所 属
赤松
進
尼子
毛利
吉川
杉原
よみがな
氏族名
こびき し
古曳氏
別 名
こびき し
小引氏
伯耆志(徳永村の条)の表記
別 名
こびき し
古引氏
伯耆志(上境村の条)の表記
別 名
こびき し
木引氏
官 途
ー
出身地
不詳
生 年
ー
没 年
ー
氏
不詳
姓
不詳
諱
ー
列 伝
赤松氏の家臣であった古曳永綱を祖とする一族。
伯耆志 實久村の条 古引氏墟の項
1469年~1487年(文明年間)
文明年間、赤松成村に従い播磨国から伯耆国へ入った一族が土着したとある。
播磨国から伯耆国へ入る説には諸説あり、山名政豊による侵攻を受け播磨国から逃亡した赤松成村に従い落延びる説では人物の特定及び伯耆国へ逃亡は明記されていないが、赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ帰郷する際に随行した人物として古曳永綱の名が見える。
1483年~1484年(文明15年12月~文明16年1月)
山名政豊の侵攻を受け赤松成村は播磨国から退去する。
逃亡先のひとつが伯耆国と推測され、赤松成村に従い一族の者が入国し土着したと推測される。
伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項
(略)成村二歳の時、母離別しけるに携えて当家に帰る。(重編応仁記に政則細川勝元に媚て強て彼が生む所の醜女を娶れる由記せり。然れば其時など大帰せしにや)在田氏、小引氏これに従う。(応仁記に山名方に伯耆に小鴨南条進村上とありて其誰なる事を記せず。又、細川方赤松衆の中に在田氏あり。小引氏の事は實久村の下に記す。諸書に此成村を挙ざるは当家に成長し且播磨に働く時も次郎義村に倍従したれば其名遠くは顯われざり故なり。故に陰徳太平記には政則に実子無しとす。義村は七條蔵人元久の子にて政則の嗣たり。永正十七年九月十二日、播磨室津にて浦上村宗に殺さる)
永正十五年(陰徳太平記に據る)成村、義村に従て宇喜田家重が籠れる播磨太田城(赤松記に見ゆ)を攻略し移りてこれに居る。
1496年(明応5年)頃
赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ帰郷する際に随行する。
赤松政則は1496年(明応5年4月)に42歳で死去しているため紀成盛の娘との離縁は死別によるものと推測され、赤松政則の死去に伴う離縁とするならば赤松成村の誕生は1494年(明応3年)頃と考えられる。
播磨国から伯耆国へ移った後の拠点には諸説あり、紀氏譜記では伯耆国石井要害、郷土史では徳永村(徳長村)に居を構えたとある。
1518年(永正15年)
進成村は赤松義村に従い宇喜田家重が籠った播磨国太田城を攻略し、播磨国へ居を移したとある。
伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項
(略)元亀二年二月七日、当家の族、進孫次郎易季、杉原盛重に属し尾高にて尼子勢と戦う。(事は尾高村の下に記す)成季、播磨に在る時、易季及び古引長門守、山中鹿之介、立原源太兵衛、三原為友、渡辺宗三郎等(原書に立原を橘とす。今陰徳太平記に據る)これに属す。(原書に此後、成季の事蹟并死去の年月を記せず。鹿之介は当年の夏、吉川氏に捕えられ尾高より遁れて美作に走る。然れば成季は此前後に播磨へ移りしなるべし)
天文年間~永禄年間
進成季が播磨国を本拠とした頃、古曳永綱は尼子方に属したとある。
1564年(永禄7年)
尼子氏と毛利氏による伯耆国手間要害周辺での合戦では古曳吉種が尼子方に与する。
中村記に古曳吉種は尼子義久の家臣であったとするが、西伯耆での大勢が毛利方に傾くと尼子方を離反し杉原盛重の家臣となっている。
1566年(永禄9年)
杉原盛重の伯耆国尾高城への移転に伴う後任人事と推定され、早い段階で杉原盛重の信用を得ていることとなる。
1571年(元亀2年)
古曳吉種が在番した戸上城が尼子再興軍による攻撃を受け一時落城とある。
1582年1月19日(天正9年12月25日)
古曳吉種は吉川広家の臣下へと移される。
1588年(天正16年)
吉川広家の被官として古曳吉種が会見郡(口会見)3万石の知行を命じられる。
伯耆国米子城(飯山城)の城代となり、戸上城と伯耆国石井城も管轄となる。
吉川広家は出雲国月山富田城を本城として隠岐、出雲、西伯耆の3郡を治めており、その中で西伯耆の委任統治を任されたとするならば吉川家より杉原盛重に劣らない信頼を得ていたことを伺わせる。
伯耆民談記では「古引長門守吉雅、一本には吉川長門守吉雅」とあり、吉川氏との婚姻関係も推測される。
1591年(天正19年)
一説にはこの頃、吉川氏の代官として西伯耆6万石を拝領したとする。
これまでの知行、会見郡3万石から更に3万石の加増とする場合、隣接する日野郡と汗入郡の一部が加増されたと考えられる。
一族が直接統治を行ったとする文書や伝承は少なく、会見郡の大部分と日野郡は進氏、汗入郡は角盤山大山寺に関連する進氏の一族など縁戚に当たる勢力が間接統治を行っていたものと推測される。
同年、古曳吉種は米子城の築城(拡張)命令を受け伯耆国飯山城へと移り、築城奉行の山県九左衛門と共に城郭の設計に着手している。
1592年(天正20年)
古曳吉種は唐入りのため朝鮮半島へ出兵する。
1592年12月17日(天正20年11月24日)
朝鮮半島にて古曳吉種の戦没を伝える。(覚應山本教寺 寺伝)
1593年2月27日(文禄2年1月26日)
一説には古曳吉種の戦死を碧蹄館の戦いでの出来事と伝える。
古曳家の家督は古曳種秀へと譲られるが、古曳吉種の遺訓に「子孫は弓・槍・剣・戟などの武術は一切無用」とあったことから吉川家には仕えず實久村で帰農している。
古曳吉種の妻に対しては吉川広家から遺児の養育について打診があったとするが、これを断り古市村の牧野氏を頼っている。
伯耆志 上境村の条
当村の医師に天野氏、小民に渡邊氏、宮倉氏あり。皆、先祖古引氏の臣と云えり。
古曳種秀の帰農を以て家臣団も解体となり、武家としての古曳家は途絶える。
伯耆志 徳永村の条 小引氏(私称姓)の項
笹畑村長尾氏の先祖、法正寺村に来りし時、彼に従いし一人の苗裔といえり。当主林右衛門と云う。
徳永村の一族の祖については越後国から法正寺村へと落延びた長尾氏(上杉謙信の一族)に付き従った者を称し別系統としている。
慶長年間
大山寺の宝物を横領したとして手配されていた進成行を徳長村に匿っていたが、横田村詮の手勢によって捕らえられ、進成行は磔にされている。