所 属

尼子

毛利

よみがな

人物名

たかくらのつぼね

高倉ノ局

 

別 名

あおい ともえ

葵巴

陰徳太平記での別名

 

別 名

ともえ

雲陽軍実記での別名

官 途

不詳

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

安芸武田家の一族。武田元繁の外孫にあたり、武田信実の妹とする人物。

陰徳太平記の巻第四十「牛尾豊前守降参之事」では武田繁清の娘で武田元繁の嫡女(養女か)としており、兄は武田信重が推測される。

 

「葵巴」又は「巴」の異名を冠するほどの薙刀の達人で権謀術数にも長け、籠城を指揮しては守り切り、尼子晴久毛利元就などとも直接交渉が行える精神的な強さを見せる一方、姪の娘の子(後の牛尾春重の母子共に面倒を見るなど優しい一面も併せ持つ女性であった。

毛利家の滅亡を願い尼子方の牛尾豊前守へ嫁ぐが権勢は毛利家へと傾き、一族、特に夫と子の安全を第一として主家の尼子家を背き、怨敵である毛利元就へと降伏を決断するなど自身よりも家族や一族の安寧を願っている。

 

陰徳太平記 巻第四十 牛尾豊前守降参之事

牛尾豊前守は弱年也し時、美姿世に類無りける故、尼子晴久寵愛甚しかりけりざる故、千万人が敵に属すれ共、吾一人は当家を背じと思入て居たりしが、忽ち敵に降ける事は是故也とぞ聞えし。彼牛尾が室女は安芸の武田元繁の孫にして伴五郎が息女也。元繁の嫡女、高倉の局と云し人、武田亡て後、毛利は父の敵なり。吾男子ならまじかば謀を運して仇を報ずべきに女の身なれば力無し。然れば行末毛利家を亡さん人は尼子たるべし。彼家に立ち寄り元就の滅亡を見ばやとて出雲へ立越られければ晴久其志を感じ殊に不便を加られけり。然る故、姪の伴が娘も是を便りに出雲へぞ趣きける。

 

1541年(天文10年)

安芸武田氏の本拠地であった安芸国佐東銀山城が大内方の毛利元就による攻撃を受け落城する。

兄の武田信重は自害、父の武田繁清も戦場で討死し一族を滅亡に追いやった毛利元就に対して強烈な殺意を抱いている。

女の身であり武力で及ばなければ謀を以て毛利家を滅ぼす事を画策し、出雲国の尼子晴久に接触している。

尼子晴久は心意気に感服し、境遇を不便に思うと出雲国で保護しており、姪の娘とその子(牛尾春重)も出雲国で保護されることとなった。

後に牛尾豊前守へ嫁いだことで養育していた牛尾春重牛尾豊前守の養子となる。

 

陰徳太平記 巻第三十八 富田城下三箇所合戦之事

輝元は兎角急に富田城へ押寄、初陣に武功を建ばやと頼りに元就へ訴え給えける間、元就さらば今一度富田城下麦薙の働有るべしと諸侍に触伝給。日限は同四月十七日と定めらる。(略)先尾小森口へは元就并に輝元の旗本馳向う。(略)尼子義久四千餘にて打出、吾身は山上に扣えて牛尾豊前守(略)等を尾小森口より出し。

 

1565年5月16日(永禄8年4月17日)

毛利輝元を大将に尼子方の立て籠もる出雲国月山富田城への総攻撃が始まる。

尾小森口(御子守口)から攻め寄せる毛利輝元の部隊に対し、尼子方の尼子義久は山上に布陣し4,000騎を以て対陣しており、牛尾豊前守が部将のひとりに見える。(陰徳太平記、雲陽軍実記)

 

陰徳太平記 巻第三十八 富田退口合戦之事

同月二十八日、元就朝臣富田表を引払い洗合へ打入給。

 

1565年5月27日(永禄8年4月28日)

毛利方の軍勢が出雲国洗合城へと撤退する。

 

陰徳太平記 巻第四十 牛尾豊前守降参之事

(略)渠が妻の野村の某、敵の為に打れし時、嫡子大蔵左衛門、其時は太郎にて未だ三歳也しを郎党の仁田又兵衛、背に負い田中の溝に隠れ夫より紛れ出たりしを相具して伯母なりし高倉局の許に居けるが豊前守に嫁してけり。此女熟しと思けるは此では尼子家滅亡して豊前守、大蔵左衛門も敵の為に討たれぬべし如不。元就へ降参を乞い夫の一命を助け、今宗領遠江守が所領の牛尾七百貫観賞に申賜らん。然らば牛尾の家断絶せずして吾子の大蔵左衛門は立身すべし。

 

雲陽軍実記 尼子家臣降毛利 并 宇山飛騨守中井駿河守被讒事

去頃、富田城内軍士共、兵糧日々に乏敷成るに随い、心細く思いにける故、毛利へ降参に出る者多し中にも牛尾豊前守は妻女の勧めにて伯父遠江守が所領、牛尾七百貫の地を給りなば御味方に参可と申入ける。

 

毛利方の軍勢が洗合城へと撤退の前後、牛尾豊前守を説得し毛利方への降伏を決断させる。

牛尾豊前守尼子晴久の寵愛を受け、全ての家臣が敵に寝返ろうと最期まで尼子家に忠義を貫き通す人物と評されていたが、その心を変えたのが自身の存在としている。

元々は毛利元就及び毛利家の滅亡を願い、尼子家を頼り牛尾豊前守へ嫁いだが、主家の凋落は捗々しくこのまま忠節を貫いても夫の牛尾豊前守、子の牛尾春重も無駄に命を落とすことになると考え、安芸武田一族の仇敵である毛利元就への降伏を決断している。

降伏する条件として牛尾幸清の所領700貫を求めており、惣領家と対立する形になるがどちらの勢力が存続しても牛尾家の断絶を避ける狙いがあったことから、ここでも自身の怨恨よりも一族の安寧を優先する思慮深さを見せている。

 

陰徳太平記 巻第四十 平賀隆祐中谷合戦之事

(略)月山の先陣突立られて山上邊に引て行く。其中に立原備前守、其子與次郎、森脇市ノ正、牛尾弾正忠、高倉ノ局の小者十兵衛と云う者(略)

 

牛尾豊前守の降伏後、自身の奉公人であった某十兵衛は尼子方へと与し牛尾弾正忠と行動を共にしている。

一族や家臣でも尼子家に忠義を尽くすか毛利家に降るか苦渋の選択があったことが読み取れる。

 

陰徳太平記 巻第四十七 雲州三笠城没落の事

出雲国牛尾の高平の城主、牛尾豊前守は去年より作州益形の城番として馳上り。跡には女房並に養子、大蔵左衛門ぞ籠り居ける。茲因、牛尾弾正忠其虚に乗て攻取んと思い山中鹿ノ助に加勢を乞うて元亀元年三月上旬に押寄せ攻め動す。大蔵左衛門は幼少也と雖も勇猛第一の器なれば敵の多勢にも些も臆せず身命を軽んじて防戦す。豊前守が女房は武田刑部少輔信実が妹にして元繁の外孫なれば心至剛に古の葵巴など云つべき者なる故、諸軍士に下知して堅固に城を抱えける間、弾正忠終に之を陥得ず。頓て三笠の城を補修して楯籠り、隙間を伺いて攻取んと日毎に足軽を係て迫合けり。

同四月十五日、毛利輝元、吉川元春父子、小早川隆景、三笠城の山見せんとて打出て給う。爰元春の家臣、今田中務少輔経忠は此程巳が在處に在り、香川兵部太輔春継は防州徳地に居て共に布辨合戦に逢不ける事を無念に思いければ両人士卒共三百許り引具して同十六日、三笠の城三の郭の固屋を落さんと打出たり。(略)其後、此城へは牛尾豊前守移りて籠り居けるに(略)

 

雲陽軍実記 三笠城合戦 并 放火落城牛尾弾正忠戦死事

牛尾高平城主豊前守は作州枡形城番として去年差上られ、子并幼稚の養子、大蔵左衛門留守居して有りけるに牛尾弾正忠其虚に乗じて山中鹿之助が加勢を受け、元亀元年三月上旬に押寄攻動す。彼の妻女は武田刑部少輔信実が妹にて男勝の豪勇剣術者にて今と異名せし程の女なれば終に攻落す事不能。頓て三笠城を取立補修して楯籠り、隙間を伺い攻め取んとす。元春の家臣、今田中務少輔経忠、香川兵部大夫春綱、三百人計にて四月十六日三笠城へ押し寄せる。(略)其後、牛尾豊後守を作州より呼下し、三笠城へ入置ぬ。

 

1570年(永禄13年/元亀元年3月上旬)

牛尾豊前守の留守中、牛尾春重と出雲国高平城に在城し籠城の指揮にあたる。

尼子再興軍の援助を受けた牛尾弾正忠の攻撃を退け高平城を堅守すると牛尾弾正忠は出雲国三笠城を接収して相対となる。

 

1570年5月19日(永禄13年/元亀元年4月15日)

毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景らが三笠城の偵察に赴く。

 

1570年5月20日(永禄13年/元亀元年4月16日)

毛利方の援軍として今田経忠香川春綱が300騎を率いて三笠城に立て籠った牛尾弾正忠及び尼子再興軍を撃退する。

尼子再興軍の撃退後、作州より牛尾豊前守が呼び戻され三笠城の城主に任じられている。

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