よみがな
氏族名
まきの し
牧野氏
出身
不詳
氏
不詳
姓
不詳
名
牧野
所属
尼子
▶
毛利
列 伝
医学、薬学に長けた人物を多く輩出したとされる一族で、古くは尼子氏に仕えたと伝える。
尼子氏の滅亡後は毛利氏の殿医として仕えている。
尼子氏が西伯耆を領有した頃は榎大谷周辺(現在の尚徳地区)に居館を構え、出雲国安田要害山城の支城として伯耆国古市城や伯耆国吉谷城の管理を担ったと推測される。
尼子方に与して伯耆国米子城(飯山城)の防衛を担った人物も記述に見えるが毛利方の吉川元春に攻められ、抵抗するも敵わなかったとしている。(伯耆民談記)
西伯耆で毛利氏が台頭し尼子氏が衰退を始めた頃、尼子方に与した勢力の多くは排除されているが一族はそのまま本拠地に安堵されており、所領にも極端な変更は見られない。
尼子氏が滅亡した後は毛利氏の殿医であったと伝わることから米子城(飯山城)で抵抗した一族が存在したものの、医学、薬学の知見に長けたことから続けて重用されたことが伺える。(牧野家文書)
1592年(天正20年/文禄元年)、伯耆国米子城の城代であった古曳吉種が朝鮮半島で戦死。
翌年の1593年(文禄2年)には古曳吉種の夫人と遺児について吉川広家から養育の打診があったとされるが夫人はこれを断っている。
吉川家からの養育を断った夫人に上境村(実久村とも)へ住まいを提供し、古曳吉種の娘は13歳の頃に榎大谷牧野家の四男へ嫁いだとしている。