よみがな
人物名
やぶき しろう ひょうえ
屋葺四郎兵衛
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
名
屋葺
通称
四郎兵衛
諱
不詳
官途
兵衛尉
所属
毛利
杉原
▶
毛利
吉川
列 伝
吉川氏に与した武将。
一族は備後国の国人で、神辺周辺に杉原氏より知行地の坪付を受けていることから杉原氏の家臣であったとも考えられる。
伯耆国江美城の戦いでは山縣四郎右衛門の部将とされる。(陰徳太平記)
1564年(永禄7年)8月1日、杉原盛重への検使として今田経高が派遣されると吉川方の増援部隊として美保関から出航するが暴風雨に阻まれ渡海ができず、出雲国の福良、或いは伯耆国の外江の軍港へと押し流され四日間の足止めを受けている。
同年8月5日、舟の修理を終えると再度出航し、同日の夜半には戦場へと到着。山縣四郎右衛門に従い城主の居館を放火したとある。
放火の際には居館に守兵は居らず、抵抗も全くなかったことから既に蜂塚義光らは詰城へと移動した後としている。
同年8月6日、尼子方の立て籠もる江美城への総攻撃が始まり、同年8月8日までに城主の蜂塚義光は自刃し落城とある。(陰徳太平記、森脇覚書、三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))
陰徳太平記では1565年(永禄8年)の出来事としており、伯耆志、伯耆民談記など陰徳太平記から引用した書物も準じた年号となっている。
吉川方の増援を率いた部隊長に対しては吉川元春から戦功を大きく称されたが、荒天の最中に舟を出し、渡海に於いて大きな損害を出したことを咎められており、山縣四郎右衛門が45日ほど出仕を禁じられていることから副将であった自身も謹慎処分を受けたことが推測される。(陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事)
江美十七夜物語(井上中山香 著)では創作による一部改変があり、城主の居館への放火は今田経高によるものとして自身は向山に布陣している。
合戦中は手綱岩へ移ると日野川沿いに長大な陣地を展開している。
上流は相見ヶ淵、下流は伯耆国美女石城に至るまで日野川岸を封鎖しており、合戦が終結するまで日野川沿いで戦闘を続けたとある。