所 属
伯耆山名
日野山名
▶
尼子
▶
毛利
▶
尼子
よみがな
人物名
やまな せっつのかみ ふじゆき
山名攝津守藤幸
別 名
かげやま ふじゆき
陰山藤行
作陽誌での呼称
別 名
ふじわらのふじゆき
藤原藤幸
作陽誌の俣野の屋敷跡の伝承
官 途
攝津守
出身地
伯耆国日野郡か
生 年
不詳
没 年
1569年(永禄12年)
氏
源
姓
朝臣
諱
藤幸
列 伝
伯耆志では「フヂユキ」なる人物が伯耆国俣野ノ土居城の城主と伝承に伝えるとある。
山名豊幸或いは山名是幸を父とするが、系図により異なり明確な血縁関係は不明。
永正年間~大永年間
尼子氏が伯耆国日野郡の懐柔に及んだ頃、尼子方に与したと推定される。
尼子方に与して暫らくは生山城の城主とされるが、後に城の明け渡しを要求されている。
生山城の城番として尼子方の中井久家、米原綱寛が置かれたため、俣野ノ土居城へと居城を移したと推測される。
1558年~1559年(永禄元年~永禄2年)頃
尼子氏から離反し毛利氏へと与する。
同年10月~11月頃、家臣団から毛利方へ人質を差し出すよう進言を受けている。
尼子氏から離反した際、尼子方に押さえられていた生山城を取り返す算段は無かったようで、この時は備後国の宮氏を頼っている。
萩藩閥閲録 毛利元就 毛利隆元 連署書状(永禄五年六月十八日)
出張之儀彼是為相談。昨日粟木工、其許江差遣候処に法泉寺爰元被越候間、猶以可然得其心候。今日爰許被立候様にと存候。万得其心候。又伯州之儀日野本城之事、山名摂津守殿久代出候而仕取候。雲州番衆中井平三兵衛尉、米原平内罷退候。又従作州衆茂懇望之由候而爰許使者下着候。東口如此成行候間可然候。委細従法泉寺可被申遣候。謹言。
六月十八日
輝元(御判)
元就(御判)
山縣木工助殿
国司雅楽允殿
1562年(永禄5年6月)
毛利方の宮景盛に従い生山城を攻撃し、尼子方の城番であった中井久家と米原綱寛を撤退させている。
毛利氏からは日野郡(当城)、会見郡(伯耆国尾高城)を所領として与えられ、以降は対尼子戦線に軍役とする。
1563年(永禄6年7月)
伯耆国河岡城を巡る対尼子戦では杉原盛重、宮景盛と共に毛利方の援軍として出陣する。
この頃、尼子方に与した残存勢力は日野衆の蜂塚氏の軍勢であり、出雲国月山富田城への糧道確保のため出陣していた蜂塚義光との邂逅が後の叛心に繋がったとも推測されている。
1564年9月13日(永禄7年8月8日)/1565年9月2日(永禄8年8月8日)
(森脇覚書、三吉鼓家文書)1564年9月13日(永禄7年8月8日)
(陰徳太平記、伯耆民談記)1565年9月2日(永禄8年8月8日)
尼子方の伯耆国江美城が陥落し城主であった蜂塚義光は自刃する。
本城常光、蜂塚義光など尼子方からの降将に対する扱いに不信感を抱いたことが推測される。
1569年(永禄12年)
尼子再興軍に呼応して毛利方から離反する。
尼子方の出雲侵攻を支援するため親尼子派の在地国人衆(日野衆)と共に反旗を翻すが宮景盛に討ち取られた。
日野山名氏及び日野氏の家督は宮景盛の二男、宮景幸が継承する。
暫くは日野氏を称して存続するが、後に小早川家の家臣となり当地を離れたため武家としての日野山名氏は消滅することとなった。
異説に「日野の逆心」とする反乱ではなく、本城常光、蜂塚義光と同様に尼子方からの降将であることを理由とした謀殺であったとも疑われる。
作陽誌
相伝伯州庄山城主陰山藤行者軍敗而走到此自殺其末在雲州
作陽誌には「伯耆国庄山の城主、陰山藤行の軍勢が敗走し辿り着いたこの地で自刃する。子孫が出雲国に住む」とあり、補足として俣野には藤原藤行の伝説と屋敷跡があったとしている。