武将列伝帖

やまな せっつのかみ ふじゆき

山名攝津守藤幸

【氏】【姓】朝臣【名】山名【通称】攝津守【諱】藤幸

別 名

陰山藤行(かげやま ふじゆき)

藤原藤幸(ふじわらのふじゆき)

出 身

不明

官 途

攝津守

所 属

生 年

不明

没 年

1569年(永禄12年)

 

- 列 伝 -

伯耆国生山城の城主。伯耆志では「フヂユキ」なる人物として伯耆国俣野ノ土居城の城主のひとりとして伝承に伝えられる人物。

山名豊幸或いは山名是幸の子とされ、日野山名氏の六代当主と伝える。

 

伯耆山名氏の衰退と同じ頃、日野郡を掌握した尼子氏に与したとされる。

尼子方に与しても暫らくは生山城の城主であったとされるが、後に城の明け渡しを要求され尼子方の城番が置かれた頃から俣野ノ土居城へと居城を移した可能性が考えられる。

 

1558年~1559年(永禄元年~永禄2年)頃、尼子氏を離反し毛利氏へと与する。

同年10月~11月頃、家臣団から毛利方へ人質を差し出すよう進言を受けている。

尼子氏から離反した際は尼子方の城番によって押さえられていた生山城を取り返す算段は無かったようで、この時は備後国の宮氏を頼っている。

 

1562年(永禄5年)6月、毛利方に与して宮景盛に従い生山城を攻撃し、尼子方の城番であった中井久家米原綱寛を撤退させている。

以後は拠点として接収し、周辺の尼子勢力の掃討を行っている。

 

1563年(永禄6年)7月、伯耆国河岡城を巡る対尼子戦では杉原盛重宮景盛と共に毛利方の援軍として出陣している。

この頃、尼子方に与した残存勢力は同じ日野衆であった蜂塚氏の軍勢であり、出雲国月山富田城への糧道確保のため出陣していた蜂塚義光との邂逅が後の叛心に繋がったとも云われている。

 

1564年(永禄7年)8月、毛利方を離反し尼子方へと寝返った伯耆国江美城が陥落し城主であった蜂塚義光は自刃。

本城常光蜂塚義光など尼子方からの降将に対する扱いに不信感を抱いた可能性が推測される。

 

1569年(永禄12年)、尼子再興軍に呼応して毛利方から離反。

尼子再興軍の出雲国侵攻を支援するため、親尼子派の在地国人衆(日野衆)と共に反旗を翻すが宮景盛によって討ち取られた。

日野山名氏の家督は宮景盛の二男、宮景幸が継承し日野氏を称して存続するが、後に小早川家の家臣となり当地を離れたため武家としての日野山名氏は消滅することとなる。

異説には本城常光蜂塚義光と同様に尼子方からの降将であることを理由とした謀殺であった可能性も疑われている。

 

作陽誌

相伝伯州庄山城主陰山藤行者軍敗而走到此自殺其末在雲州

 

作陽誌には「伯耆国庄山の城主、陰山藤行の軍勢が敗走し辿り着いたこの地で自刃する。子孫が出雲国に住む」とあり、補足として俣野には藤原藤行の伝説と屋敷跡があったとしている。

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