伯耆国 会見郡
とかみじょう
戸上城
所在地
鳥取県米子市観音寺、鳥取県米子市宗像、鳥取県米子市長砂
城 名
戸上城(とかみじょう)
別 名
戸上山城(とかみやまじょう)…所在する戸上山の名称に因む呼称。
観音寺城(かんのんじじょう)…所在した観音寺村の村名に因む呼称。
築城主
久代氏、古曳吉種
築城年
天文年間(1532年~1555年)…伯耆山名氏に仕えた久代氏による築城。
1540年(天文9年)…伯耆山名氏に仕えた久代氏による築城。
廃城年
1602年(慶長7年)
形 態
連郭式山城
遺 構
郭跡、土塁(登り土塁)、堀切、切岸、土橋、櫓台、竪堀、虎口、畝状竪堀
現 状
山林、藤内神社
備 考
史跡指定なし
縄張図
戸上城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻一 大正5年6月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)
因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
米子市談 第三巻(昭和48年7月~昭和50年5月)
成実の歴史(昭和61年3月25日)
旧成実村史
慈眼庵由緒(亀尾八州雄 著)
一般財団法人米子市文化財団埋蔵文化財発掘調査報告書7 鳥取県米子市観音寺狼谷山遺跡(平成27年3月 一般財団法人 米子市文化財団)
年 表
鎌倉時代
鎌倉時代の物とされる出土品(陶磁器の破片など)が見つかっている。
1540年
天文9年
伯耆山名氏に仕えた久代氏による築城を伝える。
築城時期は天文年間(1532年~1555年)と幅を持たせる説も見える。
天文年間
松原氏の居城を伝える。
不明
立原久綱が戸上に居住したと伝える。
1564年
永禄7年
1566年
永禄9年
古曳吉種が当城に在番。
1571年
元亀2年
尼子再興戦では尼子残党の攻撃を受け一時落城とされる。(成実の歴史)
1582年
天正9年
1588年
天正16年
1589年
天正17年
1591年
天正19年
古曳吉種は吉川広家の被官となり、再び当城へと在番し会見郡を治めたとある。
この頃、吉川広家の代官となり6万石を拝領し西伯耆を治めたとも伝える。
天正年間
古曳吉種が治めた頃の四日市村は城下町風の佇まいであったと伝える。
慶長年間
江戸時代後期
この頃以前より戸上山では石切が行われ「其形を失う」とある。(伯耆志)
明治時代
採石のため戸上山の山頂で発破工事が度々行われ、山の形は崩れ昔の姿は無いと記録される。
概 略
日野川を東に望む戸上山の山頂に所在したとされる。
現在は日野川水系法勝寺川(尻焼川)の取水口が麓にあり、農業用水路の米川が東から弓ヶ浜半島へと流れる。
因伯古城跡図志 観音寺村戸上山古城跡
竹木なし。近山御立山有。山後岩山にて嶮岨。下は日野川。山裾に往来有。山高二十間位にして南方へ山続き、草山なり。山上の平地長さ十八間、横八間位。
文政元年調図には観音寺村の戸上山古城跡として記述が見える。
戸上山頂付近(御立山)は幕府或いは藩有地で一般人の立ち入りが禁じられていたとする。
「南方へ山続き、草山なり」の記述は扇山や太鼓山(太鼓叩山)、墓んだ山など太鼓山砦周辺と考えられ、過去に城砦などの施設が所在したことを示唆すると読み取れる。
伯耆志 観音寺村の条
天正中、杉原氏尾高に移す所の観音寺此地に在りし故の村名なり。
伯耆志 観音寺村の条 城跡の項
村の東南、戸上山と呼ぶ。上る事二丁許山上に壹反許の平地ありしか。年々石を切取るか故に今其形を失ふ。往々古剣の類を出す事ありといふ。天文の頃迄、久代氏在城せしといへり。天正中、吉川氏当郡領主の時、古引長門守在城せしか後、米子に転す。
伯耆志では観音寺村の条に村名の成り立ちや城跡についての記述が見える。
古曳吉種が城番として置かれた頃には娘を進氏(進少納言)に嫁がせており、1588年(天正16年)に戸上山へ築城とする伝承も見える。
伯耆民談記 観音寺城之事
長砂郷観音寺村にあり。古城主久代小殿領地なり。
伯耆民談記では城主として久代氏を挙げている。
久代氏による築城は天文年間(1532年~1555年)とされているが、1540年(天文9年)の築城とも推定されている。
伯耆志 箕村の条
成村二歳の時、母離別しけるに携へて当家に帰る。在田氏、小引氏、これに従ふ。進ノ豊前守久住(任の誤)これを養育す。永正十五年※、成村、義村に従て宇喜田家重が籠れる播磨太田城を攻略し移りてこれに居る。元亀二年二月七日、当家の族、進孫次郎易季、杉原盛重に属し尾高にて尼子勢と戦ふ。成季、播磨に在る時易季及び小引長門守、山中鹿之介、立原源太兵衛、三原為友、渡邊宗三郎等これに属す。(略)
伯耆志の箕村の条では陰徳太平記からの引用として小引氏(古曳永綱)の伯耆入りについての記述が見え、元亀年間に戸上へ居した人物として立原源太兵衛の名が見える。
1530年(享禄3年)頃、赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ戻る際に随行した人物に有田氏と古曳氏の名が見え、播磨国での記述から伯耆国へ移った後も古曳氏は尼子方の武将であったことが伺える。
時期は不明ながら進易季は下総、古曳永綱は徳永、立原久綱は戸上、山中幸盛は末石にそれぞれ居を構えたとしている。(成実の歴史)
文中には1518年(永正15年)に赤松成村が進久任に従い播磨国太田城を攻略とあるが、1530年(享禄3年)に赤松成村は二歳とあるので記述の一部に不整合な部分が見られる。
1564年(永禄7年)頃、古曳吉種は尼子方から杉原盛重の臣下となっており、1566年(永禄9年)に当城へ在番とあるが尼子再興戦によって1571年(元亀2年)に一時落城とある。(成実の歴史)
1582年(天正9年)1月、杉原盛重が死去すると古曳吉種は吉川氏の臣下となり、1588年(天正16年)には当城と伯耆国石井要害(石井城)を管理、伯耆国米子城(飯山城)の城代として3万石を預かったとしている。(成実の歴史)
1591年(天正19年)、吉川広家が出雲、隠岐、西伯耆の3郡を領すると古曳吉種は吉川広家の被官となり、再び当城へと在番し会見郡を治めたとある。(成実の歴史)
天正年間、古曳吉種が在番した頃の四日市村は城下町風の佇まいで鍛冶(刃物や農具)が主な産業であったと伝える。
伯耆志 四日市村の条
当村は往古戸上城下の町にて尻焼川サガリバと呼ぶ所に橋有りしか度々の洪水に転變(てんへん)して其跡を遺さず。今、橋杭など其地方より出つる事ありといへり。彼城廃滅して後、村民米子に転住す。今の四日市町是なり。
伯耆志の四日市村の条では日野川の氾濫による村の消滅に関する記述が見える。
当城の城下町として栄えた四日市村は度々日野川の氾濫に悩まされており、日野川の転流路図から1702年(元禄15年)までには城から南東、現在の法勝寺川の中洲あたりにあった村は跡形残らず流されてしまったようである。
湊山に新城となる米子城が完成すると四日市村の住民を移住させるための町が米子城下に宛がわれている。(伯耆国尾高城のように横田村詮の主導による強制的な移住かは不明)
町名は移住元となった四日市村から取って四日市町と名付けられ今日まで存続しており、主産業を鍛冶としたことから「鍛冶町」とも呼ばれる。
江戸時代、荒尾氏の治世になると米子町政のため集落には町会所が置かれ、町年寄以下の役人が月番で藩からの触れ書きの伝達、請願書の取次、諸々の許認可など事務業務にあたったとされる。
伯耆志捜図には天空へ続く回廊のような城として描かれているが、伯耆志成立の頃には既に戸上山では石切が頻繁に行われ標高も大きく下がっていたようである。
明治時代も採石のための発破が度々行われ、近年も山陰道の敷設や電力線の鉄塔敷設の工事による破壊が伴い昔の姿を留めていないが、「村内安全像」が鎮座する頂上から数えて7段の郭が残る。
現状の残存遺構からは単郭の小規模な城郭と見えるが、平成25年の観音寺狼谷山遺跡の発掘調査によって南に続く太鼓叩山に中世城砦の遺構が確認されている。
この発見により当城も城下町を持った城郭として米子城や尾高城に次ぐ規模が考えられ、城域が大きく見直される可能性がある。
周辺からは鎌倉時代の陶磁器の破片や室町時代以降の遺物と考えられる大筒の鉛弾も出土しており、古くからの生活や戦の痕跡も伺える。
法勝寺川(尻焼川)に面した丘陵の郭跡の東側には登り土塁と考えられる土塁が配してあり、水濠に対する防御が伺える。
この施設を古曳吉種の考案と仮定すると水軍運用を考えた米子城の登り石垣の発案者は古曳吉種の可能性も僅かに推測される。
(吉川氏はこれより以前に但馬国竹田城での合戦で登り石垣の知識を得ていると推定される)
見どころ
堀切(山中4箇所)
頂上部から数えて7段の郭跡が見え、西側に通路を設け東側の郭を土塁に見立てることで登り土塁とする運用も推測される。
江戸中期以降の石切や明治時代の発破、自然崩落により郭跡の往時の幅は不明ながら伯耆志の挿絵、捜図から推定するとそこまで大きく変わらないと推定される。
北の登山口から1段目と2段目の郭跡の間、3段目と4段目の間、4段目と5段目の間、5段目と6段目の間の計4箇所に東側から掘られた堀切或いは竪堀が現存するように見える。
1段目、2段目(北6郭、北5郭)の郭跡は観音寺古墳群で古墳の跡とされる。
(1段目は郭と認定していない書籍もあるため、その場合は2段目を1段目と置き換える)
社跡の石垣(頂上部北西)
村内安全像が鎮座する場所から北西の場所に社か小祠の跡と推測される石積みが所在する。
社跡であれば伯耆志にある八幡宮跡の可能性もあるが金属製ワイヤーで固定されており、そこまで古い石組みではないと伝えられることから直下の藤内神社に合祀された小祠の名残とも考えられる。
伝・刀研井戸(刀研場、字大﨏)
城砦から西の山裾(字大﨏)には刀研場と伝えられる鍛冶場跡があり、1m程度の水溜りが残っていたと「慈眼庵由緒」(亀尾八州雄 著)に記述が見えるが正確な場所は不明。
重機の往来によって徹底的に踏み荒らされ、破壊されてしまったとの証言があるため現地付近に見られた畦のような土壁が水を蓄えるための遺構かは不明。
写 真
2018年11月14日
遠望
遠望
遠望
遠望
写 真
2013年5月21日、2015年3月22日、2015年8月29日、2018年4月22日