伯耆古城図録

ふるいちじょう

古市城

鳥取県米子市古市 / 鳥取県米子市吉谷

別 名

遺 構

郭跡(腰郭、帯郭)、堀切、土塁、土橋

現 状

山林

城 主

(尼子方)牧野氏

(毛利方)牧野氏

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉)

牧野家古文書

旧成実村史(昭和39年3月)

成実の歴史(昭和61年3月25日)

米子市埋蔵文化財地図(平成6年3月 米子市教育委員会)

縄張図

米子市埋蔵文化財地図に図示あり

 

概 略

古市集落より南側の山頂に所在する。

尼子方の牧野氏が所有した城郭とされるが、出雲国安田要害山城の支城とも伝えられている。

 

城砦に関係する遺構と考えられる痕跡は北側の山中に多く残り、主郭とする北側の山頂部には平削地、その周囲には腰郭と思われる帯郭状の地形が見える。

主郭から尾根を北側に下る道中には土橋(或いは土塁)を左右交互に配した連郭が続き、更に下ると堀切で尾根を断ち切っている。

堀切の北側には比較的広い平削地も見えるが主郭のような腰郭は見当たらず、北へ尾根が続く地形となっている。

主郭へは土橋状の細い尾根しか接続路がないため、この平削地が二ノ丸と推測される。

 

二ノ丸から北に下ると古い墓石が並ぶ区画と寺社跡と考えられる切岸や切通があり、城砦の北限は山際までが想定される。

本丸と二ノ丸が距離を持たせている構造から同じように二ノ丸から距離を置いた寺社跡は三ノ丸に相当すると推測できる。

三ノ丸には寺社跡に由来する造作物の可能性もあるが明確な高低差を持った切岸と北側に対する一文字の土塁が見える。

 

米子市埋蔵文化財地図では北側頂上部に単郭、その北側中腹に堀切、南東に腰郭(帯郭)の図示のみが見え、三ノ丸に当たる場所については触れられていない。

 

安田要害山城の支城と伝えられること、縄張が北側を意識した普請となっていること、北側の麓には雲伯を結ぶ出雲街道が通ることから伯耆国側に備えた城砦であることが想定される一方、伯耆側からの侵攻を受けた場合は城下の集落が最前線となってしまう不具合が考えられる。

戦闘前に城下の非戦闘員を本拠地である榎大谷(吉谷、榎原)へと逃がす時間を稼ぐには山頂の主郭へ敵軍を引き付ける必要性が生じるため、敢えて主郭から二ノ丸、三ノ丸を離していることも推測される。

 

主郭から南側には古道の跡が続き、道中には小規模な平削地や堀切状の痕跡を見かけるが北側ほど明瞭ではない。

牧野氏は榎大谷(尚徳周辺)に拠点を領有していたことから迂回して本拠地の榎大谷(現在の吉谷、榎原)へ続くルートがあったものと推測される。

尚、城砦の所在する地名は山中のピークと尾根で分かれており、西側が古市、東側が吉谷となる。

 

伯耆志 古市村の条 屋敷趾の項

村中畠の字なり。出雲富田の遺臣牧野氏の墟といえり。

 

伯耆志では畑の字名を牧野氏の居館跡としている。

居館跡が麓に所在とするだけで山中の城砦についての記述は見られない。

 

年 表

戦国時代

牧野氏の有した城砦とされる。

地 図

 

写 真

訪城日 2019/07/06、2019/12/21

新山橋北詰交差点からの遠望

北東(吉谷)からの遠望

北(新山)からの遠望

背後には新山(安田)要害

山中北側の墓地

墓地の先に在る寺社跡へ

最上段の堂跡

堂跡の高低差

堂跡の石碑

堂跡には地蔵

堂跡の地蔵

周辺には切通が貼り巡る

北側の切岸

北側の切岸(祠跡の造成と推定)

宝篋印塔

切通(空堀を利用)

古墓跡

古墓跡

墓石の背後に土塁

堂跡から山頂への山道

道中に巨石

二ノ丸の切岸

二ノ丸

二ノ丸

二ノ丸から北側へ続く尾根

二ノ丸から北側へ続く尾根

二ノ丸から北側へ続く尾根

二ノ丸から北側へ続く尾根

北の堀切

堀切(二ノ丸の南)

堀切(二ノ丸の南)

二ノ丸から主郭への道

二ノ丸から主郭への道

東に土橋(左)と西に平坦地(右)

東に土橋(左)と西に平坦地(右)

西に土橋(左)と東に平坦地(右)

土橋状の通路

主郭の虎口

主郭の虎口

主郭

主郭

主郭

主郭と腰郭

主郭と腰郭

主郭と腰郭

主郭と腰郭

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