東に在り。伝詳かならず。

 

渡村は東外江村、西外江村の南側に所在する。

西外江村の字「渡道」と渡村の字「外江道」で接続されていたと推測されることから密接な関係があったと考えられる。

字名に字「陣場本」、字「上大陣場」、字「下大陣場」と陣場の存在を伺わせる地名も見えるが、伯耆志では字「上大陣場」、字「下大陣場」を神事場が転訛したものとしている。

 

往時に弓浜半島は存在せず、中海に浮かぶ群島であったと伝えることから、海面以上の標高があったと考えられる「山」の付く字名を頼ると、

・米山(外江町の字「上米山」、字「下米山」、渡町の字「西米山」、字「東米山」)

・野山(渡町の字「上野山」、字「野山西」、外江町の字「下野山」、芝町の字「下野山」)※野山西の西には堀内の字あり。

2つの「山」の跡が微高地の名残を伺わせる。

弓浜半島が成立する以前から存在する小島であったとすれば、中海と日本海の往来に関係する漁村や港湾施設が存在していた可能性があり、何れも「外江城」候補地のひとつしてと考えたい。

 

年 表

1565年

永禄8年

8月1日、毛利方による伯耆国江美城の攻略戦に於いて毛利方の援軍として美保関より吉川方の検使及び援軍が出航するが、台風の影響を受けた船団の一部が外江方面に流されたとしている。

外江に流された船団は舟の修理などで4日間逗留している。(陰徳太平記、伯耆志)

9月20日、毛利方によって港湾設備などが増強されたとある。

1566年

永禄9年

因幡、但馬方面からの月山富田への輸送船を日本海上で撃退した部隊の所属する港のひとつとして記述される。

1573年~

天正元年~

尼子再興軍に与していた奈佐日本介が毛利方へ降伏。

奈佐日本介吉川元春からの説得を受け、吉川方へと与している。

外江村に逗留し水兵の練兵を行ったとし、当城の城番も務めたと推定される。

地 図

 

※推定地のひとつ、字「外荒山」

写 真

訪城日 2021/11/7

字「外荒山」

字「外荒山」

字「内荒山」

字「西米山」

字「西米山」

字「上米山」

字「板橋」

字「下野山」

字「下野山」

字「上野山」

字「辻堂」

字「辻堂」

字「陣場本」

字「上香澄」の神社

字「上香澄」の神社

字「下大陣場」

字「上大陣場」

字「上大陣場」

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