所 属

尼子

蜂塚

毛利

よみがな

人物名

ふじい くらのかみ

藤井内蔵頭

 

別 名

ふじい うちくら

藤井内蔵

蜂塚氏の家老。江美神社社記では「内蔵頭」と記述。

 

別 名

ふじい くらんど

藤井蔵人

蜂塚氏の家老。日野郡史では江美城の城主として蜂塚右衛門尉と同格に扱う。

 

別 名

ふじえ くらんど

藤江蔵人

毛利方に与した江美城の城番。

官 途

内蔵頭、蔵人

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

蜂塚氏の家老。

伯耆国江美城 宇佐木丸から白尾谷を隔てた南の丘陵西岸に所在した伯耆国江美城 城ノ尾丸の城主とも伝える。

日野郡史では伯耆国江美城の城主として蜂塚義光と同格で列記されている。

 

1536年(天文5年)

江美城に在城した人物として蜂塚義光と列記される。

蜂塚氏と並ぶ勢力を持った一族と推測される。(江美神社社記)

 

1564年(永禄7年)或いは1565年(永禄8年)

江美城の戦いにおける詳細は不詳だが蜂塚氏の滅亡後、毛利方が領有した江美城の城番のひとりとして名が挙げられる。

陰徳太平記では江美城への総攻撃開始後、尼子方からの将兵の投降は一切許されなかったとする描写が見えることから戦前に調略を受け毛利方へと内通し、蜂塚氏とは距離を置いていたと考えられる。

合戦中の記述には登場しないことから居城であった江美城 城ノ尾丸を拠点として後方支援に徹し、江美城が毛利方の領有となった後は周辺村落の人心掌握のため城番に置かれたとも推測される。

 

蜂塚氏が尼子方に与した頃は「藤井内蔵(藤井内蔵頭)」、毛利方に与すると「藤江蔵人」へと表記が変わっているが同一人物と推定されている。

慶長年間には中村家の家老に藤江蔵人とする禄高6,000石の重臣も登場するが、駿府の頃より中村一氏の家老であることから別人と考えられる。

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