武将列伝帖

こびき し

古曳氏 / 木引氏 / 古引氏 / 小引氏

【氏】不明【姓】不明【名】古曳

別 名

出 身

不明

所 属

赤松氏、進氏、尼子氏、毛利氏、吉川氏、杉原氏

 

- 列 伝 -

赤松氏の家臣であった古曳永綱を祖とする一族。

古曳永綱は1530年(享禄3年)頃、赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ戻る際に随行した人物であり、紀成盛の娘の帰郷に伴って伯耆国へ居住したことから伯耆古曳氏の祖としている。(陰徳太平記など)

伯耆国へ入部後は進氏へ仕えたものと推測され、徐々に基盤を整えていったと考えられる。

 

1564年(永禄7年)、尼子氏毛利氏による伯耆国手間要害周辺での戦に於いて、尼子氏に与する古曳吉種が登場する。

合戦の大勢が毛利方に傾く頃、尼子方から寝返ると杉原盛重の家臣となっている。

古曳吉種尼子氏に仕えたとする記述では中村記に尼子義久の家臣であったとしている。

 

1566年(永禄9年)、古曳吉種が伯耆国戸上城に在番とある。

杉原盛重の後任人事であったと考えられることから早い段階で毛利方の信用を得ている。

 

1571年(元亀2年)、古曳吉種が在番した戸上城が尼子再興軍による攻撃を受け一時落城とある。

 

1582年(天正9年)1月、杉原盛重が没したため古曳吉種吉川広家の臣下へと移されている。

天正年間、吉川広家の被官として3万石を拝領し会見郡を治めたとされるが異説には西伯耆6万石の代官であったともしている。

吉川広家は出雲国月山富田城を本城として隠岐、出雲、西伯耆の3郡を治めており、そのうち西伯耆の委任統治を任されていることから杉原盛重に劣らない信頼を得ていたことが伺える。

伯耆民談記には「古引長門守吉雅」、一本には「吉川長門守吉雅」とし、吉川氏の一族とする記述から婚姻関係も結んでいたと推測される。

 

1588年(天正16年)、古曳吉種戸上城と伯耆国石井城を管轄。伯耆国米子城飯山城)の城代として3万石を拝領し口会見を治めている。

会見郡内で3万石とすると現在の米子市、南部町辺りを任されていたことが考えられ、周辺には多くの伝承が残る。

 

1591年(天正19年)、古曳吉種戸上城に在番し会見郡を治めたとある。一説にはこの頃に吉川氏の代官として6万石を拝領していたとする。

6万石を拝領したとする場合、日野郡か汗入郡の何れかが加算されると考えられるが、両郡ともに一族による統治とする伝承が見えないため誇張された説が考えられる。

同年、古曳吉種米子城の築城(拡張)命令を受けると伯耆国飯山城へ移り、築城奉行の山県九左衛門と共に城郭の設計へと着手している。

 

1592年(天正20年、文禄元年)、古曳吉種は唐入りのため朝鮮半島へ出兵。

同年11月24日、現地にて戦没とされるが、一説には同年11月26日の碧蹄館の戦いでの戦死とも伝える。

家督は古曳種秀へと譲られるが、古曳吉種の遺訓に「子孫は弓・槍・剣・戟などの武術は一切無用」とあったことから吉川家には仕えず實久村へ帰農している。

 

1593年(文禄2年)、古曳吉種の妻に対して吉川広家から遺児の養育について打診があったとするが、これを断り古市村の牧野氏を頼っている。

武家としての古曳家は古曳種秀の代で途絶えるが、子孫は医師や画家となり功績や物語が語られる。

 

伯耆志 徳永村の条 小引氏(私称姓)の項

笹畑村長尾氏の先祖、法正寺村に来りし時、彼に従いし一人の苗裔といえり。当主林右衛門と云う。

 

徳永村の一族の祖については越後国から法正寺村へと落延びた長尾氏(上杉謙信の一族)に付き従った者と称している。

徳永村には娘が正室として嫁いだ進成行が匿われていたが、慶長年間に大山寺の宝物を横領した罪により横田村詮の手勢によって捕らえられ磔にされている。

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