所 属

大内

三吉

尼子

毛利

杉原

毛利

吉川

よみがな

人物名

こびき ながとのかみ よしたね

古曳長門守吉種

 

別 名

こびき ながとのかみ よしたね

古引長門守吉種

伯耆志での記述

 

別 名

こびき ながとのかみ よしまさ

古引長門守吉雅

伯耆民談記に注釈される

 

別 名

きっかわ ながとのかみ よしまさ

吉川長門守吉雅

伯耆民談記に注釈される

 

別 名

こびき ながとのかみ

小引長門守

伯耆志 進氏 私称之姓での表記

 

別 名

こびき よしたね

木引吉種

 

別 名

みよし よしたね

三吉吉種

鳥取藩史での記述

法 号

不染院殿實性法蓮日栄大居士

官 途

長門守

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1592年12月17日(天正20年11月24日)

不詳

不詳

吉種

列 伝

大内義隆に仕えた三吉広隆の次子とされる。

伯耆国石井要害、伯耆国戸上城、伯耆国飯山城に在番、伯耆国米子城では城代を務めた。

 

1551年9月30日(天文20年9月1日)

陶隆房らの謀反により大内義隆が殺害される。

大内家の滅亡後は伯耆国榎原郷實久村へと落延び、縁家であった古曳氏を継ぐとある。

 

伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項

(略)元亀二年二月七日、当家の族、進孫次郎易季杉原盛重に属し尾高にて尼子勢と戦う。(事は尾高村の下に記す)成季、播磨に在る時、易季及び古引長門守、山中鹿之介、立原源太兵衛、三原為友、渡辺宗三郎等(原書に立原を橘とす。今陰徳太平記に據る)これに属す。(原書に此後、成季の事蹟并死去の年月を記せず。鹿之介は当年の夏、吉川氏に捕えられ尾高より遁れて美作に走る。然れば成季は此前後に播磨へ移りしなるべし)

 

天文年間~永禄年間

進成季が播磨国を本拠とした頃、尼子方に属したとある。

中村記では尼子義久の家臣としている。

 

1564年(永禄7年)

尼子氏毛利氏による伯耆国手間要害周辺の合戦では尼子方に与し戦う。

 

1565年(永禄8年)

毛利方の杉原盛重手間要害、伯耆国新山要害を攻略した頃、杉原盛重の家臣となる。

 

1566年(永禄9年)

伯耆国戸上城に在番。

杉原盛重の伯耆国尾高城への移転に伴う後任人事と推定され、早い段階で杉原盛重からの信用を得ている。

 

1571年(元亀2年)

尼子再興軍の襲撃によって在番した戸上城が一時落城とされる。

 

伯耆志 観音寺村の条

(略)天正中、吉川氏当郡領主の時、古引長門守在城せしか後、米子に転ず。古引氏の事は實久村の下に記す。

 

1582年1月19日(天正9年12月25日)

伯耆国八橋城にて杉原盛重が没する。

同年、杉原景盛の叛意を理由に杉原家が改易されたため吉川広家の臣下となる。

 

1588年(天正16年)

吉川広家の被官として会見郡(口会見)3万石の知行を命じられる。

米子城飯山城)の城代となり、戸上城石井城も管轄となる。

吉川広家は出雲国月山富田城を本城として隠岐、出雲、西伯耆の3郡を治めており、その中で西伯耆の委任統治を任されたとするならば吉川家より杉原盛重に劣らない信頼を得ていたことを伺わせる。

伯耆民談記では「古引長門守吉雅、一本には吉川長門守吉雅」とあり、吉川氏との婚姻関係も推測される。

鳥取藩史では吉川広家の命により飯之山城を築き、飯山城の城代であったとしている。

 

1589年(天正17年)

米子城の城域内(現在の城山大師向かいの医療施設周辺の字名が浄昌寺)に母、浄昌院の菩提寺となる覚応院浄昌寺を建立。

湊山と飯山の中間ほどに立地し、砦としての機能を持たせたことが推定される。

 

1591年(天正19年)

会見郡3万石の知行に更に3万石が加増され西伯耆6万石を拝領したとする。

隣接する日野郡と汗入郡の一部を加増されたと考えられるが古曳氏の一族による管轄は少なく、会見郡の大部分と日野郡は進氏、汗入郡は角盤山大山寺に関連する進氏の一族など縁戚に当たる勢力が間接統治を行っていたものと推測される。

同年、米子城の築城(拡張)命令を受け飯山城へと移り、築城奉行の山県九左衛門と共に城郭の設計に着手している。

 

覚應山本教寺 寺伝

文禄元壬辰年、太閤秀吉公に従名、同十一月朝鮮国に於いて討死。

 

1592年(天正20年)

唐入りのため朝鮮半島へ出兵する。

 

1592年12月17日(天正20年11月24日)

朝鮮半島での戦没を伝える。(覚應山本教寺 寺伝)

戦場を往来する際は観音寺の仏像一基を背負っていたとされ、この仏像が覚應山本教寺の本尊と伝える。

法号については以下の2号が見える。

「不染院殿實性法蓮日栄大居士」(覚應山本教寺の墓碑)

「不染院殿前長州實性法蓮大居士」(伯耆民談記)

戦没後、吉川広家によって覚応院浄昌寺は灘町北東の高砂付近に移され覚應山本教寺へ改称とする。

慶長年間にも横田村詮による城下整備のため三度移転し現在の場所へと移されている。

 

1593年2月27日(文禄2年1月26日)

一説には碧蹄館の戦いでの戦死を伝える。

 

古曳家の家督は嫡男へと譲られたが、遺訓として「子孫は弓・槍・剣・戟などの武術は一切無用」と遺しており、古曳種秀は吉川家に仕えず實久村で帰農している。

古曳種秀の帰農により家臣への俸禄も賄えないことから家臣団は解体となり、武家としての古曳家は途絶えることとなった。

 

伯耆志 上境村の条

古引長門守吉種の妻、了池院唯性妙蓮大姉を祠るといえり。米子本教寺に位牌あり。始末實久村の下に記す。

 

伯耆志 實久村の条 古引氏墟の項

其地明かならず。古曳又陰徳太平記に小引に作る。当家は文明の頃、箕村進氏の祖、赤松成村に従て播州より当国に来り此地に住す。数代の後、長門守吉種其女を以て進氏に妻す(箕村の下に記す)。当時吉川氏の将として観音寺村戸上城に在番し、又、米子に移る。其母の為に一寺を建立せり。米子本教寺是なり。文禄元年、朝鮮の役に赴き同年十一月廿四日彼地に戦死す後、其妻上境村に閑居し同四年十一月十三日歿す。霊社彼村に在り。其裔榎大谷村に在て古引氏を称す。又、米子尾高町に一家あり。所蔵の系図を故有て榎大谷同姓に伝うと云えり。今之を問うに命辨する所なし。口碑に太閤に仕えて四万石を領し實久村に居ると云えり。然れども当時、当郡は吉川氏の管内にて他の地頭あることなし。又、事蹟も禄に相応せず總て諸書に右等の説なし。然れば只吉川氏の一将たりしなり。位牌の事等彼本教寺の下に記す。

 

伯耆民談記 本教寺の条

(略)内室一族を伴い当郡兼久村傍らなる境という所にて病死す。彼の一族の後胤零落して彼村に今在り。

 

1595年12月13日(文禄4年11月13日)

夫人は上境村にて病死と伝える。

 

夫人の晩年には諸説あり、古市牧野家古文書などで詳細が綴られている。

朝鮮出兵から戻った吉川広家からは遺児と共に養育の打診を受けるがこれを断り、娘と共に毛利氏の殿医であった古市村の牧野家に身を寄せたとしている。

後に牧野氏の計らいで上境村(実久村とも)に閑居を構え、大袋村に庵寺を建立すると仏門へと帰依している。

1595年(文禄4年11月)に入寂とあり、娘は13歳で榎大谷牧野家四男へ嫁付、古曳家を継いだと伝える。

 

郷土史などでは築城の名人とされ、石井要害では水濠の設計、戸上城では法勝寺川(尻焼川)に面した登り土塁など、築城技術に関して豊富な知見、知識を有したことが考えられる。

米子城の設計においても加茂川を用いた内堀と外堀の配置、中海側に面した尾根へ登り土塁(後の登り石垣)の設置など、これまでの築城技術を総動員し海城としての機能を高めたことが推測される。

 

慶長年間

娘は進成行の正室であったと伝える。

大山寺の宝物を横領したとして手配されていた進成行を徳長村に匿っていたが、横田村詮の手勢によって捕らえられ進成行は磔にされている。

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