所 属

日野山名

伯耆山名

尼子

毛利

よみがな

氏族名

ひのやまな し

日野山名氏

 

別 名

ひのやかた

日野屋形

室町幕府より認められる

官 途

出身地

伯耆国日野郡

生 年

没 年

朝臣

列 伝

伯耆国日野郡、伯耆国会見郡の一部に勢力を持ち、伯耆国日野本城(伯耆国生山城、伯耆国黒坂要害山城、伯耆国俣野ノ土居城など)を本拠とした一族。

惣領家(但馬山名氏)とは良好な関係を保つ。

 

1381年(弘和元年/永徳元年)

病身の療養を理由に山名義幸が伯耆国日野郡へと下向する。

山名義幸日野本城を蟄居先とし、幕府から日野屋形を称することを許され、日野郡の知行を認められたことで半ば独立勢力となる。

このため山名義幸を祖と伝える。

 

1389年(康応元年/元中6年)

伯耆国守護職であった山名時義の死去により山名氏之が家督の一部を受け継ぐが、不満を抱いた山名満幸によって家督争いとなる。

 

1390年(明徳元年/元中7年)

山名氏之山名満幸に敗れ伯耆守護職を失う。

山名氏之は備後国へと逃亡するが、日野郡の処置については特に触れられていないことから山名義幸は蟄居の身として中立を保ち、続いて日野郡に勢力を維持したと推定される。

 

1393年2月15日(明徳4年1月4日)

明徳の乱で没落した山名満幸の基盤を掌握し山名氏之が伯耆国守護職へ再任する。

山名義幸も続けて日野郡に勢力基盤を有しており、伯耆志では山名氏之と共に伯耆国俣野ノ土居城に居住した可能性を記している。

 

1467年(応仁元年)

応仁の乱による影響で伯耆山名氏の権勢が傾き始めると出雲国の尼子氏が伯耆国内への侵入を活発化させている。

日野郡は山陽方面へ街道が続く要衝地であり、良質な砂鉄の産出地でもあったことから早期の懐柔を受けていたとする。

日野郡の国人衆と尼子氏は比較的良好な関係を築いていたと考えられるが、山名藤幸の頃に本拠地であった日野本城生山城尼子氏へと差し出している。

 

1558年~1559年(永禄元年~永禄2年)

山名藤幸尼子氏を離反し毛利氏へと与する。

同年10月~11月頃、家臣団から毛利方へ人質を差し出すよう進言を受けている。

尼子氏から離反した際、尼子方の城番に押さえられていた生山城を取り返す算段は無かったようで、この時は備後国の宮氏を頼っている。

 

1562年(永禄5年6月)

宮景盛に与して山名藤幸生山城を奪還する。

以降は生山城が周辺の対尼子勢力掃討の拠点となった。

 

1569年(永禄12年)

山名藤幸が尼子再興軍に呼応して毛利方から離反したため宮景盛によって討ち取られる。

家督は宮景盛の二男、宮景幸が相続し日野氏を称したが、後に小早川家の家臣となり当地から離れたことで武家としての一族は消滅することとなった。

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