所 属

尼子

蜂塚

毛利

尼子

よみがな

人物名

はちつか うえもんのじょう よしみつ

蜂塚右衛門尉義光

伯耆民諺記に諱を記述

 

別 名

はちつか うえもんのじょう じゅうべえ

蜂塚右衛門尉十兵衛

蘆立家霊祀での表記

 

通 称

はちつか うえもんのじょう

蜂塚右ヱ門尉

江尾十七夜の概要文などの略字

官 途

右衛門尉(伯耆志、伯耆民談記、雲陽軍実記など)

出身地

伯耆国日野郡

生 年

不詳

没 年

1565年9月2日(永禄8年8月8日)※複数説あり

朝臣

義光

列 伝

伯耆国日野郡に勢力を有した国人衆、蜂塚氏の四代当主とされ、伯耆国江美城の四代目城主とも表現される。

蜂塚丹波守の子と伝えられ、伯耆民諺記(伯耆民談記にも同様)には諱が「義光」と明記されている。

 

日野郡史 前編 江尾の江美城の項

字城の上に在り。西に面し高岳なり。天文五年、蜂塚右衛門尉藤井蔵人居城。此の落城は陰徳太平記、日本外史に詳なり。

 

1536年(天文5年)

藤井蔵人と共に江美城への居城を伝える。

日野郡史の記述では字「城の上」を江美城とし、天文年間には本城の機能が字「銀杏ノ段」から字「城の上」の江美城へ移っていたと解釈でき、字「土居ノ内(江尾全図の表記は土井の内)」が居館跡としている。

 

1560年(永禄3年12月)

尼子晴久が没する前後、尼子氏毛利氏との和議(雲芸和議)を結ぶが毛利氏から半年ほどで破棄されている。

尼子氏の衰退が顕著化すると尼子方に与した伯耆の国人衆も次々と毛利方へ与する事態となり、蜂塚氏も尼子方を離れ毛利方へと恭順している。

 

1562年(永禄5年11月)

尼子方の旧臣であった降将の本城常光ら一族が毛利氏により殺害される。

先年に毛利方へと寝返った伯耆の国人衆の一部は本城常光と同様に粛清が及ぶことを疑い、再び尼子方へと与する勢力が現れ蜂塚氏も尼子方へと与することとなった。

 

1563年7月22日(永禄6年7月3日)

毛利軍の駐屯地であった伯耆国河岡城を尼子方の軍勢が攻撃した際、河岡城へと増援に向かう毛利方の軍勢に対して妨害を行なったと伝える。

毛利方の増援には伯耆国尾高城の城主であった山名藤幸も参陣しており、彼との邂逅が後の「日野衆の逆心」へ繋ったとも推測される。

登場する蜂塚入道が自身と同一人物か否かで状況の背景が異なることも考えられる。

 

伯耆志 江尾村の条 城跡の項

東祥寺の上の山なり。尼子氏の草創なり。陰徳太平記に曰く、伯耆江美城蜂塚右衛門尉は先年尼子を背て毛利家の命令を請たりしか本庄父子か誅せられし時より又志を返して本の尼子の幕下に成ぬ。かくて富田城中勢衰へて頼むかひなく成けれは蜂塚が一族共今は早尼子の為に義を建たりとも行末に於て其の益無るへし。只、再毛利家へ降参の縁を求められ候へと諫言を納れたりけり。されとも蜂塚は吾累年の好みを忘れ毛利家に腰を折つるさへ思へは志士義人の耻る所なるに。さらは其のままにて有りも果てす。又本の尼子に帰服せし事是又千悔万悔なり。然るに尼子の滅亡近きにあるへしと見て又弱を捨強に附ん事、人間の色身を受けたる物は為さざる所にして禽獣夷狄の心とや云うべき。かかる時節に至て貞節を守り討死したらんこそ。せめて旧悪を少しは蓋う便りともなる可し吾(原本此所江尾古城図有省略之)義心爰に極れり。命惜く妻子も不便に思はんとする者共は悉く毛利家に降り候へ。士は渡り物なり。何そ恨とも思ふへき吾は一人たりといへとも当城を枕として善道の死を守るべきなりと云ひけれは家の子郎党共皆此儀に心服し一向に討死と思切て居たりけるを去程に蜂塚尼子の旧盟を不変とかく戦死せんと儀定して在る由聞えける間吉川元春より杉原播磨守盛重に彼城攻落すへき由下知せられ検使として今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添られにけり。各永禄八年八月朔日、雲州三保関より舟に取乗り押渡らんとしける時節俄に狂風吹来り迅雨盆を傾けて振出怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩ふて暗く舟己に覆らんとしける故。力不及漕戻し、福良、戸ノ井に四日滞留して討損せられし舟共修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛等を相伴ひ蜂塚か館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故可防者一人も無りけり。翌朝、寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間雑兵共堪兼て城外へ颯と崩れ出けるを追詰一人も不残打取けれは蜂塚はとても叶はしとや思ひけん腹搔切て失にけり。杉原今田、二宮等は数百人の首を捕て気色はふて帰ける處に元春、各江美城攻取事は粉骨の忠なりといへとも大風暴雨に舟とも無理に出し多くの兵をも失んとせし事甚奇怪の曲事なりと以ての外に憤り給ひ今田、二宮、森脇、山縣等四十五日か程は出仕をそ止られけるとみえたり。此の後の事詳ならず。口碑には蜂塚氏の後、生山某一代、荒木刑部一代、今田左衛門尉、其後吉田佐太郎藤江蔵人なと云う人在城せし由云伝う。東祥寺の側に成道寺と呼ぶ地あり。古墳あれとも伝なし。

 

陰徳太平記 巻之三十九 伯州江美之城没落之事

伯耆国江美ノ城主、蜂塚右衛門尉は先年尼子を背いて毛利家の命令を請けたりしが本庄父子が誅被ずるより、又志を反へして本の尼子の幕下と成りぬ。如斯て富田城中、勢い衰えて頼むかい無く成りければ蜂塚が一族共今は早や尼子の為に義を建てたりとも行末に於て其益無かるべし。只再び毛利家降参の縁を求められ候えと諫言を納れたりけり。され共蜂塚は吾累年の好みを忘れ毛利家に腰を折りつるさえ思えば志士義人の耻ずる所なるに、さらば其ままにて有も果不。亦本の尼子に帰服せし事是又千悔万悔也。然に今尼子の滅亡邇在可(ちかくなり)と見て復た弱きを捨て強きに附かん事人間の色身を受けたる者は成不所にして猛禽夷狄の心とや云うべき。かかる時節に至りて貞節を守り討死したらんこそせめて旧悪を少しは葢う便りともなるべき吾れ疑心爰に極まれり。命惜しく妻子も不便に思わんずる者共は悉く毛利家に降り候え。士は渡り物なり。何ぞ恨みとも思うべき。吾は一人たりと雖(いえども)、当城を枕として善道の死を守るべきなりと云ければ家の子郎党皆此儀に心服し一向に討死と思い切つてぞ居たりける。去程に蜂塚尼子の旧盟を變不(かえず)、兎角戦死せんと議定して在る由聞えける間吉川元春より杉ノ原播磨守盛重に彼の城攻め落すべき由下知せられ検使爰に今田上野介、二宮木工助、森脇市郎右衛門、山縣四郎右衛門等を差添をれにけり各永禄八年八月朔日雲州三保ノ関より舟に取り乗り押し渡らんとしける時節俄に猛風吹き来り。迅雨盆を傾けて降り出て怒潮海岸を穿ち雲霧山を掩うて暗く舟巳に覆らんとしける故、力及不漕ぎ戻し福良、戸之井に四日滞留して打損せられし舟ども修補して同五日又押渡りけり。其夜半、山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛等を相伴い蜂塚が館へ押寄せ放火したりけるに敵は皆館を明捨て城中に籠り居ける故。防者一人も無りけり可。翌朝寄手三千餘騎城の左右の山頂に攀じ登り鉄炮を揃へ散々に撃掛ける間、雑兵共堪え兼て城外へ颯と崩れ出でけるを追い詰め一人も残不打取りければ蜂塚はとても叶わじとや思ひけん腹搔き切て失せにけり。杉ノ原今田、二宮等は数百人が首を捕りて気色ばって帰りける所に元春、各江美ノ城攻め取る事は粉骨の忠也と雖、大風暴雨に舟共無理に出し多くの兵を失わんとせし事甚だ奇怪の曲事也と以の外に怒り給い、今田、二宮、森脇、山縣等四十五日が程は出仕をぞ止られける。

 

雲陽軍実記 毛利所々人数置 并再富田発向端城落る事の条

伯耆国江美城主、蜂塚右衛門尉は先年毛利に降りけるが全く本意に非ず。当時の急難を逃れん為なりとて。又尼子へ帰り無二の志を成しけるが毛利より杉原に下知して城を被攻(せめられ)けるに今田上野介、二の宮杢之助を探り使として被差向(さしむかわされる)。合戦花々敷有けるが小勢にて難渋に及びしかば右衛門尉さわやかに鎧ひ出立終に潔く討死して名を後代に残しける。

 

1564年9月6日or1565年8月26日(永禄7年8月1日or永禄8年8月1日)

毛利本隊の杉原盛重、本隊増援の山田満重、吉川増援の二宮杢介森脇右衛門尉ら兵3,000騎を率いて江美城を目指していたが、美保関を出航した吉川増援は荒天(暴風雨)に阻まれ計画通りの渡海が行えず、無理な渡海により多くの人的、物的損害を出した上で出雲国福良港や伯耆国外江港などへと流されている。

退避した船団は破損した船舶の修理などで4日間程の足止めを受けている。(陰徳太平記、伯耆民諺記)

雲陽軍実記では出雲国の漂着先を福良山と記しており、伯耆国外江の他に出雲国側へ流された船団があったことを記している。

 

和譯出雲私史 巻之五 尼子氏上 義久の条

(略)蜂塚右衛門尉、我が為に伯耆の江美城を守る。

八月五日、杉原盛重来つて之を攻め、右衛門尉之に死し、城遂に陥る。

 

1564年9月10日or1565年8月30日(永禄7年8月5日or永禄8年8月5日)

舟の修理を終えた吉川方の船団が再度出航する。

同日夜半、戦場へ到着した吉川方の部将、山縣四郎右衛門屋葺四郎兵衛らの夜襲により居館へ火が放たれるが、既に味方の将兵と共に詰城へと移動した後で人的な被害はなかったとしている。

出雲私史ではこの日に杉原盛重らが総攻撃を開始し、即日の内に討死したように記されている。

 

1564年9月11日or1565年8月31日(永禄7年8月6日or永禄8年8月6日)

毛利方本隊の杉原盛重山田満重、吉川方増援部隊の今田上野介二宮木工助森脇右衛門尉ら総勢3,000騎を以って蜂塚義光の立て籠もる当城本丸への総攻撃を開始する。

日野川岸や城下に布陣していた吉川方の増援部隊は銀杏ノ段兎丸を占拠し、左右の山上から射撃、銃撃を行い蜂塚方の将兵の逃亡を許さず主郭へと押し留めている。

伯耆民談記では攻撃開始から同日のうちに落城し、蜂塚義光も即日自刃としている。

 

1564年9月13日or1565年9月2日(永禄7年8月8日or永禄8年8月8日)

江美城の本丸にて自刃、落城とある。

自刃の際、最後まで付き従った70余名の助命を求めるも降伏は叶わず全員殺害されたと記される。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

森脇覚書や三吉鼓家文書などの書状では1564年(永禄7年)、陰徳太平記や伯耆民談記の軍記物や地誌では1565年(永禄8年)の出来事としている。

 

※古文書(三吉鼓家文書、日野文書など)では永禄7年(1564年)、軍記物(陰徳太平記、雲陽軍実記など)では永禄8年(1565年)の出来事としている。

 

没日については記述される媒体によって幅があり、8月5日~8月8日の何れかとしている。

陰徳太平記では尼子方から毛利方に寝返った後、再び尼子方へ寝返る事となった己の不義を後悔する描写があり、義侠の士とする評も見える。

毛利方との最終決戦を前にして明らかな劣勢の中、命が惜しい者や残される妻子を不憫に思う者に対して「士は渡り者なり」として、毛利方への降伏を勧める部下思いの主君であったことが強調されている。しかし、杉原盛重山田満重が出撃する8月朔日の時点で毛利方へ降伏する道は閉ざされていた可能性が高いことも伺える。

江美城への総攻撃が始まる前に付き従う部下に対して毛利方への投降を勧めているが、毛利方は降伏を一切許さない方針であったことが読み解ける。

陰徳太平記では「雑兵共堪え兼て城外へ颯と崩れ出でけるを追い詰め一人も残不打取りければ蜂塚はとても叶わじとや思ひけん腹搔き切て失せにけり。杉ノ原今田、二宮等は数百人が首を捕りて気色ばって帰りける」、森脇覚書では「蜂塚へ被懸、切崩し、無残打果、頸百余討取候」とあり、城内に残った将兵は尽く討ち取られたことが記されている。

 

陰徳太平記は毛利家や吉川家の家格の宣伝を意図した側面があるため、敵対する勢力や人物に対する評価は総合的に低い場合と結果的に毛利家や吉川家の評価を上げる意図が多分に含まれている場合とに分けられる。

これに対し江美城の戦いに関する項目では毛利方から寝返り最期まで尼子方に殉じた人物として格別高く評価されていることから、特別な武将として印象付けされる希有な例と考えられる。

毛利方を離反し尼子方へ殉じた一因には1562年(永禄5年)の本城常光の粛清を目の当たりにし、例え毛利方に功があっても降将に対する冷遇は避けられず、再度毛利方へ降ったとしても粛清に脅える日々を過ごすことになるのではないかと感じた結果、「義」や「忠」という精神的な理由からではなく否応なく尼子方に殉ずる道を選択せざるを得なかったことも推測でき、この状況を哀れに感じた香川景継による後世の脚色とも考えられる。

 

江府町誌に見える伝承には江美城が落城する前後、東の間道(隠し通路)を使い大山寺領方面へ妻のお市と子ども達を逃がそうとしたが、現在の市ヶ坂付近で殺害され一族は滅亡したとされる。一説には末子が逃げ延び、後に子孫が吉川氏に仕えたとする言い伝えも残る。

 

蘆立家伝家歴(蘆立家霊祀)

芦立氏
天之児屋根命の孫、中臣朝臣藤原鎌足大人命の末裔と伝う。

天歴年間江美宿に住し、宮市之庄十二ヶ村高氏神若一王子之宮に社祠としてしたりしが永禄八年八月五日、吉川駿河守元春の軍勢江美城に攻め寄せたりし時、庄内守護大名蜂塚右衛門尉十兵衛公に味方なし父子共に江美城にて玉砕せり。

其の後、蜂塚氏の家老、佐保野次郎左衛門が嫡子勘左衛門をして社家を再興、慶長十九年六月庄内大社若一王子之宮の社祠を拝命、名も改めて蘆立山城守藤原朝臣正晴と名乗り家系も改め初代となり現在に至る。

 

宮市神社の社祠を務めた蘆立氏の伝家歴では通称を「十兵衛」としているが、恐らく俣野に明智光秀が落延びた伝説が由来と考えられる。

家歴には誇張や脚色が見受けられるため蘆立家に伝わる通称がどの程度信憑性を持つかは不明。

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