伯耆国 日野郡

かめいやまじょう

亀井山城

日南 亀井山城

所在地

鳥取県日野郡日南町生山(字城根)

城 名

亀井山城(かめいやまじょう)

別 名

生山城(しょうやまじょう)…永禄11年、杉原盛重が発給した書状に「生山表」とある。

 

庄山城(しょうやまじょう)…伯耆志では「庄山之図」とある。

 

日野本城(ひのほんじょう)…日野山名氏或いは日野氏、久代氏の本拠地に因む呼称。

 

生山本城(しょうやまほんじょう)…因伯地理志に見える。日野本城と同義の呼称。

築城主

山名時氏山名豊幸

築城年

1337年(建武4年 / 延元2年)以降…山名時氏が伯耆国守護職であった頃の築城と推定している。(日南町史)

 

15世紀後半~16世紀前半…日野山名氏の五代当主、山名豊幸による築城を伝える。

廃城年

1614年(慶長19年) … 関一政の居城とする伯耆国鏡山城の完成を以て廃城とする。(日南町史)

 

1615年(元和元年) …一国一城令の発布を以て廃城とする。

形 態

山城

遺 構

郭跡(本丸・二ノ丸・連郭・腰郭・帯郭)、石垣、土塁、虎口(喰違・枡形)、竪堀、堀切、土橋、井戸跡

 

北東を大手とし、尾根を伝って主郭まで連郭が続く。因伯古城跡図志に城の概要が描かれている。

 

本丸と二ノ丸(北側の一段下)、東直下の郭(東尾根との接続郭)などに見える。

 

明確には東尾根谷側の虎口付近と主郭東直下の接続郭に見える。主郭西尾根にも不明瞭だが存在する。

 

二ノ丸(北側の一段下)の西側に存在する。伯耆岩倉城に存在する竪堀と似た構造で急傾斜面に築かれる。

 

東尾根や主郭南側の尾根に所在する。南側は二重堀切で矢穴の残る岩盤も見える。

 

東尾根の谷部に幾つか存在する。何れも1ヶ所が切れていることから増水による破損か溜池として利用された可能性が伺える。

現 状

山林

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

日野山名

山名豊幸による築城とされ、日野山名氏の本拠地のひとつとされる。

城 主

尼子

尼子氏に居城を明け渡し臣従し、暫らくの間は城主であったとされる。

中井久家

尼子方から送り込まれた城番のひとり。

米原綱寛

尼子方から送り込まれた城番のひとり。

城 主

毛利

上原豊将

山名藤幸の留守役として在番する。

城 主

毛利

吉川

宮氏の助力を得て家城を奪還するが後に毛利方から離反したため討伐される。

吉川広家

伝承には城主とされるが伯耆米子城と同様に広義の呼称と考えられる。

山名藤幸の家督を引き継ぎ吉川氏の代官として日野郡に知行を得る。最終的に小早川家の家臣となっている。

城 主

関一政

中村家の断絶によって日野郡5万石を拝領する。

関盛吉

関一政の代官として在城か。(大蔵大明神社領復興請願書)

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

因伯地理志 (享保丙午5月(享保12年) 佐藤長通)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)

因伯古城跡図志下 伯耆国(文政元年 鳥取藩)

日南町史 自然・文化(昭和59年3月 日南町史編纂審議委員会)

続日南町史 地域編(令和2年6月 日南町史編纂委員会)

日野町誌(昭和45年5月 日野町誌編纂委員会)

日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

黒坂開元記抄(江戸時代編纂 著者不明)

樵濯集(昭和48年7月 栗木尚謙)

年 表

平安時代

日野郡の在地国人、日野氏の本拠地が当城の始まりと推測される。

1337年以降

建武4年 / 延元2年以降

山名時氏が伯耆国守護職であった頃の築城と推定される。(日南町史)

室町時代前期

山名豊幸日野山名氏の五代当主)による築城を伝える。

不明

日野山名氏が尼子方へと与する。

城主は引き続き山名藤幸とされるが、後に中井久家米原綱寛ら尼子方の重臣が置かれている。

1558年~1559年頃

永禄元年~永禄2年頃

山名藤幸尼子氏から離反し毛利氏へと与する。

同年10月~11月頃、毛利方の信用を得るため山名藤幸から毛利方へ人質を差し出すよう家臣団から進言が行われている。

山名藤幸は一旦国外へと退去し、備後国の宮氏を頼ったとされる。

1562年

永禄5年

6月、毛利方の宮景盛山名藤幸中井久家米原綱寛を撃退し当城を奪還すると山名藤幸が再び城主へと任じられる。

1563年

永禄6年

7月、伯耆国河岡城周辺へ毛利方の援軍として山名藤幸が出陣する。

無防備となった日野郡の守りには上原豊将が遣わされている。(毛利元就書状 (粟屋勘兵衛家文書))

1569年

永禄12年

山名藤幸が毛利方から離反するが宮景盛によって討ち取られている。 (日野の逆心)

山名藤幸の死後は宮景幸日野山名氏の家督を承継し、日野景幸を称する。

日野郡が毛利氏の領有になると吉川氏の代官として日野景幸宮景幸)が城主となる。

1600年

慶長5年

吉川広家の岩国転封まで久志路氏が代官として城番を務めたとされる。

1601年

慶長6年

中村一忠が伯耆国の領主となる。諸説あるも中村家の代官は不明。

1610年

慶長15年

中村家の断絶により関一政が日野郡5万石を拝領し城主となる。(伯耆志、伯耆民談記他)

1614年

慶長19年

伯耆国鏡山城の完成を以て関一政鏡山城黒坂城)へ移転することとなり、当城は廃城とされる。(伯耆民談記)

※翌年の一国一城令の発布を以ての廃城とも伝える。

概 略

標高470m、亀井山の山頂(字「城根」)に主郭が所在する。

亀井山の北を日野川、西を石見川が流れ、川側に接する山岸は何れも険峻な切岸状となっていることから天然の要害を成している。

(日南町史では西に日野川、南に石見川とする)

 

因伯古城跡図志下 伯耆国

生山村亀井山古城跡。関長門守居城。其後黒坂へ引由。竹木草有。巌岩にて嶮岨也。高七十一間位。麓より上り百四十間計。山の形余程大也。山下に大川有。西北の間下石見村。谷より出る川有。同村へ通山道有。古城山下谷幅狭。

・表丑寅

・山の後へ七間、四方の平ル有

・此辺(郭(チ)と郭(ヲ)の辺り)へ井有

・此所(主郭イより南)四十間下り堀切有

・(堀切より先)此山古城より高し

 

因伯古城跡図志には生山村の亀井山古城跡とする図示があり、概ねの形を現在まで保っている。

主郭(郭イ)と二ノ丸(郭ロ)にのみ石垣が図示されている。

 

因伯古城跡図志下 伯耆国(西連郭群)

イ、長十七間、横十二間(主郭)

ロ、長二十六間、横八間(二ノ丸)

ハ、長五間、横三間(二ノ丸北腰郭(上)…東郭群への接続郭)

ニ、長六間、横四間(二ノ丸北腰郭(下))

ホ、長二十五間、横十二間(三の丸)

ヘ、長七間、横六間(三ノ丸北腰郭(上))

ト、長九間、横五間(三ノ丸北腰郭(下))

ル、長七間、横四間 (主郭南出丸)

 

因伯古城跡図志下 伯耆国(東西接続郭)

ヲ、長十一間、横五間 (東西接続郭)

 

因伯古城跡図志下 伯耆国(東連郭群)

チ、長七間、横四間(東郭群頂部…西郭群への接続郭)

リ、長五間、横三間(接続郭北腰郭(上))

ヌ、五間四方(接続郭北腰郭(下))

 

因伯地理志 日野郡生山古城址

生山本城 山面西城門西 関長門守居之

本丸 高一町二十七間

自山下到本丸六町五十六間、南北八間、東西四十四間、有池谷水入少、有古井無水渠、有土寺無石壁。

二丸

西為門下於本丸十間、東西六間、南北四十間、本丸二ノ丸周囲十一町四十間。

有大川入城山之西、廣十一間水深二尺五寸、池水之南北東有。山之有谷切距。本丸十町許。

当本丸之巽有山。山脚相連有湟。此山高於本丸三十間許。其間三町。

 

亀井山の西側頂部を主郭としているが、堀切を隔てた南側の山頂の方が本丸より高いことが特記されている。

大手(表)は北東(丑寅)側、主郭の西連郭群と大手の東連郭群との接続郭付近には井戸の存在が記されている。

主郭と北側の一段下の郭(二ノ丸)が石垣造りであったことも判り、主要な郭の広さも記載されている。

主郭から南側に40間(約73m)の所には堀切と出丸の存在も図示されている。

 

大手とされる北東の尾根から主郭へ進むと道中に幾つか窪みが見え、日南町史では井戸跡と伝えている。

因伯古城跡図志に記されている位置からやや低い場所にも見つけることができるため複数の井戸があった可能性も推測される。

残存状態は良好だが、道中の目立つ場所に所在し、何れも低い箇所に切れ目が入っていることから井戸跡ではなく炭焼窯跡である可能性が高い。

一説に大手からすぐの場所、虎口に対する土塁を持った郭跡(郭リ)を居館跡とする説も見えるが、井戸跡との位置関係を考えるとやや距離と高低差がある印象を受ける。

 

主郭と二ノ丸以外に石垣の図示はなされていないが、東西接続郭(郭ヲ)にも石垣が見え、主郭も天守台のみではなく西側の腰郭まで石積みが認識できる。

天守台は全面、その西側腰郭や二ノ丸、東西接続郭は北面に向けて重点的に石垣の普請が施されていることから、城下町や街道からの遠望に対して政庁としての様相を際立たせたかったとする意図も考えられる。

一説に石垣の普請時期を慶長年間の日野銀山開発と同時期とする推測もある。

当時の日野銀山は吉川氏の領有であったが、亀井茲矩が独断で試掘を行った上に銀山の存在を豊臣秀吉へと報告しており、豊臣秀吉から亀井茲矩に対して開発許可の朱印状が発給されている。

吉川広家安国寺恵瓊に取次ぎを依頼し、1596年(文禄5年)9月に日野之内銀山の経営権を得たとするが慶長年間も亀井茲矩による銀山開発が続いており、是次村から銀山村が分村されている。(伯耆志)

 

城の興りに関して不明な点も多いが、平安時代頃より日野郡には在地の土豪、日野氏が勢力基盤を築いていることから「日野本城」とも称され、日野氏の拠点が古くから存在していた可能性が伺える。

築城については時期が不明瞭ながら以下の説が見える。

・1337年(建武4年 / 延元2年)頃、山名時氏が伯耆国守護職を在任した頃の築城。(続日南町史)

・室町時代前期、山名豊幸日野山名氏五代当主)による築城。

 

山名豊幸については日野山名氏の五代当主とされるが一部の山名氏系図にしか登場せず、五代当主を山名是幸とする系図も見える。

日野山名氏の四代当主は伯耆国米子城飯山砦)を築いたとされる山名宗幸であり、活動時期は室町時代後半となる。

伯耆山名氏の系図に登場する山名豊之とも別人物と考えられるため、後者の説に関しては築城時期と併せて要検討。

 

伯耆民談記 巻之五 一、生山八幡宮

同郡(日野郡)生山村

当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女、福姫誕生の所、柴瀧にありといえり。此地に生れ給うを以て生山と称すとかや。又、当山に古城趾あり。久志和泉守景行居城なりしと云えり。

 

伯耆志 生山村の条 産土神八幡宮の項

当社もと古城趾亀井山に在りしが当城廃転の後、今の社地に移すといえり。古城主の事并廃転の年紀等下に記す。如此往古は城内に勧請有りしを以て按に城主山名氏、関氏等の信仰によりて当社を勧請せるなるべし。棟札は寛文十二年の度を始とす。是社頭今の地に移せし年ならん歟。斯て伯耆民談記に当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女、福姫命、爰に誕生ありしによりて後世是を生山と号し、又、村名に及ぶと云うは例の妄誕なるべし。天皇及び皇女の御事、樂々福大明神の下に辨ず。

 

伯耆民談記では生山の地名の由来として八幡宮の山上で福姫命が誕生したことに因むとしているが、伯耆志では全くの妄談と伯耆民談記の記述を否定している。

 

1524年(大永4年)、大永の五月崩れによって日野郡内では伯耆国不動ヶ嶽城が落城とある。

日野郡内に勢力基盤を持つ日野山名氏については伯耆山名氏と共に尼子氏へ抵抗した説、伯耆山名氏の衰退が見え始めた頃には既に尼子方へと与した説の双方が見える。

日野衆(日野山名氏日野氏進氏蜂塚氏原氏)は伯耆国が伯耆山名氏の支配下であった頃から尼子方に与する一族も多く、日野郡内の主要な城郭とされる当城や進氏の拠点、蜂塚氏の伯耆国江美城などは大永の五月崩れにによる落城の描写が見えないことからも後者の説が有力と考えられる。

日野山名氏が尼子方に与して暫らくは城主として山名藤幸の在城を伝えているが、後に尼子方の重臣であった中井久家米原綱寛が城番に置かれている。

 

萩藩閥閲録 毛利元就 毛利隆元 連署書状

伯州之儀日野本城之事、山名摂津守殿久代出候而仕取候。雲州番衆中井平三兵衛尉、米原平内罷退候。

 

1558年~1559年(永禄元年~永禄2年)頃、山名藤幸は尼子方を離反し毛利方へ与することを画策しており、同年10月~11月頃には毛利方の信用を得るための方策として人質を毛利方へ差し出すよう家臣団から進言を受けている。

尼子方から離反するが自前の戦力のみで当城を取り返す事は叶わず、一旦は国外へと退去し備後国の宮氏を頼ったとされる。

 

1562年(永禄5年)6月、山名藤幸は毛利方の宮景盛に従い当城を攻撃し、中井久家米原綱寛ら尼子方を撃退している。

毛利氏からは日野(当城)、会見(伯耆国尾高城)を所領として与えられ、以降は対尼子戦線に軍役とある。

 

毛利元就書状 (粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録))

急度令申候、伯州河岡表富田衆切ゝ相勤候。

然間、此時は久代、神辺摂州河岡至近所被差寄、在陣候わてば彼両城難持候。

就其久代、神辺事是非共早ゝ至彼境、可被打出之由申遣候。

日野之儀打明候、左候えば日野之儀も境目にて大事候。第一伝之儀干要在所候条。一勢置候わて不叶事候。然間上原事を御頼あり。頼候て一日も早ゝ日野へいたし度候。

就夫急度令申候、しかじかたるべき御使者を御出し候て、是非此時到日野出張候て馳走憑被入通。早ゝ可被仰遣候。少も不可有御延引候。只今河岡一大事候。彼両城不慮候えば伯州一園無曲条。摂州、久代、神辺事は跡之儀も伝之儀も不入候。

一日も頓に河岡へ可被罷出之由追ゝ申遣候条。

急度又上原日野に在陣候様に堅可被仰遣候。彼表火急之儀候条。延引候ては曲有間敷候。呉ゝ返ゝ此時上原御頼之由、追ゝ可被仰遣候候。急候間いかが申候哉。恐ゝ謹言。

七月廿三日 元就(御判)

隆元

 まいる申給え 右馬頭 元就

 

1563年(永禄6年)7月、伯耆国河岡城周辺での戦では杉原盛重宮景盛と共に山名藤幸が毛利方の援軍として出陣している。

山名藤幸は日野郡内のほぼ全ての戦力を率いて援軍へ向かっており、無防備となった日野郡の守りには上原豊将が遣わされている。

上原豊将は日野郡内に陣を構えたとあるが、山名藤幸の留守と入れ替わる形で派遣されているため当城に在陣したと推測される。

河岡城周辺で山名藤幸が対峙した尼子方には同じ日野衆であった蜂塚氏の軍勢があり、且つての同胞と同士討ちになったこの戦が後の山名藤幸の叛心(日野之逆心)に繋がった一因とも推測される。

 

1568年(永禄11年)、杉原盛重が発給した書状に「生山表」で敵宗徒を鉄砲で攻撃した旨の記述が見えることから、永禄年間頃は「生山」と記されていたことが伺える。(萩藩閥閲録所収 杉原盛重書状 永禄十一年五月四日)

 

1569年(永禄12年)、尼子再興軍に呼応して山名藤幸は毛利方を離反する。

尼子再興軍の出雲国侵攻を支援するため親尼子派の在地国人衆(日野衆)と共に反旗を翻したが、山名藤幸宮景盛によって討ち取られている。

山名藤幸の死後は宮景幸日野山名氏の家督を承継し、日野郡が毛利氏の領有になると吉川氏の代官として宮景幸が当城の城主に任じられている。

 

伯耆志 生山村の条 古城の項

亀井山と号す。土人の説に天正中、吉川広家当城に住し(原本此所庄山之図あり省略之)、其後山名和泉守景行又当城に在りと云えり。按るに吉川氏は天正十六年、雲伯数郡を加贈せられ出雲富田城(今松江の支封廣瀬)に在しが慶長五年、富田を去て今の岩国に移封せらる。然れば当時、吉川氏当城にある事無し。又、其後、山名和泉守景行此に居すと云えるを民談記には久志路和泉守景行とす。久志路は一に久代に作る備後国西條の城主、宮氏別称なり。是に因て思うに宮氏、天文中、毛利氏に属して多里宿に在り(多里亀尾山古城の下見合すべし)。其後、天正中に及び吉川氏、富田城に在て久志路氏をして当城を守らしめ、其附属とせしものならん歟。久志路は上に云う如く宮氏の別号なれば同氏の支族多里宿に在る者の一族なるべし(霞村久代の條考え合すべし)。さて又、吉川の後、山名氏当城に在と云うも慶長五年、吉川移封の後は明年、中村氏伯州一円の受封なれば同族の臣属の外、此地に居する者ある可からず如。斯なれば山名といえるは民談記に久志路とある方正しく、其久志路は吉川の附属にて天正年間より慶長五年まで当城に住せしものなる可し。其後、慶長五年、中村氏受封より同十四年、断絶の後、翌十五年、勢洲亀山の城主、関長門守一政、当国にて五万石を領し当城に移り、同十九年、黒坂城に移住して後、当城荒墟となれり。

 

1600年(慶長5年)、吉川広家の岩国転封までは久志路氏が代官として当城の城番を務めたとされる。

地元の口碑に吉川広家の在城を伝えるが、伯耆国米子城と同じく雲伯領主という広義であり、吉川広家の在城を否定している。(伯耆志)

 

1601年(慶長6年)、吉川広家が岩国へと出発し、代わりに中村一忠が伯耆国の領主となる。

吉川広家の転封後は日野山名氏が再び在城したとも伝えるが中村家の家臣以外による統治は考えられず、日野山名氏久志路氏とも推測するが久志路氏は1600年(慶長5年)までの在城とされ、何れの説も否定されている。

これは宮景行が元々は宮氏久志路氏)であったが、山名藤幸の家督(日野山名氏)を継承し、日野氏を名乗ったことが混同の原因になっていると考えられ、何れも同一人物とされる。

中村家による生山周辺の知行に関する詳細は不詳で、代官として統治した人物も不明となっている。(伯耆志)

 

1610年(慶長15年)、中村家の断絶により関一政が日野郡5万石(5.5万石、6万石と諸説あり)を拝領し、当城へと入城している。(伯耆志、伯耆民談記他)

一説には当城へは入らず直接伯耆国黒坂城(或いは伯耆国黒坂要害山城)に入ったとする説も見える。

関一政の伯耆国移封に関する説では当時の黒坂周辺は松林が広がり、人の住めるような場所ではなかったとするなど中村一忠米子城へ入る際と同じ描写も見られる。このため関一政が何処を仮住まいとしたか不明となり、日野本城と推測される当城や黒坂要害山城が候補に挙げられている。

 

日野郡史 上巻(大蔵神社社領証文写)

大蔵大明神宮山森之竹木一切きり申事かたく相留候殊に銀山用木等少しもきるまじき者也

慶長十八年五月廿七日 関主馬正書判

 

日野郡史 上巻(文政三年社領復興請願書袖控抄)

一、日野郡下石見郷六ヶ村大社大蔵大明神之儀者往古日野郡生山之城主関主馬正様別格被遊御信仰候云々

(略)文政三年辰五月日 相見市正

 

1613年(慶長18年)、大蔵大明神の社領証文では社地内の竹木の処置について関盛吉より指示が為されている。(日野郡史)

 

1614年(慶長19年)、伯耆国鏡山城の完成を以て関一政黒坂城へ移転することとなり、当城は廃城とされる。(伯耆民談記)

 

1615年 (元和元年)、江戸幕府の一国一城令の発布を以ての廃城とも伝える。

 

1672年(寛永12年)、亀井山の山頂に鎮座する八幡宮が現在の生山神社の地へ移転されたと伝える。(続日南町史)

 

1820年(文政3年)、大蔵大明神の社領復興請願書では当城の往古の城主を関盛吉としている。(日野郡史)

写 真

2023年5月3日

JR生山駅(北西側)からの遠望

北西側遠望

登り口から北側の谷部

北側谷部

東尾根郭跡(ヌ)

郭跡(ヌ)

東尾根郭跡(ヌ)

郭跡(ヌ)

東尾根郭跡(ヌ)

郭跡(ヌ)

東尾根郭跡(リ)付近井戸跡

郭跡(リ)

東尾根郭跡(リ)付近土橋

郭跡(リ)土橋

東尾根郭跡(リ)喰違虎口

郭跡(リ)虎口

東尾根郭跡(リ)土塁

郭跡(リ)土塁

東尾根郭跡(リ)土塁

郭跡(リ)土塁

東尾根郭跡(リ)居館跡

郭跡(リ)館跡

東尾根郭跡(リ)居館跡

郭跡(リ)館跡

東尾根郭跡(リ)居館跡

郭跡(リ)館跡

東尾根郭跡(チ)東接続郭

郭跡(チ)

東尾根郭跡(チ)東接続郭

郭跡(チ)

東尾根郭跡(チ)東接続郭

郭跡(チ)

東尾根郭跡(チ)付近井戸跡

郭跡(チ)

東尾根郭跡(ヲ)東西接続郭

郭跡(ヲ)

東尾根郭跡(ヲ)東西接続郭の石垣

郭跡(ヲ)石垣

西尾根郭跡(ト)

郭跡(ト)

西尾根郭跡(ヘ)

郭跡(ヘ)

西尾根郭跡(ホ)

郭跡(ホ)

西尾根郭跡(ホ)

郭跡(ホ)

西尾根郭跡(ニ)

郭跡(ニ)

西尾根郭跡(ニ)

郭跡(ニ)

西尾根郭跡(ハ)から二ノ丸の石垣

郭跡(ハ)

二ノ丸(ロ)

二ノ丸(ロ)

二ノ丸(ロ)

二ノ丸(ロ)

二ノ丸(ロ)西側の竪堀

二ノ丸(ロ)竪堀

二ノ丸(ロ)から本丸(イ)切岸

二ノ丸(ロ)

本丸(イ)切岸

本丸(イ)

本丸(イ)主郭部

本丸(イ)

本丸(イ)主郭部

本丸(イ)

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北枡形虎口

本丸(イ)虎口

本丸(イ)主郭北東隅石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭北東隅石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)西側虎口と腰郭

本丸(イ)虎口

本丸(イ)西側腰郭

本丸(イ)腰郭

本丸(イ)主郭北西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭北西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭北西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭北西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭西石垣

本丸(イ)石垣

本丸(イ)主郭南切岸

本丸(イ)切岸

本丸(イ)主郭南切岸

本丸(イ)切岸

本丸(イ)主郭南堀切(小)

南堀切(小)

本丸(イ)主郭南堀切(小)

南堀切(小)

本丸(イ)主郭南堀切(小)

南堀切(小)

本丸(イ)主郭南堀切(大)

南堀切(大)

本丸(イ)主郭南堀切(大)

南堀切(大)

本丸(イ)主郭南堀切(大)

南堀切(大)

本丸(イ)南側岩盤の矢穴

南側岩盤矢穴

本丸(イ)南側岩盤と矢穴

南側岩盤矢穴

堀切先の南側郭跡(ル)

郭跡(ル)

本丸(イ)主郭南側の石垣

本丸(イ)南石垣

本丸(イ)主郭南側の石垣

本丸(イ)南石垣

本丸(イ)主郭南側の石垣

本丸(イ)南石垣

写 真

2013年4月14日

東側からの遠望

東側遠望

旧市役所からの登り口

登り口

東側山中の石積(鉄網で固定)

東側石積

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