よみがな

人物名

はちつか うえもんのじょう よしみつ

蜂塚右衛門尉義光

出身

伯耆国日野郡

生年

不詳

没年

(森脇覚書、三吉鼓家文書)1564年(永禄7年)8月8日

 

(陰徳太平記、伯耆民談記)1565年(永禄8年)8月8日

朝臣

蜂塚

通称

右衛門尉

義光

官途

右衛門尉

所属

尼子

蜂塚

毛利

蜂塚

尼子

蜂塚

列 伝

伯耆国日野郡に勢力を有した国人衆、蜂塚氏の四代目当主とされる人物で伯耆国江美城の四代目城主とも表現される。

蜂塚丹波守の子と伝えられ、伯耆民諺記(伯耆民談記にも同様)にのみ諱が「義光」と記述される。

 

1560年(永禄3年)12月、尼子晴久が没する前後、尼子氏毛利氏との和議(雲芸和議)を結ぶが毛利氏から半年ほどで破棄されている。

尼子氏の衰退が顕著化すると尼子方に与した伯耆の国人衆も次々と毛利方へ与する事態となり、蜂塚氏も尼子方を離れ毛利方へと恭順している。

 

1562年(永禄5年)11月、尼子方の旧臣であった降将の本城常光ら一族が毛利氏により殺害される。

先年に毛利方へと寝返った伯耆の国人衆の一部は本城常光と同様に粛清が及ぶことを疑い、再び尼子方へと与する勢力が現れると蜂塚氏も尼子方へと与することとなった。

 

1563年(永禄6年)7月3日、毛利方が駐屯する軍事拠点であった伯耆国河岡城を尼子方の軍勢が攻撃した際、河岡城へと増援に向かう毛利方の軍勢に対して軍勢を率いて妨害を行なったとされる。

毛利方の増援には伯耆国尾高城周辺に駐屯していた伯耆国生山城の城主であった山名藤幸も参陣していたことから、後の「日野衆の逆心」へと繋がる邂逅があったことも推測されるが、登場する蜂塚入道が同一人物か否かで状況の背景が異なることも考えられる。

 

1564年(永禄7年)或いは1565年(永禄8年)8月1日に毛利方の杉原盛重山田満重二宮杢介森脇右衛門尉らが兵3,000騎を率いて美保関から出航するが荒天に阻まれ計画通りの渡海ができず、福良や外江の港で四日間停泊して破損した舟の修復などを行っている。

雲陽軍実記では福良山と記され、伯耆国の外江の他に出雲国側へ流された船団があったことを記している。

同年8月5日の夜半、毛利方の山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛らの夜襲により居館へ火が放たれるが、既に味方の将兵と共に詰城へと移動した後で人的な被害はなかったとしている。

同年8月6日、江美城の本丸へ対して毛利方の総攻撃が行われる。

同年8月8日、江美城の本丸にて自刃、落城とある。

自刃の際、最後まで付き従った70余名の助命を求めるも降伏は叶わず全員殺害されたと記される。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

森脇覚書や三吉鼓家文書などの書状では1564年(永禄7年)、陰徳太平記や伯耆民談記の軍記物や地誌では1565年(永禄8年)の出来事としている。

 

陰徳太平記では尼子方から毛利方に寝返った後、再び尼子方へ寝返る事となった己の不義を後悔する描写があり、義侠の士とする評が見える。

毛利方との最終決戦を前にして明らかな劣勢の中、命が惜しい者や残される妻子を不憫に思う者に対して「士は渡り者なり」として、毛利方への降伏を勧める部下思いの主君であったことが強調されている。しかし、杉原盛重山田満重が出撃する8月朔日の時点で毛利方へ降伏する道は閉ざされていた可能性が高いことも伺える。

江美城への総攻撃が始まる前に付き従う部下に対して毛利方への投降を勧めているが、毛利方は降伏を一切許さない方針であったことが読み解ける。

陰徳太平記では「雑兵共堪え兼て城外へ颯と崩れ出でけるを追い詰め一人も残不打取りければ蜂塚はとても叶わじとや思ひけん腹搔き切て失せにけり。杉ノ原今田、二宮等は数百人が首を捕りて気色ばって帰りける」、森脇覚書では「蜂塚へ被懸、切崩し、無残打果、頸百余討取候」とあり、城内に残った将兵は尽く討ち取られたことが記されている。

 

陰徳太平記は毛利家や吉川家の家格の宣伝を意図した側面があるため、敵対する勢力や人物に対する評価は総合的に低い場合と結果的に毛利家や吉川家の評価を上げる意図が多分に含まれている場合とに分けられる。

これに対し江美城の戦いに関する項目では毛利方から寝返り最期まで尼子方に殉じた人物として格別高く評価されていることから、特別な武将として印象付けされる希有な例と考えられる。

毛利方を離反し尼子方へ殉じた一因には1562年(永禄5年)の本城常光の粛清を目の当たりにし、例え毛利方に功があっても降将に対する冷遇は避けられず、再度毛利方へ降ったとしても粛清に脅える日々を過ごすことになるのではないかと感じた結果、「義」や「忠」という精神的な理由からではなく否応なく尼子方に殉ずる道を選択せざるを得なかったことも推測でき、この状況を哀れに感じた香川景継による後世の脚色とも考えられる。

 

江府町誌に見える伝承には江美城が落城する前後、東の間道(隠し通路)を使い大山寺領方面へ妻のお市と子ども達を逃がそうとしたが、現在の市ヶ坂付近で殺害され一族は滅亡したとされる。一説には末子が逃げ延び、後に子孫が吉川氏に仕えたとする言い伝えも残る。

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