所 属
毛利
よみがな
人物名
おおつぼ じんべえ かずゆき
大坪甚兵衛一之
官 途
不詳(兵衛尉)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
一之
列 伝
毛利家の家臣。尼子再興戦では対尼子残党戦で多くの戦果を挙げている。
本人の武勇は世間に広く聞こえ、寡兵で大軍を打ち破る軍略と用兵を備えた知勇兼備の武将と評される。
1573年(天正元年)
尼子再興戦では因幡国私都城に在番し立て籠もり、尼子方からは無二の大剛と恐れられた。
吉川元春の命で牛尾春重が加勢に遣わされており、尼子方は私都城を攻め落とすことができずにいた。
1574年1月25日(天正2年1月3日)
履端之慶(元旦の御慶)のため芸州に向かうと情報を伝え聞いていた山中幸盛の伏兵1,000騎と雁金山の麓で遭遇し、お互い、相手の首を元旦の祝いにできると冗談のようなやり取りをするが、その間も手勢100騎をどう配置し動かすかを熟考しており、戦端が開くと山中幸盛の率いた1,000騎に向かい真一文字に突撃を仕掛け突破している。
芸州に到着すると熊谷伊豆守信直と対談し、山中幸盛がどのような兵の動かし方をしようとも負けることはなかっただろうとして相手の動きを想定した問答を披露している。
山中幸盛の敗因は10倍の兵を擁して数に勝っていたことで侮りを生んだことが仕損じに繋がったとし、評判ほど大した武将ではないと笑っている。(陰徳太平記 巻之五十一 山中鹿之助大坪甚兵衛與合戦事)
1574年4月1日(天正2年3月10日)
芸州から因州へと戻るが、鹿野付近で哨戒に出ていた武田源三郎、亀井新十郎の率いる700騎と遭遇し戦闘となる。
手勢は300騎と数的に劣る上、敵方は既に山上へと布陣を終えていたため山下に構えて距離を取っていたが、武田源三郎、亀井新十郎も数的には優位であったものの自身の武勇を聞き及んでいたため手を出せずにいた。
自軍の中に中原彌介と中原甚次郎がおり、両名は兜を脱ぎ捨て鉢巻を額に巻くと敵陣へ向かい突撃を慣行する。
味方からも射撃の的になるだけと無謀な突撃と思われたが、周囲の予想に反する抜群の活躍を見せ、自身も部隊を一文字にまとめ続いている。
武田源三郎、亀井新十郎は適わぬと判断し撤兵したため偶発的に起きた戦闘に勝利している。(陰徳太平記 巻之五十一 大坪武田亀井與合戦之事)
陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事
南條伯耆守元続、秀吉公の威光を奉り頼みて本国羽衣石に帰入しけるが今、吉川、小早川の四国渡海の隙を窺い行松入道が次男、次郎四郎を将として一千騎を以て攻たりければ福頼、僅か一日戦いて敵の多勢にや臆しけん。同七月九日の夜、城を落しける間、行松、頓て入代りぬ。近辺に在ける牛尾大蔵左衛門、吉田肥前守、此由を聞て「香原山を敵に取られて一日も足を溜めさせん事、吾々が勇拙き所也」と諸人の嘲難を逸け押寄て討つなりと犇めきける。二人が勢合する共は三百に足りず、雲州富田に元秋の死後、弟元康在城なれば彼所に囃し合せばやとて云々の通り云送りける。元康、来たる十四日、香原山へ出張すべきと約諾したれける間、両人も其日を待ち打出んとす。
元康、十四日の早朝に八百騎を帥いて香原山近くへ打出られしに、両人いまだ出張せざれば元康、吾僅かの勢にて戦を挑み敵に利を付けん事重きて軍せんに害なるべしと頓て討入被たり。
同日の晩景に至て牛尾、相図違わずと七十許にて打出れば大坪甚兵衛、境與三右衛門も近辺に在ける故、牛尾と一手に成て馳来り、各香原山近き所にて里人に様体問えば云々にて候と答ふ。是を聴て牛尾、吾泉山を出しより香原山を陥さずば二度と立帰らじと思定めたれば設使敵百萬騎在共一足も引く事はあらず。百騎にも足らん小勢にて一千騎の敵を山上に引受けながら少しも臆せず屯を張ける心の程こそ不敵なれ。
吉田肥前守は尾高の城を出て約束の日を違わずと急けれ共。餘に小勢なれば近辺の味方共を催促する程に爰彼所にて猶豫し其日は路上に行暮れし。香原山を避けること三里許にして一夜陣をぞ居ける。
牛尾は家人共をば陣具を求め山野村里に遺し、吾身は大坪、境を相共に十四、五人にて小さき固屋の中に居たりけるを城中より此れを知りて百人許りが押寄たり。牛尾等少も疼ず鉄砲四、五挺を前に立て持かけけるに野山に在ける家人共、遥に之を見て敵こそ寄れとて吾も吾もと馳帰ける間、敵一堪も堪ず引けるを追蒐て三人討ちとり軍神の血祭にせよと物初めよしとぞ勇みける。
1585年8月9日(天正13年7月14日)
南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国汗入郡へ侵入した際は中原彌介と共に牛尾春重の部隊に合流している。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)