列 伝
蜂塚氏の家老とする一方、蜂塚義光と並び伯耆国江美城の城主ともされる。
伯耆国江美城 宇佐木丸から白尾谷を隔てた南の丘陵西岸に所在した伯耆国江美城 城ノ尾丸の城主と伝わる。
蜂塚氏が尼子方に与した頃は藤井内蔵(藤井蔵人)とし、毛利方に与すると藤江蔵人へと記述が変わっているが同一人物と推定される。
慶長年間には中村家の家臣に同名の人物が存在し、石高6,000石とする重臣となっているが同一人物とするかは不明。
依藤半左衛門と共に倉吉(久米郡)へと移ったことが記されている。(中村記(弐) 稲葉書房 昭和49年6月)
1536年(天文5年)、江美城に蜂塚義光と並び居城したとされ、蜂塚氏と同程度の力を持った一族と推測される。(江美神社社記)
1564年(永禄7年)或いは1565年(永禄8年)、毛利方による江美城への侵攻に際しては一切記述に見えないが、蜂塚氏の滅亡後は毛利方の武将として伯耆国江美城の城番として名が見える。
陰徳太平記では江美城への総攻撃が開始されて以降、尼子方からの将兵の投降を一切許さなかったとする描写が見える。
江美城が毛利方の領有となった後に城番として名が見えることから、事前に調略を受け開戦前後に毛利方へ寝返っていた可能性が推測される。