よみがな
人物名
ふくより みすけ よしくら
福頼三助吉蔵
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
菅原
姓
朝臣
名
福頼
通称
三助
諱
吉蔵
官途
不詳
別名
福頼吉蔵(ふくより きちぞう)
村上三助(むらかみ みすけ)
所属
毛利
吉川
列 伝
福頼元秀の二男。
父、福頼元秀と共に毛利方へと与し、伯耆国香原山城の戦い、朝鮮への出征に於いては蔚山の戦いで戦功を挙げている。
伯耆志 宮本氏の条(毛利元次 感状)
昨日之御手柄無非涙様子 粟五郎左衛門具申聞せ候 猶我等満足此事二候 彌御心懸肝要候 頓而大坂に披露仕御書を可被成候 猶以面可申述候 恐惶謹言 八月廿五日 元次(判) 村上三助殿 御陣所
1585年(天正13年)7月、西伯耆に駐屯していた毛利方の軍勢が四国征伐のため手薄になった隙を狙い、行松氏の正当な後継を称する行松二郎四郎が手勢千騎余りを率いて汗入郡へ侵入したため、香原山城周辺で抗戦したとされる。
開戦当初からの籠城か、行松二郎四郎の攻撃を受け落城した後の恢復戦に於いて援軍として馳せ参じたかは不明だが毛利元次より感状を賜っている。
伯耆志では感状に注釈があり、「三助は吉蔵なり」と「福頼吉蔵」と「村上三助」は同一人物としている。
伯耆志 宮本氏の条(毛利秀元 書状)
福頼吉蔵事 今度蔚山令籠城夜日粉骨仕殊家中七八人討死之由二候 間先々差戻し委細安國寺福越前可被申上候 此由可有御披露候 恐惶謹言 正月六日 秀元(判) 榎中殿
伯耆志 宮本氏の条(安國寺恵瓊 福原広俊 推挙状)
福頼吉蔵事 今度蔚山籠城仕夜日粉骨之由候 殊家中七人討死仕候 其上道具以下悉相損 当座御公役難相成仕合候條先々差戻候て被可御意事尤奉存候 此由可預御披露候 恐惶謹言 正月七日 安國寺恵瓊(判) 福式少廣俊(判) 榎中太
伯耆志 宮本氏の条(榎中務太輔 推挙状)
御吹挙之前致披露被成御書候 真今度御籠城御苦労之段一入御感悦候 好々可申旨候 恐々謹言 五月十四日 榎中太(判) 福頼吉蔵殿 御返報
1597年(慶長2年)、朝鮮出兵では父の福頼元秀と共に朝鮮半島へ渡海し戦功を挙げている。
蔚山の戦いでは籠城戦に於いては物量で攻め寄せる明、朝鮮の連合軍を悉く撃退し、友軍の到着まで城を保った功績から安国寺恵瓊、福原広俊より豊臣政権の重臣、榎中務太輔へ宛てた推挙状が発給されている。
伯耆志 宮本氏の条(豊臣秀吉 朱印状)
今度蔚山面敵被詰取候 所直粉骨の由従安國寺申越候 被聞召屈神妙被思召候 猶増田右衛門尉 石田治部少輔可申也 正月廿六日 朱印
宍戸備前殿 福頼吉蔵殿 三津攝津守殿 天野五郎右衛門殿 内藤修理殿 平賀木工殿 成羽孫兵衛殿 有地民部殿 浅口勝九郎殿 吉見長二郎殿 三吉太郎左衛門殿 日野新二郎殿 口羽木工殿 石賀市郎殿
1598年(慶長3年)1月26日、豊臣秀吉朱印状では蔚山城の戦い(1598年1月29日~2月9日(慶長2年12月22日~慶長3年1月4日))にて戦功のあった毛利家の家臣を賞した書状に名が見える。(伯耆志、毛利家文書 第914号)