所 属

尼子

毛利

よみがな

氏族名

まきの し

牧野氏

官 途

出身地

不詳

生 年

没 年

不詳

不詳

列 伝

医学、薬学に長けた人物を多く輩出したとされる一族で、古くは尼子氏に仕えたと伝える。

尼子氏の滅亡後は毛利氏の殿医として仕えている。

 

尼子氏が西伯耆を領有した頃は榎大谷周辺(現在の尚徳地区)に居館を構え、出雲国安田要害山城の支城として伯耆国古市城や伯耆国吉谷城の管理を担ったと推測される。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑之部

一国動乱の透間を伺い大永の頃(大永四年)、雲州より尼子伊豫守経久襲い来たりて当城を始め諸城を討従へ山名氏を破滅して一国悉く尼子の手に入る。かくして尼子衰微の後は芸州毛利氏中国を蠶食して吉川駿河守元春、山陰道征討の先鋒として連年当国へ乱入し城主牧野、戦の功なく又毛利の有となる。

 

永禄年間

尼子方に与して伯耆国米子城飯山城の防衛を担う。

幾度も毛利方の吉川元春に攻められ抵抗するも敵わず毛利方の所領となる。(伯耆民談記)

西伯耆で毛利氏が台頭し尼子氏が衰退を始めた頃、尼子方に与した勢力の多くは排除されているが一族はそのまま本拠地に安堵されており、所領にも極端な変更は見られない。

尼子氏が滅亡した後は毛利氏の殿医であったと伝わることから米子城飯山城で抵抗した一族が存在したものの、医学、薬学の知見に長けたことから続けて重用されたことが伺える。(牧野家文書)

 

1592年(天正20年/文禄元年)

伯耆国米子城の城代であった古曳吉種が朝鮮半島で戦死。

 

1593年(文禄2年)

古曳吉種の夫人と遺児について吉川広家から養育の打診があったとされるが夫人はこれを断っている。

吉川家からの養育を断った夫人に上境村(実久村とも)へ住まいを提供し、古曳吉種の娘は13歳の頃に榎大谷牧野家の四男へ嫁いだとしている。

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